懐中時計と振り返る未来ー②

 古びた扉を潜った先に広がっていたのは、いわゆるアトリエと呼ばれる空間だった。無造作に置かれた石膏像、画集と題された大量の分厚い本、そしてキャンバス。部屋に一歩踏み入ると、こびり付いた絵具の匂いが鼻についた。嫌いではないけれど。


「失礼、普段は人を上げないものでな。少々片付けよう」

「私もお手伝いしましょうか?」

「気持ちだけ受け取っておこう。慎重に扱わなければならないモノもあるのさ」


 と言いつつロウリーは積み上がった画集を脚で移動させた。……え、いいの?


 数分後、部屋の一角に四方2m程度の小さな空間が出来上がった。そこにポツンと置かれた丸椅子に腰掛けるように促される。


 私がその指示に従うと、ロウリーは口髭を触りながら、早速と言わんばかりに話を切り出した。


「先程も少し話し合ったが、もう一度確認しておこう……と言っても、話は至極単純だがね。僕はデザイン用の題材がなくて困っていた。一方でカリュ君はお金がなくて困っている」


私はこくりと頷いた。


ちなみにだが、お金の使い道を聞いてもいいかい?」

「懐中時計です。店先で見つけたものに一目惚れしまして」

「ふむ、その程度なら特に問題なさそうだ。 ……カリュ君、君には僕のデザインのモデルになって欲しい。代わりにそれ相応の報酬を君に渡すことを約束する」

「二つ聞きたいことがあって……その、見積もりって出たりします?」

「はは…まぁそこは大事だろうからね。そうだな、ざっとこんなものでどうだい?」


 ロウリーはそろばんを叩き、私に見せた。


「なっ……」


 例の懐中時計はもちろん、余分で1ヶ月程度の生活費は賄える金額だ。


「君には期待しているからね。多めに見積もらせてもらった」


 腕を組み、ドヤ顔をかますロウリー。もはや私には神聖なる何かにしか映らなかった。


「ロウリー神……」

「君は何を言ってるのだね?」

「え、あ、いや……んんっ! ……私には断る理由がありません。是非お引き受けしたいです」

「ん、なら結構。 ───で、もう一つとは何かな?」

「あーその、なんで私がモデルに選ばれたのかなーと」


 アトリエの一角に備え付けられた姿見を見る。そこに写っているのは齢17になるただの女の子……つまるところ自分だ。別段綺麗なわけでも、スタイルがいいわけではないと思うのだが。


「うむ、それだがね。スーツケースを引っ張るカリュ君を見てビビッときてね。大きなスーツケースを引く華奢な美少女……デザインコンセプトとしてかなり高品質だ」

「びしょうじょ……」

「それに興味深い話が聞けそうだからね。 ……さて、そろそろデッサンに取り掛かろう」


 そう言い、ロウリーはデッサンの準備を始める。 ……私は改めて姿見を見た。手櫛で髪を梳かし、服のシワを伸ばす。 ……お化粧もした方がいいだろうか?


 緩みそうになる口元を引き締め、ロウリーに尋ねる。


「あの! お化しょ……」

「じゃあ後ろ姿を描くから、スーツケースを持ってそこの壁をずっと見ておいてくれるかね」

「え?」



 ─────────




 静閑な部屋の中、キャンバスの上を鉛筆がカリカリ走る音だけが聞こえてくる。私はその姿を見ることすら叶わず、ひたすらに壁のシミを見ていた。この形どこかで見たことあるような……確か大陸全図の……


「あ、東大陸に形似てる」

「どうしたね?」

「いえ、特には」


 一度咳払いをして私は再度背筋を伸ばした。


 デッサンが始まりどれ位経ったのだろう? 私は右手にスーツケースを持ったまま、ひたすらその場に立ち続けていた。いかんせん目の前にあるのが壁で、シミなわけだから自身が絵のモデルになっているという実感は皆無だ。


(足痛い……)


 そうやって私が一人嘆いていた時、


「カリュ君はいつから旅をしているのだね? ……む、どうしたね」

「あぁ、えっと……急に話しかけられるとは思わなかったもので」

「少し前にも言ったと思うが、僕はモデルを表面だけで捉えたくないんだ。その背景も描きたいと考えているのさ。それにはある程度の話し合いが必要になる」


 淡々と話すロウリーの声色から、絵に集中していることが窺えた。私は旅立ちの日のことを思い出す。


「……大体、2ヶ月くらい前です」

「なるほど、ということはまだ駆け出しということになる」

「そう、ですね」

「ふむ、1つ頼みたいのだがこれまでの旅路について簡単に聞かせてくれないか? カリュ君が感じたことや思ったことなんかをね」

「面接みたいですね」


 私は苦笑いを浮かべ、訪れた街や村のことを話した。後は、そこで自身が思ったことなんかを。ロウリーはその一つ一つに相槌を打った為、話はしやすかった。


「……それで今日のお昼にこの街に来ました。あとはロウリーさんが知っての通りです」

「なるほど、ありがとうね……どうだろう? そろそろ脚も疲れただろうから、一度休憩にしよう」


 私としてはまだ続けても問題はなかったが、ロウリーの言葉を断る理由もなかった。振り返り、壁にかかった時計を見上げると、その針はぴったり2周回っていた。


「私、2時間も……」

「はは、コーヒーでも入れよう。少し待っていたまえ」


 5分程度で帰ってきたロウリーの手には2つのカップ。その一つを受け取り、ちょびっと口をつけると強い苦味が舌を痺れさせた。 ……ブラックだ、これ。


「む、砂糖が欲しかったかね?」


 その言葉を聞き、少しだけムッとした私がひょっこりと顔を覗かせた。認めたくなかったのだ、ブラックが飲めないなんて。


「いえ、私ブラック大好きなんで」


 そう言い、私は満面の笑みでカップを傾けた。そして一言。


「おいひい!」

「泣いてるじゃないか……」


 歪む視界で受け取ったお水を流し込むと、すぐにグラスは空になってしまった。


「何故そんなしょうもない嘘をついたのだね」

「……ブラックが飲めないなんて子供みたいじゃないですか」

「大人でもブラックが飲めない人は多いさ」

「そういうものですか?」

「まぁ、人にはよると思うけどね。僕だって君の歳くらいでは飲めなかったさ」

「……じゃあ最初から砂糖を入れて欲しかったです」

「それは……面目ない」


 苦笑いを浮かべながら苦いコーヒーを啜るロウリーにはどこか大人っぽさがあって、何となく私にはそれが羨ましく思えた。


「まぁ君の人生はまだまだこれからさ。いつか美味く飲めるようになる」

「……人生だなんて、ちょっと大袈裟じゃないですか?」

「そんなことあるものか。コーヒーを飲む経験も、朝起きて顔を洗う経験だってそれは“その人”を形作るものさ。故に人生」


 私にはその言葉の意味がよく分からなかった。そんな何気ないことが、私を形作る?


「もちろん、カリュ君が行っている旅だって同じさ。旅が君を形作っていく」

「……私、そんなこと考えたことなかったです。何となく街に立ち寄って、色んなところ見て、色んな人に会って、それでさよならして……みたいな感じで」

「でも旅のことを語るカリュ君はずっと生き生きしていたよ?」


 その言葉に私は返答できず、自身の頬を触った。


「……私、そんな顔をしてましたか?」

「はは、顔は見えなかったから分からないけどね。声色でね」


 姿見に映る自分は小さく口を開けていて、どこか間抜けな表情をしていた。


「生き生きとはしてないかもです」

「自分のことなんて意外と気づかないものだよ。誰かに指摘されてってこともあるし、後で気づくことだってある」

「……なるほど」


 やはりロウリーの言葉は右から左へと通り過ぎるだけでどうもパッとしない。


「ふむ、そうだな……一つアドバイスをしよう。これはデザイナーじゃなくて、一人のおじさんとして」


 髭を撫でつけながら、ロウリーは立ち上がった。物が乱雑に置かれた長机を物色したかと思うと、何かを手にすぐ戻ってくる。


「筆、ですか」


 柄の部分が紺色の、恐らく画材用のもの。それは塗装が剥げていたり先端が欠けていたりで、お世辞にも上質とは言えない代物しろものだ。しかしロウリーはそれをぞんざいには扱わず私の前にそっと置いた。


「うん。これは僕が駆け出しだった頃に、初めて自分で稼いだお金で買った筆なんだ」

「今も使っているんですか?」

「とんでもない。もうこいつじゃあまともに絵なんて描けないさ……これは宝物なのさ」

「宝物?」

「あぁ、20年前からの自分を忘れないようにする為のね」


 それからロウリーは自身の過去について簡単ではあるが話した。ちょうど私がした旅の記憶と同じように。


 昔から絵を描くのが好きだったこと。絵のコンクールで優秀賞を受賞したこと。画家を目指すことを両親に反対されたこと。家出したこと。住み込みでひたすら絵を描いたこと。評価されず貯蓄が底を尽きたこと。一度は諦め腐りきったこと。再び筆を握り絵を描き始めたこと……ロウリーは語った。その表情は愁えてるようにも、楽しんでいるようにも見えたのだから不思議だ。


「この筆に触れるとね、昔やっていたことや感じたことが浮かび上がってくるのさ。それに今の僕は支えられている」

「大切なモノなのですね」

「……うん。 ───っと、話が長くなってしまったね。つまり僕が言いたいのは、カリュ君にもモノを持って欲しいということさ」

「私も、ですか?」


 ロウリーはその首を縦に振った。


「カリュくんはこれからも旅を続けるのだろう? なら色んなことを経験するはずだ。楽しいことだって、もちろん辛いことだって。モノはね、そんな経験を振り返るトリガーなんだ」

「トリガー……きっかけ」

「僕たちは生きていく中で色んなことを経験する。それは人との出会いだったり、何かを成し遂げることだったり、どうしようもない後悔もあるかもしれない。でも、どんなに強烈な経験でもさ、僕たちは案外忘れてしまうものなのさ……いつの間にか、記憶の奥底に閉じ込めてしまう。モノはそんな経験を振り返るきっかけになってくれるのさ」

「……振り返るってそんなに必要なことなのですか?」


 私のそんな問いかけに、ロウリーはフッと笑って見せた。


「当然だよ。だって、君はそんな経験の積み重ねで形作られるのだから。つまり、過去があって今の君がある。そして振り返って、今の君は過去の君を見る……そうやって昔の自分と比較することを何と言うか分かるかい?」

「……いえ」

「“成長”だよ」


 ロウリーはおもむろに椅子から立ち上がった。どこに行くのか? 私が尋ねる前に、彼は何かを手に再び戻ってくる。


「まだ途中経過なのだがね、一度見て欲しい」

「いいんですか?」

「ああ」


 ロウリーが持ってきたのは描きかけのキャンバス。まだデッサンの段階で全くの未完成だった。でも……


「これ……」

「スーツケースを引いて歩く君を見てね、僕はこんな未来を創造……いや、望んだのだよ。いつか振り返ってみてほしいそんな景色をね。エゴであることは認めよう。でも、良い作品になる」


 私の胸の内側が、何か暖かいもので満ちた気がした。気持ちが溢れるというのだろうか……気分はそんな感じで、どうも言葉で説明するのが難しい。ロウリーにどう言えばいいのだろう? なんて一生懸命に考えてみて、でも気の利いた言い回しなんて思いつかなくて、やっと口から出たのはとてもありきたりな言葉だった。


「ありがとうございます!」




 ─────────




「ふんふーん」


 ガヤガヤと喧騒が響く大通り。人通りも多く、歩きづらい道を私は鼻唄混じりで歩いていた。人酔い? そんなもの今の私には効かない。


「うっ……」


 ……効かないはちょっと言い過ぎだけれども。訪れた時よりかは大分慣れた気がする。いや、今はそれどうでもいいとして。


「えっとー? 今何時かなっと……ほう、二時か。なるほどなるほど」


 わざとらしく呟きながら、私は肩からぶら下げた懐中時計を開き時刻を確認する。 ……本日でおおよそ30回目の行動である。そんなに時刻が気になるのかと言われれば、そうではなくて、お目当ては黒猫であることは言うまでもない。


「はーかわいい……」


 半日程度デザインのモデルになった私には約束通りの報酬が支払われた。結局未完成だったが、あとはロウリー1人で仕上げられるらしい。たった1日でかなりの大金を得たわけで、達成感なんてまるで無いのが本音だ。そんなお金を握りしめて、例の懐中時計を購入したのが本日のお昼前。


 ……こんな簡単に羽振りよく支払ってしまって、彼は大丈夫なのだろうか? なんて、(貰っておいてあれだけど)私の中で心配が湧いて出てしまったりしたものだが。


「うわ……すごい」


 完全に杞憂だったことを私は思い知った。眼前にはアンティークな佇まいのお洒落なお店。普段ならあまり入らないようなお店だが、今回ばかりはそうもいかない。店名は……ロウリー。


「あの人本当にすごい人だったんだ」


 この街ではどうやら『ロウリー』というのが一種のブランド化をしているらしい。それほど彼のデザインは人々を魅了しているのだ。でも、別にそのことに違和感は抱かなかった。


「何はともあれ、入ってみよっか」


 足を踏み入れる。そこはいわゆる雑貨屋で服や小物、家具など様々なものが売られており、それぞれにロウリーのデザインが施されている。ワンポイントのイラストだったり、モノの形からだったりと色々だ。


「何かお探しでしょうか?」


 きょろきょろと周りを見て回っていると、キチッとしたスーツを着た女性店員に声を掛けられた。


「えっと……ステッカーを探してまして」

「ステッカーですか。こちらですよ」


 店員さんに付いていくとそこには花や動物、街の一部など様々なデザインがずらりと並んでいた。


「思ったよりも多くて、ちょっとびっくりしました」

「ロウリー先生のデザインはこの街の人たちだけではなく、来訪者の方々にも人気ですからね。ステッカーもその一種です」


「では私はこれで」と言い残し、店員さんは去っていった。私は一息つき、目の前にあるステッカーたちを見る。


「お花に魚、街の風景と……女の子」


 どうしたものかと眺め歩くが、なかなかその足が止まることはない。どれもデザインとして私好みのものが多い。でも、この中で一つとなるとちょっと難しいのだ。


「もう少し時間をかけて……え、これって」


 ゆっくりと見ていたステッカーたち。私の目が一つに止まった……というか、止まることは必然的だった。


「ロウリーのデザインのお店……そうだったんだ」


 手に取ったそれは……左向きに歩いている、尻尾でハートマークを作っている、切れ長な目が印象的な黒猫。


 私は懐中時計を取り出した。そこに写ってるのは丸っきり同じ黒猫。私が一目惚れをした、デザイン。


「魅せられていたのは私もだったんだ」


 何と言うか、ちょっと照れ臭い。それを誤魔化すように私はステッカーを手に、そそくさとレジへと向かった。




 ─────────




「お気をつけて!」


 入場門を守る衛兵に見送られて私は街を出た。3日ぶりに見る街の外の景色は依然と代わり映えはないはずだが、どことなく新鮮みを感じた。景色が変わったのではなく私が変わった……なんて簡単に言うつもりはないけれど。


「振り返る、か……」


 ロウリーは振り返ることが成長に繋がると言った。私はその言葉の意味を未だ理解しきれていない。それはたぶん、実感したことがないからだろう。


「どんな気持ちになるのかな? 振り返ってさ、成長を実感すると」


 きっと考えたって分からないんだろうなーなんて確信だけが今の私の中をぐるぐると回っている。でも、今はそんなのでいいと思った。


「ね、スーちゃん」


 私の隣を並走するスーツケース。その側面で黒猫が歩いている。撫でてみたけれど、振り返るなんて実感は湧いてこない。ほんの昨日の出来事なのだから当然だろうが。


 さて。私はこの街での経験をきっかけに、自身の旅にルールを課した。それは訪れる街々で何か一つモノを買うというルール。でも“モノ”っていうと漠然が過ぎるから、買うのは持ち運びに影響の小さいモノ……ステッカー。


「でも、意外と良かったかも」


 機能面でステッカーなんて決めたわけだけども、スーツケースに貼ってみて存外悪くないチョイスだなんて思った。 ……少し楽しみになったから。旅を続けて、たくさんのステッカーを貼ったスーツケースを見ることを。


「その為にもたくさん旅をしないとね、スーちゃん」


 私は昨日の出来事を思い出した。それは、ロウリーが見せてくれたキャンバス。私とスーツケースがモデルになったデザインが描かれたソレはまだ未完成だったけれど、でも何を描こうとしていたのかはハッキリと分かった。


 穏やかな起伏の丘を歩く少女、その手にはスーツケースが握られていた。少女は空に指をさしている。浮かんでいたのは、とても大きな虹だった。


 ……私は想像する。それは今からしばらく先の自分……未来の私だ。


 ───彼女がスーツケースの黒猫を撫でると、この街での出来事を思い出すのだ。その中にはきっと虹を見て歩く少女もいる。その時、過去を振り返ってみて彼女は何を感じるだろうか? 


「『まさにその通りだった』なんて、そんなのだといいな」


 振り返ってみた旅路を虹だなんて……いろどりに溢れていただなんて思えるのなら、きっとその旅はどれだけ価値があるのだろう。そうやって振り返る未来を、今の私は期待することとした。

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