第42話 『彼女』の家 その2

 玄関の扉を開けた時点で、まったく違う領域に足を踏み入れた感覚があった。

 こんな爽やかな甘い香り、俺の部屋には絶対ない。


 玄関に立って、リビングへ繋がる短い廊下にエコバッグを置いた俺は、結愛の部屋を目の当たりにする。


 キッチンを含めて、ほぼワンルームのリビングは、なんというか、もっとヒョウ柄とかシマウマ柄とか、いかにもギャルですって感じのクッションやらカーペットがありそうな気がしたのだが、小綺麗でオシャレにまとまった都会的な部屋、という印象で落ち着いていた。ひょっとしてギャルじゃないのでは、という疑惑まで浮上するくらいだ。結愛は最低限の生活費以外は自力でどうにかしているそうだから、あまり凝った内装でゴテゴテ飾ることはできないのだろう。


 家具もそう多くはないしな、と思っていると、ふと目に留まる箇所があった。


 テレビの向かいには棚があって、そこには幾つかのトロフィーが置いてあり、その後ろに掛けられた額縁の中には、賞状らしき紙が収められていたのだ。


 どうやら結愛は、過去にピアノのコンクールで入賞を果たしたことがあるらしい。


 まさかピアノを弾けるとは……ギャルじゃない疑惑がますます強くなったな。

 ただ、トロフィーの中の1つに、落として壊れてしまったような歪みがあることが妙に気になってしまった。


「ねぇ、慎治。立ってないで入ってきたら?」


 リビング中央にあるテーブルの前に立った結愛が首をかしげる。


 そうだった、些細なことを気にしている場合じゃない。結愛にピアノの心得があろうが、今はどうでもいいじゃないか。


 これから俺は、結愛のプライベート空間に足を踏み入れようとしているんだぞ。


「まー、でもそっか。慎治は女の子の部屋入るのなんて初めてだもんね」


 煽るような笑みを浮かべてこちらに寄ってきた結愛だったが、俺の前で立ち止まると、安心感溢れる暖かい笑みへと変わり、両手を広げて迎え入れるような仕草をする。

 

「――おかえり、慎治。待ってたよ」

 

 そんな、出かけた俺の帰りを待っていたようなセリフを口にした。


 なんというか、今まで結愛にドキッとさせられたことは何度もあるのだが、今回は違った角度から俺の感覚を刺激してきたな。


「どういうつもりだ?」


 胸の奥が心地よく暖かくなる感覚を覚えながら訊ねる俺の声は、自分でもわかるくらい弾んでいた。


「だって、こうやって夫婦感出した方が、いつもみたいな感じがして慎治も緊張しないで済むでしょ?」


 そんないつも夫婦感出していただろうか? と思うのだが、桜咲にすら俺たちは夫婦っぽく見えると言われてしまったわけだし、よっぽどなのだろうな。


「疲れたでしょ、早く入って入って」

「駅前のスーパーに寄ってきただけだけどな」

「そこは慎治も合わせてよ~。もっと仕事帰り感出して~」

「あいにく、俺はバイトすらしたことないからわかんないんだよなぁ」


 けれど、確かに結愛のおかげで、結愛の部屋から感じていた空気感が変わった。異性の部屋という、期待と重圧の二律背反による気後れする空間から、それこそ「自宅のような安心感」がある空間に変わったのだ。


 胸の高鳴りに圧はなく、ひたすら心地よさだけがあった。


 そうして俺は、結愛の部屋のど真ん中に立つことになった。


「よし……勉強するか!」


 壮大な一歩を踏み出した気分になった俺は、勉強に対するモチベーションがマックスになっていたのだ。今ならどんな難問だって解けてしまえる気がする。


「えー、来たばっかじゃん。なんでそこで勉強なの?」

「お前……なんで一番大事な目的忘れちゃうの。今日は勉強合宿で来たんだぞ? 遊ぶのはまた今度だ」


 いつものパターンから考えて、食い下がってくるかと思ったのだが、結愛はあっさり応じて、隣の部屋から勉強道具一式を持ってきた。どうやら隣の小部屋は寝室兼勉強部屋になっているらしい。玄関近くの廊下のすぐ隣はバスルームになっていたな。


 結愛の部屋のことはもういいんだ。勉強しなければ。今度こそ、学年1位の座を奪取しないといけないんだからな。


 結愛と同じように、ガラス張りのテーブルの上に、大きめのリュックから取り出した勉強道具一式を並べる。


「とりあえず前回の復習からやるか。また問題集つくってきたから、解いていてくれ」


 前回散々な点数を結愛が取った時、俺は間違った問題を重点的に教えた。今回も似たパターンの設問をまとめてきたので、前回からどれだけできるようになっているか、小テストをさせて確認することにする。


 俺は結愛の向かいの位置で、結愛が問題を解き終わるまで自分の勉強する。


 目の前に結愛がいる緊張のせいか、ここ最近のスランプの原因をある程度忘れることができたのは幸いだった。これだけで、合宿の意味があるというもの。


 異性と2人きりになる状況を心配していたが、よく考えれば相手は結愛だ。そりゃドキドキすることに代わりはないのだが、もはや勝手知ったる仲ではあるのだから、必要以上に気にすることもなかったのかもしれない。


 ほら、結愛も真面目に問題を解いているしな。結愛はふざけているようでちゃんとしているから、赤点の危機の状況にありながら勉強を放り出すなんて不真面目なことはしないのだ。


 などと思っていると。


「ねぇ、慎治」


 つぶやくように、結愛が言った。


「私、慎治にウソついてたことがあるの」


 いやに真剣なトーンだった。


 嫌な予感がする。

 ウソ、と来たものだ。


 もしかして……これ、桜咲から指摘されてからずっと心の片隅に引っかかっていた、『高良井結愛は、名雲紡希抜きの名雲慎治をどう思っているか?』という問題に触れることなのでは?


 さっきまでの浮ついた感じはなんだったのかと思えるくらい深刻そうな雰囲気から、『2人きりになったいい機会だから、この際言っちゃうけど、実は、紡希ちゃんを抜きにして慎治のことを考えると、やっぱり私にとって慎治ってただの友達なんだよね』というウソの恋人関係に関する爆弾を投下されることを、俺は自分でも驚くくらい恐れていた。


「これ見て」


 結愛が俺に向けて差し出して来たのは、空欄が全部埋まっている問題用紙だった。


「それ、この前と難しさは同じくらいでしょ? 採点してよ」


 言われるがままに、震える手で採点をすると、なんと全問正解だった。

 あくまで復習でしかないので、前回教えたことをしっかり覚えていれば、解くのはそう難しくはない問題ではある。


「実は私、この前慎治が出してくれたテストも、ほとんど答えわかってたの」


 驚きはすれども、ありえないことではないと思った。

 結愛は、俺が見ている限りは熱心に勉強していた。むしろ、どうしてあの時だけあんな壊滅的な点数を取ったのか不思議になるくらいだったのだ。


「どうして、そんなことを?」

「だって、合宿しないとヤバいって思わせないと、慎治と2人きりでいられる機会なさそうだったし」


 結愛は視線をそむけた。


「慎治が瑠海と出かけちゃった時さー、私めっちゃモヤモヤしちゃって」


 結愛の声から、力がなくなっていく。


「慎治と二人でどっか行けて、楽しそうで、瑠海がうらやましいっていうか……嫉妬しちゃってたっぽいんだよねー。なんで瑠海だけー、とか思って」


 結愛は、話すだけで辛そうだった。

 本当は、言いたくなかったのだろう。大の仲良しで、親友の桜咲に暗い気持ちを向けていたなんて、できれば明かしたくはないことだ。


「だから、慎治と2人きりになれる口実見つけないとヤバいって思ったの」


 それが、解けるはずの問題なのにわざと間違った解答をした理由らしい。

 結愛は、趣味で秘密を抱える桜咲を前にしても、自らの傷を晒すことで桜咲を優しく受け止めた。


 そんな結愛を目の当たりにして、やっぱり人間力からして違うんだな、俺にはあんなことはできない、と思ってしまったのだが、俺が鈍感すぎただけで結愛も決して桜咲に対して穏やかな気持ちでいられたわけではなかったのだ。


 どうしても結愛を前にすると、表面上の奔放な振る舞いや見た目のせいで、実は不安を抱えた繊細なヤツで、決して超然とした存在ではないのだということを忘れそうになってしまう。


「なんか、ごめんね。騙しちゃって」


 結愛はにっこり笑って見せたけれど、どこかしょんぼりして見えた。


「騙されたなんて、思ってないよ」


 俺は言った。


「結愛がちゃんと勉強してたってわかったんだから、よかったよ。俺も、結愛の家に来れて嬉しいわけだし、何の問題もないだろ」


 そう、何の問題もない。


 結愛が『騙した』として、それで誰か傷ついただろうか?

 傷ついたヤツがいるとしたら、自分の行いを深刻に受け止めてしまっている結愛だけだ。


 結愛の表情に元気が戻っていくように見えた。大きな瞳がより大きくなり、鈍かった輝きも増していく。


 やっぱりグッドコンディションの結愛を前にすると、その眩しさに照れくさくなる。


「ほら、結愛の家に来た男子は俺が初めてなんだろ? 俺みたいなモンはそういう初物が大好きなんだよ。結愛が『騙して』くれたおかげだよ。飛び上がって喜んじゃうぞ!」


 妙なテンションになった俺は、座った姿勢から飛び上がってみせるのだが、急にジャンプしたせいでふくらはぎがつったせいで、横にならざるを得なくなる。大丈夫? これミートグッバイしてない?


 慣れないことをしたせいで手負いの状態になったアホことダイナマイト慎治だったが、すぐ隣に結愛がやってきて、腰を下ろす。


「そのままだと頭重くて辛いでしょ? 膝使ってよ」


 結愛が膝枕を提案してくる。


「すまねぇ……」


 俺は素直に応じ、結愛の膝に頭を乗せる。もはや慣れた結愛の肌の感触に、そのまま眠ってしまいそうな心地よさを覚える。


 結愛を励ますつもりなのに、とてもみっともない姿を晒してしまっている俺っていったい……。

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