第16話 フカセ釣りの達人

 月日が過ぎて功が田舎暮らしに慣れた頃、ニラの出荷調整作業の研修が始まった。

 功の隣では真紀も同じ作業をこなしている。

「いいか、出荷調整というのは、ニラの外葉を取って綺麗にするのと同時に、一束100グラムの束を作って輪ゴムで束ねて農協の特殊包装材の袋に詰めるまでだ。いかに短い時間できれいに仕上げるかを考えてやってくれ」

 功たちに指示しているのは野口で、功と真紀は現地農家研修として、同じ地区内にある野口の家に研修に来ているのだ。

「ニラの販売量が増えるかどうかは、栽培技術に加えて、この出荷調整作業をどれだけこなせるかが鍵を握っている。俺が雇っているパートの皆さんは一日に400袋近く詰める非常に優秀な方がそろっているんだ」

 指導係の野口は、近所の人に加えて、わだつみ町の町中で、コンテナで持ち込まれたニラを自宅で出荷調整作業する人も加えると常時五人以上雇っている。

 彼は実は10アール辺りの出荷量が年間で10トンを超えるトップクラスのニラ栽培農家なのだ。

 野口は続けた。

「俺の販売量を左右する要因の一つは出荷調整のおばちゃんの腕の良さだ。だからおばちゃん達は大事にしているつもりだ。他の農家に引き抜かれないように年に一回は慰安旅行に連れて行くぐらいだ」

「でも野口さんが費用をもって旅行に連れて行ったら結構お金がかかるでしょう」

 貧乏性の功が聞くと、野口は笑った

「わかってないなあ、それぐらい福利厚生費として経費で落とせるから俺の懐はそんなに痛まないんだよ」

 野口は余裕で答え、話だけを聞くと簡単そうだが、彼の言葉には謙遜もあるようだ。

 野口のハウスを訪ねてよく見ているといろいろなところに密かに手を加えて工夫した痕跡があった。

 燃料代の高騰のせいで無加温で栽培する人もいる中で野口は省エネ型加温機を導入して、夜間のハウス内の温度を一定の温度以上保っている形跡があった。

「最近重油が高いのに何で野口さんは加温しているんですか」

 野口は感心したように功を振り返った。

「お前見かけによらず鋭いな。このビニールハウスは冬でも締め切っておいたら昼間の温度は三十度以上になるのは知っているだろ」

 功は出荷調整作業をしながらうなずいた。

「すると、昼間は換気をして夜は開口部を締めて保温しても昼夜の温度差はかなりあるのでニラの葉っぱの先に結露して水滴ができてしまうんだ。もし明け方の冷え込みでこの水滴が凍ってしまうと葉っぱの先は黄色く変色する。そうなると出荷するときの等級が2ランクも落ちてしまうので、販売額はがた落ちになる。」

 野口は実際に葉先が黄色くなった株を功に見せてくれた。

「それに加えて、灰色カビの予防とか、夜温をあげた方が葉っぱの伸びもいいとかいろいろなメリットを秤にかけると、設備投資や燃料のランニングコストを考慮しても加温した方が良いと結論に至ったわけだ」

 その時、野口の腕時計がピピッと鳴った」

「はい作業時間終了。今の10分間でできた袋数から3時間作業した時の袋数を計算してみて。そしてそれをプロの方々と比べて彼女たちの実力を理解してください」

 功は自分の作業では3時間に換算すると100袋も仕上がらないことに気が付いて愕然とした。

「それでは10分間ほど休憩時間にしようか。」

 野口が休憩を宣言しての10分間の休憩となり、功が作業場から出て外の空気を吸っていると、後ろから野口の声が響いた。

「功ちゃん、真紀ちゃんを誘って釣りに行く話はどうなっているのかな」

「あっ!」

 功はわだつみ町に来た最初の日に野口に仰せつかった約束をすっかり忘れていた。

 功は野口の方に振り返ると、愛想笑いを浮かべて言った。

「ちょっと彼女の都合を聞いてくるから待っていてくださいね」

 功は野口の作業場で椅子に座ってくつろいでいる真紀を見つけると、耳元でささやいた。

「この前、野口さんと喜輔で飲んだ時に釣りの話が出たのを覚えている?」

「ああ、覚えているわ。イサギとかタイが釣れるって話だったと思うけど」

「野口さんが僕と真紀ちゃんに一緒にいかないかって言っている。道具は僕たちの分も用意してくれるって」

「ほんと?。行く行く。前から釣りに行きたいと思っていたのよ」

 彼女は椅子から立ち上がった。

「丁度、野口さんもいるから日程を詰めようよ」

 功が先に立って歩くと彼女もいそいそと後に続く。

 功は、三人で日程の打ち合わせをしているときの野口の嬉しそうな顔が妙に印象に残った。

 農業研修生の研修は土日は休日となっている。

 山本事務局長に言わせると、休日の間に農地を探したりその他諸々の地元との調整をしなさいというのだが、指導農家と親睦を深めるために釣りに行くのも調整の範疇に入るに違いない。

 今回の釣行は土曜日の朝四時半に、功が車を出して野口を彼の家の前でピックアップし、途中で真紀も拾ったうえで松の浦という漁港から釣り筏に行くことになっている。

 約束どおりに、朝四時半に野口の家まで行くと、既に玄関には明かりがついていた。

 野口家の庭先に車を止めて玄関まで歩いていくと、気配でわかったのか玄関の戸を空けて野口が顔を出す。

「おはよう、約束の時間に来てくれるから上出来だ。今日は車も出してもらって申し訳ないね。俺の車はクーラーが乗らないし、軽トラでは3人乗れないからどうも具合が悪くてね」

「いいんですよ、惜しげのない車だから。それより釣り道具まで準備してもらって申し訳ないです」

「気にしなくていいよ。君は彼女を誘い出してくれた功労者だからな」

 野口はやたら大きいクーラーや、数本の釣竿を功の車に積み込みながら機嫌よく言う。

「さあ行こうか、途中でエサと氷を買っていくぜ」

 ナビシートに乗り込んだ野口君は、功がダッシュボードに貼り付けていたガンプラに気がついた。

「あ、これってサクだね、噂に違わずアニメおたくなんだな、後ろにMSー06とかステッカー張ってあるから何だろうと思ったけどどうせモビルスーツの型番だろ。車のボディーカラーもこいつと一緒だし」

「えへへへ、そんなところですね」

 野口の観察眼が意外と鋭いのに功は驚いたが、ダッシュボードのサクに気づいてもらえたのはちょっとうれしいところだ。

「さあ行こうか。本当はここから山越えで行った方が近いけど、真紀ちゃんを拾うから一旦わだつみの町まで行くよ」

 地名がまだよくわからない功は言われたままに、わだつみの町に車を乗り入れた。

 野口は釣具屋で、電話で事前予約して、ほどよく解凍されたエサを仕入れた。

 町はずれにある真紀の叔母宅まで迎えに行くと真紀も既に起きて待っていたが、彼女は朝は苦手らしく、半分寝ているような雰囲気だ。

 わだつみの町を抜けて海岸沿いに細い道を走ると、芸術家が作ったオブジェじみた構造物が見えてきた。

「その建物は、海水を濃縮して塩を作っているんだよ」

 野口が功に教えていると、目が覚めてきた真紀が後部座席から身を乗り出す。

 野口君が指示する方向に行くと道は急斜面をつづれ折りに登り始めていた。

「釣りに行くのに山の上に行くんですか」

 功の疑問に野口は苦笑した。

「一旦登ってからもう一度海岸まで降りるんだよ。海岸線が険しくて道がないから松の浦に行くにはこのルートしかない。」

 走るうちに、車は坂を登り切り尾根の上に到達した。

 夜が明けかけた東の空が赤く染まり、暗い海とのコントラストが際だっている。

「その緑のやつをアニメのゲロロ軍曹で見たことがある。何て言うんだっけ」

 明るくなったので彼女もダッシュボードのガンプラを見つけたのだ

「それはサクⅡだよ。」

 ゲロロ軍曹とは地球侵略に来たカエル型宇宙人の物語だが、劇中でガンプラを作るシーンがよく出てくるのだ。

「ゲロロ軍曹って何?」

 野口君の質問を聞いて真紀がのけぞる。

「何でげロロ軍曹を知らないの。それぐらい誰でも知ってるでしょ」

 そう言われてもきょとんとしている野口君を見て功が説明した。

「この辺はゲロロ軍曹を放送していたテレビ局のキー局がないんだよ。多分テレビ放送されていなかったのではないかな」

 それを聞いた真紀はショックを受けたようだった。

「そういえば最近ニュースサテライトも見た記憶がない。そんなことに一年以上も気がつかなかったなんて」

 それほど驚かなくてもいいような気がするが、彼女にとっては一大事だったようだ。

 功の運転する車は綴れ折りになった急な坂道を下り、小さな港がある集落に着いた。

 港からは渡船で釣り筏に渡り、三人が釣り筏に降り立った時にちょうど東の水辺線から太陽が昇ろうとしていた。

「今日はシンプルな仕掛けにしたけど、これで沢山釣るぞ」

 野口君が功たちのために竿にリールと仕掛けをセットして渡してくれたが、仕掛けといえるようなものは糸の先に付いている針だけだ。

「これって針しか付いてないんですけど。ウキとかおもりは付けないんですか。」

「功ちゃんフナ釣りじゃないんだからさあ、だまされたとおもってそれでやってみな。そのラインはフロロカーボンで高いんだから。天秤仕掛けとかおもちゃみたいなのを使うより絶対食いがいいよ」

 野口は功に説明しながら柄杓で撒き餌の赤アミとオキアミをミックスしたものを撒き、巧みに竿を操って糸を送り出している。

 功と真紀は見よう見まねで同じようにするが実は結構難しかった。

「ラインの比重が水の比重に近いから、撒き餌と同じ速さで流せるんだよ。こうやって竿を振ってラインにたるみが出た分を水面に落とせばうまくいくよ。今日は棚は五十メートルぐらいと思っておいて」

 黙々と竿をふること十分以上、そろそろ飽きてきた頃に野口の竿がヒュッと鳴った。

 次の瞬間に竿は弓なりに曲がっていた。

 何かがヒットしたわけで、野口君は慣れた様子で竿を立てながらリールを巻き取るが、時々ジャーっと音がしてラインが引き出されていく。

 ラインを切られないように一定以上の力がかかるとリールのドラグ機能が効いて魚がラインを引き出しているのだ。

 ぼんやりと野口の様子を見ていた功に真紀ちゃんが声をかけた

「それ、引いてるんじゃないの」

 真紀に指摘されて功が慌てて竿を立てると、竿を持つ手に魚の動きが感じられた。

 功があわててリールを巻こうとすると、野口が叫んだ。

「大きいぞ、竿を立ててしばらく泳がせろ。あわてて巻くとラインを切られる」

 魚は海面下五十メートルにいるのに強い引きで左右に走っているのがわかる。

 一生懸命に竿を立て、それから竿先を下げながらリールを巻こうとするが、ドラグが効いて引き出される方が多いくらいだ。

 傍らではいつの間にか獲物を寄せてきた野口がタモを手にしている。

 左手で竿を操って魚を寄せた野口君は一気にタモで魚をすくうと、網から半分ほどしっぽが出た状態で、筏の上に放りあげた。

 六十センチメートルを優に超える魚体が筏の上をはねる。

「それ、ひょっとしてマグロですか。」

「あほ、カンパチだよ知らないのか。」

 野口に一喝されたが、功にとってカンパチとは回転寿司の皿に乗っている白とピンクの切り身のにぎり寿司しかイメージがなかった。

 ブリとカンパチを食べ比べて区別が付くかもすこぶるあやしい。

 野口君はナイフをサクッと突き刺してカンパチを活け締めすると港の自動販売機で大量の氷を入れてきたクーラーに放り込んだ。

 その間も功と魚の攻防は続いており、まだまだ抵抗しているが少しずつ、弱ってきているのがわかる。

 その横で真紀が叫んだ

「な、なんか来てるみたい」

 彼女の竿も竿先が水面に近づくほどたわみ、大物を予感させた。

 筏で釣りと言われて。小アジでも釣るのかと思っていた功の予想はいいほうに裏切られていた。

 彼女も大物の手応えに懸命に竿を操っているがしばらくすると、急に手応えが無くなった気配だ。

 カリカリとリールを巻き上げるとラインの先には針も何も付いていなかった。

「岩場に潜り込まれてばらしたね。仕掛けをつけ直すから貸して」

 野口君が道具箱から釣り針を取り出しているようだが、魚の相手に一生懸命の功はそちらを見る余裕がない。

「すごい引きだったけど、私のもカンパチだったのかしら」

「多分そうだ。ちょうど群れが回遊してきたんだね。これが、釣り針を付けるときの内掛け結びだからそのうち憶えてよ」

 野口君が真紀の世話をしている横で、功は地道にリールを巻いていた。

 そして力尽きた魚が大きな輪を描きながら次第に水面に近づいてくるのが見える。

「野口さんタモ貸して。あがってきたよ」

「あ、こいついつの間にか寄せてきてる。もう少し巻いてからこっちまで引っ張ってこいよ」

 野口がタモで取り込んだのは、七十センチ近いカンパチだった。よく見ると頭にひどい傷が付いている。

「ほら、こいつも根に潜り込んでラインを切ろうとしていたんだ。よく上げたもんだね」

「飲み込んでるみたいで針がとれないんですけど。」

「ラインを切ったらいいよ。いま真紀ちゃんの分を付けるから結び方を見ておいて。針はこれを使って。」

 功は野口の結び方を見て、見よう見まねで針にラインを結ぼうとしたが結構難しい、一回失敗して再びトライし、薬指や小指も動員してなんとか成功したが、見ていた野口君は苦笑していた。

「器用なのか不器用なのかわかんないやつだな。エサのオキアミはしっぽを切ってから二匹がけにしよう。まださっきの群れがいるかもしれないから頑張るぞ」

「今度は私も釣るわよ。」

 真紀は一人だけ逃げられたので悔しそうだ。

 仕切り直した功たちは。先ほどのカンパチの群れをもう一度補足しようとしたが、彼らもそういつまでも同じ所に留まってはくれなかった。

「なんでオキアミのしっぽを切るわけ?」

 当たりがなくなり、暇になった真紀が野口に尋ねる。

「しっぽを付けたままだと水の抵抗を受けてクルクル回るから不自然な動きになるんだ」

 当たりが無くなったため、功達はとりとめのない話をしながら思い思いにリールや竿を操っていた、それでも野口は合間にクロダイやヒラアジをちゃんと釣っているからさすがだ。

 そのうちに、功の竿に久々に当たりがあった、先ほどのようながつんと来るような引きではないが、リールを巻くのは結構骨が折れる。水面まであげてみると三十センチメートルほどの何だか平べったい魚だ。

「なんですかこれ、ひょっとしてマンボウの子供?」

「ウマヅラハギだ、結構おいしいよ。今の何メートルぐらいで当たりがあったかわかる?。」

「六十メートルくらいでしたね。」

 功はリールの表示を見ながら答えた。

「底の方も少し流れがあるね。いい具合だけど、五十メートルぐらいのところで釣ってみようか。」

 釣りに詳しい人なら餌取りが多くなったので棚を上げるとか言うのだろう。

 功達が餌も変えて少し浅いところで釣り始めたところで、今度は真紀の竿が大きくしなった。

「きたっ。何かきたけどさっきのと手応えが違う。ウマヅラハギの大きいやつかしら。」

 リールを巻きながら真紀が叫んでいる。その横で野口が自分のラインを巻き上げてからタモを構えていた。

「違う違う。大物がかかってるから慎重に上げて。」

 確かにカンパチのような走り方ではないが、力強い引きが続いている、少しづつ、少しづつ水面まで上げてきた魚体は鮮やかなピンク色だった。

「鯛だ。五十センチはある」

 頭からタモですくった鯛を筏に引き揚げた野口君は功に言った。

「写真撮っってあげてよ。あんたの携帯なら綺麗に撮れるだろう」

 野口はまだ時々暴れる鯛を怖がる真紀の両手に持たそうとしている。

 スマホを出した功はカメラを起動すると二人の方に向けた。

 鯛を抱える真紀と隣でVサインの野口。

 クローズアップした真紀のポートレイトカット。

 そして鯛がビチビチとはねて驚く二人。

 功は、失敗した写真は後で消せるからと思い立て続けに撮影しながら、真紀が素で笑うとこんな顔をするのだと少し場違いなことを考えていた。

 大物が釣れた釣行は盛り上がる。

 野口君は獲物を肴に自分の家で宴会しようとしきりに誘っていたが、真紀はおばさんに自慢したいからと、大きな鯛を抱えて家に帰っていった。

 結局、近所の功だけが野口家にお呼ばれする格好になった。

 機嫌よくビールを注いでくれる野口に、ニコニコしながらおもてなししてくれる彼のお母さん。

 釣ったばかりのカンパチやイセギの刺身は弾力のある歯ごたえで功がかつて食べたことがない美味しさだった。

 夜も更けて席を辞するときには、野口は自分で釣った魚は持って帰れと、三枚におろしたカンパチとウマヅラハギを持たせてくれた。

 大きめのボウルからベロンとはみ出した魚の切り身を眺めながら、これをどうやって食べたらいいのだろうと功は悩んでいた。

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