第3話

「空気うまいよなあ」

 ボートを降り、歩きながらリョウが深呼吸しながら言ったひとことで、アヤは合点がいった。あらゆる心地良の根底は、そこにあるのかもしれない、と。いつもと同じものを見ているはずなのに、青と白のコントラストが見事な青空。新緑の季節ということもあるだろうが、濃度と彩度の高い緑の草木。いつもよりもくっきりと輪郭が浮き立つような景色は、空気が澄んでいるからなのだろう。

「気持ちいいね」

 何気なく、ほとんど無意識にアヤの口から出たひとことが、リョウに満面の笑みをもたらした。渋々付き合わせているのは重々承知だ。申し訳ないといつも思いながらも、一緒に出かけて思い出を共に重ねていきたいという気持ちには勝てない。だから、アヤが少しでも、来て良かったと思ってくれるのなら、リョウにとってそれは何にも代えがたい喜びとなるのだ。青い空も白い雲も、生命力溢れる木々も輝く水面も、アヤと見ることにこそ意味がある。アヤが付き合ってくれなかったら他の人と、なんて言ったが、きっとああでも言わないと付き合ってくれないだろう、逆に言えば、ああ言えば付き合ってくれるだろうと思っての、リョウの策略だ。


 無茶苦茶突発の旅だが、こんな世の中なので前日でも宿は取れた。

 宿に着く頃、空の色はすっかり橙と紫のグラデーションを描き、大きな夕日が飲み込まれてゆくところだった。明日の旅も、晴天に見舞われ楽しいものになることを期待させた。

 新しいわけではないが広くて手入れの行き届いた宿は、旅の疲れを取るには充分だった。サービス、設備ともに及第点、といった程度の、とりたてて特筆すべき事柄もない宿であったが、食事は絶品だった。一見、ともすれば質素にも見なくない膳は、土地で採れた山菜や野沢菜、きのこをふんだんに使った、素朴な郷土料理の数々。派手でも目新しくもない。目にしただけでテンションの上がるような見た目ではないのだが……

「うんまっ! ちょ、何これ」

 リョウが絶叫する。口にしたのは、豚肉と林檎の包み焼き。

「豚と林檎なんか合うわけないやろとか思ってすんません……めちゃうまいやん……」

 狼狽えるほどの感激ぶりに、アヤも興味を引かれて一口。

「……ほんとだ」

 感動を表す様子、リョウが狼狽なら、アヤは呆然。すっかり放心状態だ。動いているのは、口の中と箸を持つ手だけ。ふたりは黙ってもぐもぐと箸を忙しなく行き来させた。


 サーモンときのこのマリネ、信州そば、豚鍋、きのこご飯、刺身、野沢菜のお漬物、茶碗蒸し、そしてついにデザートのパンナコッタにたどり着くまで、二言三言話したかどうかといったところだ。

「はあ……めっちゃ腹膨れたけどもっと食べたいぐらいや……」

「どうしてただの漬物があんなにうまいんだろ……」

 普段は漬物を出されたって別にテンションが上がるわけでもない、なのに申し訳程度に小鉢に盛られていた野沢菜の漬物は、今まで食べたどんな漬物より美味だった。シャキシャキとした歯ごたえ、ほどよい塩加減とあっさりした味わいは、いつまでも食べていたいと思ってしまうほどだった。

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