第8話 庭ビーチ その1

 夏といえば、プールである。


 紡希によりよい夏の思い出をつくるべく、いかにも夏らしい場所へ連れて行く使命が、俺にはあった。


 夏休みに入る前に、一度巨大なアミューズメント系プールに行ったことがあるとはいえ、あの時はまだ初夏だった。夏真っ盛りで超暑い今だからこそ、夏の思い出として強烈に焼き付くはず。いい思い出をつくるには、季節の情緒だって無視するわけにはいかない。


 だというのに、あいにく俺の左腕はギプスで固められたままだ。


 これでは……プールに連れて行くことができないじゃないか。


「くそう、くそう……」


 左腕を抱え、悔しさを噛みしめる俺は、自宅の庭にいた。


 親父の功績を自分の手柄にするつもりはないが、我が家の庭は超広い。それこそ、アメリカの家庭でよく見られるような身近な人を招いてのバーベキューパーティーができるくらいの敷地を確保していた。


「こんなことなら、親父に頼んでプールも作っておくべきだったんだ……!」


 パッパの権力を盾にイキり散らすダメ息子の悪役みたいなことを口にしてしまう。


「いいじゃん、慎治。プライベートなプールもめっちゃいいと思うよ?」


 アウトドアチェアに座る俺の隣で、同じくアウトドアチェアをリクライニングさせて寝そべる結愛が言った。


「プライベートプールってお前……ずいぶん上等な言い方するんだな。これだぞ?」


 俺たちの目の前には、ビニールプールがあった。


 幼児の水遊びでお馴染みの、膨らませて使う例のプールである。

 大人から言わせてもらえば、こんなのプールじゃない……プールっていうのはさぁ、もっと深くて、広くて、クロールで泳げる程度大きくないとダメなんだよなぁ……。


「楽しめるんだったら、どこだって一緒でしょ? 紡希ちゃんが楽しんでくれるなら、別にデカいプールじゃなくたっていいじゃん」


 結愛はサングラスを外し、ドヤ顔を披露しながら持論を語る。


「紡希ちゃんもけっこうなブラコンだし、慎治が用意してくれたものだったら楽しんでくれるって」


 結愛は俺を勇気づけるみたいに微笑みながら、手にしていたサングラスを俺に装備させる。


 確かに紡希が楽しんでくれるなら、それでいいんだけどさ。目下のところ問題はそれだけじゃないんだよな。


 徹底してエンジョイする勢力である結愛は、アウトドアチェアをビーチチェアに見立てて、なんと水着姿のまま寝そべっていたのだ。


 以前プールに行った時の純白のビキニとは違い、この日は真っ黒な水着なのだが、ビキニタイプで露出が多いことに変わりはない。


 下半身は水着そのままではなく、デニムのショートパンツをタックボタンを外したゆるゆる状態で履いているのだが、『水着』としての本来のかたちを失っているせいか、俺の目には着替えの途中みたいな姿に見えてしまい、ドキドキが増してしまっていた。


 今日は快晴で、立っているだけで汗が吹き出そうなくらい暑いから、庭で水着姿でいようが体調を崩すことはなさそうだが、海やプールという下着同然の格好でうろつくことが許される特殊な空間ではなく自宅の庭で水着でいる非日常感もあり、結愛の隣で座っているだけなのに落ち着かない気分になってしまう。


 名雲家の庭は塀で囲まれているから、ご近所や通行人からは見えにくいとはいえ、これ、過度な露出を咎められて通報されない?


 一応、プライベートプール(ビニールプール)の周りには、物干し竿を立て掛け、洗濯物を利用してパーティションにして、できるだけ周りから見えないようにしていた。


 結愛だけではなく、水着姿の人間が、もう1人ここへ来るからだ。


「シンにぃ、準備できたよ?」


 のれんのように並んでいる白い洗濯物をかき分けて、今日の主役である紡希がやってくる。


 紡希は、フルジップの白いパーカーを羽織っているのだが、下には水着を着ていて、裾から生足がはみ出ている。


 紡希の水着は、プールに連れて行ってやれない俺の、せめてもの罪滅ぼしの証だ。


 この前、結愛と一緒に紡希を連れて新しい水着を買いに行っていたのだ。


 プールに行った時は、俺の策略で学校指定の水着を着させられていたからな。結局、不満のあった紡希のためにレンタルの水着を利用したわけだけど、ちゃんとした自分の水着がほしかったようで、大喜びで水着選びをしていた。


 幼児用のビニールプールじゃ紡希も嫌がるかと思ったのだが、今のところ不満そうな顔をしていなかった。


 それどころか、期待に胸膨らませているようにさえ見えた。


「シンにぃ、これがプール?」


 パーカーのジッパーを上げ下げしながら、紡希がビニールプールを覗き込む。


「そうだ。紡希……ごめんな。本物のプールを味わわせてやれなくて……」


 自分の不甲斐なさに消沈する俺は、自然と腰が曲がり、頭を下げるような姿勢になってしまう。結愛が引っ掛けていったサングラスがずり落ちそうだ。


 そんな俺の後頭部に、ほんのりした重みと甘みを含んだ何かが、ふぁさり、と優しく乗っかる。


「この匂いは……紡希のパーカーか……」


 頭に乗っていた紡希の白パーカーを手に取り、丁重に畳む。


「えぇ……? 慎治って匂いで区別できるの……?」


 結愛が戸惑いの声を上げる。


「一緒に暮らしていれば、自然とわかってくるものだろ」

「使ってる洗剤同じなのに?」

「微妙な違いがあるんだよ。俺にはないフレーバーがあるんだ」

「うーん、いくら慎治でも、その区別の仕方はちょっとキモいかなぁ」

「なんでだよ。推理モノで付着物を舐めて判断するシーンあるだろ。専門家にしかできないことがあるんだよ」


 戸惑った視線を向けてきた結愛だが、納得してくれたようだ。俺を紡希の専門家と理解していただけたようで何よりだよ。


「……じゃ、じゃあ、私のことも匂いだけで誰かわかっちゃう?」

「そんなことをするのは、変態だけだ」


 結愛はなんで期待込みの視線を向けてきたんだ……?


「塩い、めっちゃ塩い! 話違うじゃん!」

「こらっ、どの地域でも流行っていなさそうなワード叩き込みながらバシバシやるな」


 紡希は身内だからいいけど、結愛のことまで匂いで判断できるようなことを豪語したら、キモいだけだろ。どうしてムッとするんだ。


「シンにぃ~、わたしの匂いのことはいいから~」


 抗議の声を上げ、俺の脚をぐいぐい引っ張ってくる紡希は、なんとビニールプールにその身を浸していた。


 紡希の水着を購入するにあたって、どれを選ぶのかは、紡希本人と、アドバイザーの結愛に完全に任せていた。不本意な水着を着せて紡希をがっかりさせた罪滅ぼしの意味もあるし、何より、女性モノの水着コーナーに立ち入るのが恥ずかしかったというのもある。


 だから、新しく買った水着を着た状態の紡希を見るのは初めてだ。淡い水色をベースにしたセパレートタイプの水着だった。ブラトップはフレアタイプになっていて、胸元を上手く隠してくれていて、パンツの部分もフリルがついているので、露出度よりも可愛らしさが強調されており、俺も安心できるデザインのものを身に着けていた。


「あーあ、せっかくの新品がびしょびしょじゃないか」

「シンにぃ、水着なのに濡らさないでどうするの?」

「でもなぁ。初下しは、もっとちゃんとした場所で使う時のために取っておいた方がよかったんじゃない?」

「ここだって、ちゃんとしたところだよ」


 紡希が言った。


「デカくて広いプールとか、海じゃないのに?」


 気を遣わずに、正直に言ってくれていいんだぞ。


「だって~、ここはさぁ」


 水面を両手でちゃぷちゃぷさせながら、紡希は照れくさそうにうつむく。


「シンにぃと結愛さんが、わたしのために用意してくれたとこだし……」

「まぁ!」


 ガタッ、とアウトドアチェアを揺らして立ち上がったのは、俺の隣にいた結愛だった。


「ほら、慎治。紡希ちゃんだって喜んでくれてるじゃん! いつまで背中曲げてんの!」


 結愛にバシン! と背中をやられてしまう。


 結愛から気合を注入されたことで、俺もいつまでもうじうじしていられなくなった。


 新品の水着を着てニコニコしながら水に浸かる紡希は、本当に楽しそうだ。

 それだけで十分じゃないか。紡希に楽しんでもらうことが、俺の夏の目標なのだから。

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