第3話 初めてのイレギュラー

 しばらく後、空になったグラスを手に、太郎たろうくんがとことことテーブルに近付いて来る。


 太郎はここに来る回数を少しでも減らすためか、かなりゆっくりのペースで飲み、溶け切った氷も飲み干してしまうので、文字通り空っぽである。


 それをシステムキッチンに置かれた箱に入れたらテーブルへ。


「……オレンジジュースください」


 そうぼそぼそと注文する太郎。謙太けんたが「はぁい、待ってね〜」と応えてオレンジジュースの準備をする。


 その隙に知朗ともろうがすっと太郎の背後に回ると、太郎の脇の下に手を差し入れ、ひょいとその軽い身体を持ち上げた。


「え」


 太郎の口から驚いた様な声がれる。知朗はきょとんとした顔の太郎を「よいしょっとー!」と自身の頭の上まで上げると、そのまま肩車をした。


「どうだ太郎、高いだろ!」


 楽しげな知朗の声。落とさない様に太郎の両足をしっかりと両手で掴み、くるりくるりとその場でゆっくり回転した。


 太郎は困惑した表情を浮かべつつ、落とされない様にか知朗の頭をしっかりと抱え込んだ。


「よーし太郎、そのまましっかり掴まってろよ!」


 知朗は威勢いせい良く言うと走り出した。マラソンでもする様な速度で、空間の中をあちらこちらめぐる。するとその後を女の子が「いいなー、トモお兄ちゃんアリスもー」と追い掛けて行った。


「太郎の後でな! どうだ太郎、楽しいか?」


 知朗が言うと太郎は驚きの顔のまま、しかし嫌そうにはせず、細っそりとした頬が微かに上がっている様に見えた。


 知朗は太郎の感情を引き出そうとする様に、どたどたと荒々しく走る。速さもなかなかのもので、アリスは途中で「お兄ちゃん早いー」と諦めて、足を止めぜいぜいと息を荒くしていた。


「わ、わ」


 太郎が振動とともに、小さいながらも声を上げる。知朗はジュースを取りに来る時以外の声を聞けたのが、それが例えほんの短い一言であっても嬉しくなって、つい速度を上げてしまう。すると。


「こ、怖い」


 そんな弱々しくおびえた声が降って来たので、知朗は「おっと」とゆるゆると足を止めた。


「ちと早すぎたか。悪ぃ悪ぃ」


 知朗は首から太郎を下ろすと、胸元に抱きかかえた。


「怖かったか」


 そう言って空いている右手でくしゃりと頭をでる。すると太郎は戸惑いつつ首をふるりと横に振った。


「……少し怖かったけど、楽しかった」


 そうぽつりと言ってくれた。知朗はまた嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。


「そうか、楽しかったか! よし! またやろうな!」


 知朗は快活かいかつに言うと、太郎をさりげなく皆の輪の中に下ろす。すると大人たちが「良かったわねぇ」と太郎に優しく声を掛ける。


 中には気の良い青年が「あ、ジュース取って来てやるな。オレンジだよな」と、テーブルに行ってくれたりした。


 知朗の元には、先ほど追い掛けて来たアリスが寄って来ていた。知朗は約束通りアリスを肩車すると、太郎にしてあげた様に周囲を走り回り、そのまま謙太たちの元に戻って来た。




「トモお帰りぃ〜」


 謙太はにこやかに迎えるが、一部始終をはらはらと見ていたツルさんは「だ、大丈夫じゃったか?」と困惑気味だ。


「大丈夫だよ。太郎、ちょっと怖かったけど、楽しかったって言ってくれたぜ。だからまたやろうなって約束した。次は少しでも笑って欲しいんだけどなぁ」


「ねぇお兄ちゃんお爺ちゃん、あの男の子、太郎くんって言うの?」


 アリスちゃんが聞いて来たので、謙太が「そうやで」と応える。


「いつも黙ってひとりでいてつまらなく無いのかなぁ。アリスは皆に遊んでもらってるからいつも楽しいけど」


「太郎も楽しいことが好きなはずだぜ。けど多分、楽しいことを知らないのかも知れねぇんだ。だからこれから、太郎に楽しいことをたくさん教えてやろうと思うんだ。アリスも手伝ってくれるか?」


「うん、良いよ。アリスも太郎くん気になってたから。皆で楽しく遊べたら嬉しいよね」


「そうだな。アリスはいい子だな」


「へへ」


 アリスちゃんは嬉しそうに白い歯を見せる。


「そういえばアリスちゃんも、何かしたいことがあったからここにおるんやんねぇ」


 謙太が聞くとアリスちゃんは「そうだよ」と応える。


「アリスちゃんは何がしたかったん?」


「アリスはね、ケーキが食べたかったの。大好きないちごが乗ったケーキ。お誕生日パーティの時に食べようって、ママがおいしいお店の丸いケーキ買ってくれたのに、その帰りに車にひかれて死んじゃったから」


 大切な誕生日に生命を理不尽に落としてしまうとは。何とも悲劇だ。


 だがアリスちゃんはまだ幼いからなのか、その凄絶せいぜつさが判らないのか、あっけらかんと話す。


 それが余計に痛々しくて、謙太はつい顔をゆがめそうになってしまうが、それを懸命にこらえ努めて明るく言った。


「そっかぁ。でもここにはケーキ無いもんねぇ」


「うん。だからどうしたら良いのか分からないんだけど、皆遊んでくれるからまだここにいたら良いかなって」


「それしか無いんかなぁ」


 謙太がそう首を傾げた時扉が開き、サヨさんが姿を現した。


「謙太さま知朗さま、こんにちは。今日もお疲れさまでございます」


 サヨさんはそう言って深く頭を下げる。謙太と知朗はそれぞれ「こんにちは」と返す。


 サヨさんは、まるでツルさんとアリスちゃんがその場にいない様に振舞うが、ツルさんたちは特に気にする風でも無かった。


 謙太はふと思い、口を開く。


「サヨさん、あの、ここに飲み物以外のものを持って来てもらうことってできひんんですか?」


「飲み物以外と申されますと?」


「食べ物。いちごのホールケーキです」


 するとサヨさんは、困惑した様な表情を浮かべた。


「それは、あるじさまにお伺いしてみませんと不明なのでございます」


「じゃあ聞いてみてもらえませんか?」


「かしこまりました。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「もちろんです。よろしくお願いします」


 謙太が安堵あんどした様に頬を緩めるが、サヨさんは戸惑いの表情を崩さない。


「あの、大変驚きました。その様なご質問は初めてでございましたので」


「そうなのか? えーっと前のお役目、あの同じ顔した女の人たちに、欲しいもんとか食いたいもんとか、言われたこと無かったのか?」


「ございませんでした」


「僕らにしてみたら、そっちの方が不思議に感じますねぇ」


 謙太が目を丸くすると、知朗も「だよなぁ」と同意する。


「じゃああのふたりは、本当にただただ毎日飲み物作ってただけなのか?」


「はい、そうでございます。私がこちらにお伺いしましても、ご質問やお困りのことなど特にございませんでした」


 謙太と知朗は信じられないとでも言う様に目を見合わせた。


「では私はこれで。お返事はお待ちくださいませ」


 サヨさんは言って深くお辞儀じぎをすると、扉から出て行った。


「ねぇお兄ちゃん、ケーキ食べられるの?」


 サヨさんとの話を聞いていたのだろう。そう言うアリスの声は嬉しさで溢れていた。


「どうやろうねぇ。食べられたらええねぇ」


「うん!」


 アリスは笑顔で頷くが、謙太と知朗はサヨさんの様子に引っかかりを感じていた。

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