第47話 告白。

「お兄ちゃん……」

「朝姫」


 彼女はふいに目を背けると、俺に背を向けた。

 一体、どういう思いでそんな行動をしたのか――今では手に取るように分かった。


 だから、あえて、俺は何も言わなかった。

 彼女の次の言葉を待った。


 朝姫はもう一度、俺の方を向いた。

 それから、俯いたまま目をこする。顔を上げて、俺と目を合わせた。

 大きく深呼吸をして、ようやく口を開く。


「ごめんなさい」


 瞬間、彼女はせきとめていた激流が決壊したかのように、膝から崩れ落ちて、大粒の涙を流し続けた。大声で泣いて、臆面もなく、おさえていた感情を爆発させるかのように。


「うわああああん! ご、ごめ、ごめんなさ……あああ……ごめ、ごめんなざいいい……」


 ずっと謝りたかったのだろう。ずっと後悔していたのだろう。ずっと地獄の底にいるような気分なのだろう。

 なのに、それなのに、会えなかった。謝れなかった。


 だから、ようやく訪れたこの瞬間に、心が弾けたのだ。

 心の容量が足りなくなった。破裂した。漏れ出した。


 俺はそんな朝姫が、どうしてもいとおしく思えて、そっと傍によって、気付けば、自然と頭を撫でていた。


「もう大丈夫。大丈夫だから」


 余計な言葉は不要だった。

 それ以上もそれ以下もいらない。


 彼女は何度も頷き、嗚咽と戦いながらも、それでも頷く。

 ちょっとずつ落ち着いていって、そのうち、朝姫はちゃんと会話できるくらいまで落ち着いてきた。

 まったく、本当にしょうがない妹だ。


 これだから、守ってやりたい。


「朝姫。悪かったな、今まで」

「ちが……違うよっ……悪いのは、私……なのっ」

「そうじゃない。お前の気持ちに気付いてやれなかった。俺は、馬鹿で、鈍感で、おまけに間抜けだ。大事なところで頼りなくて、かっこつけてばっかりいて、そのうえ思い込みまで激しい。だから、ずっと、俺はお前に恨まれてるとばかり思っていた」


 俺の言葉を、朝姫は黙って聞いていた。

 こんな俺の言葉でも、真剣に思ってくれたからだろう。だからこそ、俺もまた。


 真剣に、こたえなければならない。


 ただ、朝姫は手を前に出して、そこで制止した。

 開きかけた口が、閉ざされる。


「ごめん、お兄ちゃん。それだけは、自分で言わないと、だめな気がするから」

「…………」


 朝姫は立ち上がった。ゆっくりと。

 それから、俺と目を合わせる。随分と、背が伸びたことに気が付いた。

 

「お兄ちゃん。大好き」


 その言葉をもっと早く聞けていれば。

 こうはならなかったのだろうか。

 違うだろう。

 その言葉を、もっと早く言っていれば。

 運命は変わっていただろうか。

 そうじゃない。

 人生はそう簡単ではない。もっと複雑だ。いや、それ以前の問題だ。もっと早く言えていたら? 違う。朝姫は、言えなかったから、ずっと言えなかったから。


 分かっていたはずだ。どうしても口に出せなかったから、ただこうなったというだけの話なのだ。たらればなんて、とっくに卒業したはずだ。


 だから、これから先、俺の次の言葉が、どういうものであっても、誰もそれを邪魔することはできないし、否定することもできないし、後悔しても意味がない。

 無意味。

 そう。こんなものは、無意味なのだ。

 言葉なんてものに、大した力はない。でも、だからこそ価値があるのだろう。

 そんなくだらないことに力を注ぐからこそ。

 無意味でも、かえがたい価値がある。


「朝姫。俺を好きになってくれて、ありがとう」

「…………」


 なにかを期待するような眼差し。

 次の言葉を待っているのだ。誰の? 俺の、に決まっている。

 俺は、次は俺の気持ちを吐き出さなければならない。


 朝姫に対する――

 だから、俺は紡ぎ出すように言う。

 大したこともない、無意味な、価値ある言葉を。


「俺は……朝姫のことを大切に思ってる。でも、俺は――俺と朝姫は、朝姫の望むような関係にはなれない。俺たちは家族だ。やっぱり家族なんだよ。それ以上でも、それ以下でもない。たとえさ、朝姫と血が繋がっていようとも、禁断の関係だろうと、母親から、俺たちに血の繋がりはないって言われても――なんと言われてもさ、俺たちは家族だ。だから、朝姫の一番欲しいだろう言葉を、俺は軽々しく言う訳にはいかない。それはやっぱり、否定しなきゃならない」


 それが、俺の答えだ。


 俺の結論だ。

 俺の、言葉だ。


「…………」


 朝姫は眉を下げて、微笑んだ。明らかに無理をしていた。

 できることなら、朝姫にこんな表情はさせたくなかった。でも、嘘はつけない。正面から向き合ってくれた、彼女に対して、そんなことは、決してできなかった。


「そう……だよね。私たちは、家族、だもんね」

「……恋人と家族の違いって、朝姫、分かるか?」

「…………愛していいか、愛しちゃだめか……じゃないの?」

「違う。家族ってのも、愛していいんだよ。でも、家族は――家族でいるということは、恋人より難しい。家族ってのはな、そういう関係でいると決めた以上、相手のことを、無条件に愛しなくちゃならないからだ」


「無条件に?」


「恋人でも、友達でも、知り合いでも、失望したなら、そこで切ればいい。見捨てることは簡単だ。でも、家族になるってのは、そいつがどんな道を選んでも、応援しなきゃならない。一緒に人生を背負わなくちゃならない。どんな人間になったとしても、愛しなきゃならない。それが、家族になるって覚悟だ」

「…………」


「朝姫。家族愛ってのは、そういう意味なんだよ。だから、つまりだな……俺が言いたいのは……」


 照れ臭くなって、ちょっと言葉がつまる。

 だめだ。言い切れ。そう決めただろ。


「俺が言いたいのは、朝姫。お前がどうなっても、これからどんな人生を歩もうとも、俺は一生、味方で、ずっと愛してるからな」


 朝姫の顔が少しずつ、そう、ほんの少しずつ明るくなっていた。


「……ねえっ……な、なに言ってんの」


 既に涙は出し切ったと思っていた。

 きっと、朝姫もそう考えていたことだろう。でも、朝姫の目からは、自然と雫が零れた。

 それは、先ほどに比べたら、たった一粒だったが、朝姫は動揺していた。


「あ、あれ……おかしいよ……なんで……わたし……私……フラれたのに……一番好きな人に、これでもかってくらい、フラれたのに――嬉しいって思っちゃってる。なんで…………あはは……」


 俺は、朝姫を抱きしめた。


「だからさ、朝姫。少しずつでいい。ほんの少しずつでいいから、俺のことを、家族として愛してほしいんだ。今はこんなだらしない兄貴だけどさ……いつか、こんな俺のことを、どんな俺になっても、無条件に愛してほしい」

「……ばかっ。ばかばかばか!」


 朝姫が、俺の胸の中で、何度も腕を動かして、俺をポカポカと叩く。

 でも、いつものような痛みはなかった。

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