起 安い矜持と甘い誘惑〈4〉

 作家業で予定がつまっている僕は部活に所属していないけど、今日の帰りは遅くなった。けれどそれは、かえって、晩御飯にうってつけの時間だった。

「おっかえりなっさーい!」

 玄関で僕を出迎えたのは、女子高生モードから大人の形態に戻った、頭から爪先まで魅力的でたまらない女性だった。態度は爛漫、仕草は親愛、声の響きに至るまで、気を抜いたならとろけてしまう。

「あのねあのねわたしねちゃんと、言われた通りにやったから! 食べたいって言ってくれたから、ごはん、はりきって作ったわ! えへへへへへへ! ……ん!」

 伸ばされた両腕の求めるところは明確で、鞄を渡せば、彼女はクリスマスの朝、枕元に念願のプレゼントを見つけた子供みたいに喜ぶ。

「……なあ」

「なーに? 今晩の献立なら、見てのお楽しみ! ワクワクしながら向かいなさい!」

「あんたって、随分尽くすタイプなんだね」

「そうよ! わかってくれて嬉しいわ! ふふ、自分になびいてくれない相手ほど夢中になっちゃうのよねー、何としてでも振り向かせてみせるぞこのやろー、よね!」

 それだけ聞けば、普通の恋する乙女だ。単に元気で前向きで、ときめく人だと思っていたかもしれない。彼女が引き起こして見せた奇妙と、その知識を持っていなければ。

「リャナンシー」

 口にした言葉に、特段反応はなかった。自分のことを言われている、という意識も、どうやら彼女のほうにはなかった。そういうものかもしれない。だって、そんなものは所詮、人間側から勝手に決めた呼び方だ。

「え、何? ……っていうか、あれ? わたし、言ったかしら?」

 不思議そうに首をかしげる。僕は一応、それなりに覚悟は済ませてきた。

「それとも偶然? その言葉、似ているわ。サクノがくれた、わたしの名前に」

「……そうだね。まだ、聞いていなかった。あんた、あの人にどう呼ばれてたんだ?」

「“りやな”。サクノはわたしのことを、そう呼んでたわ!」

「そっか。そりゃあまた」

 安直みもふたもない、と言いかけて、言いかえる。

「あの人らしい。著作の主要キャラにつけてたみたいな、素直な名前だ」

「えへへへへ! よくわかんないけど、ほめられた!」

 廊下を歩く彼女の背中を見ながら、僕は今一度、父もこの背を見ていたのかな、とか。

 放課後、図書館や近所の書店を巡り、彼女について調べた結果を、思い返す。

(……父さん……)

 昨今のゲームなんかだと、妖精という存在はマスコットであったり、低レベルモンスターとしてかわいらしいものが多いけれど、古くから伝わる、神秘の匂いがする妖精というのは、もっと、なんというか……そう。

 気まぐれで、理不尽。人の手にあまるものだった。

 愉快な連中もいる。人家に住み着き、生活を手助けするブラウニーなんかはいい例だ。

 対して、“いたずら”なんて言葉の範疇では、到底収まらないこともしでかす。斧で人を襲う血まみれ帽子のレッドキャップ、子供をさらって入れ替える【取り換え子チェンジリング】、危険で洒落にならない行為は枚挙に暇がない。

 そんな“善し”と“悪し”の妖精の中で、それはどのように分類されるだろう。

 リャナンシー。アイルランドに伝わる、妖精の一種。

 名の意味するところは、【妖精の恋人】。緑の丘に住まい、妖精ではなく人の男性からの愛を欲する、美しい女性の姿をしているという。

 当然だが、美醜の概念は人や時代でも異なる。それなのに“美しい女性”と断言されるということは……これは僕の仮説だが、対象によって、姿を自在に変えるから、なのではないだろうか。歳も、姿も、相手となった者の、望むままに。

 その【万人にとって万能の美女】は、誘惑する。付き従い奉仕して、自分へ振り向かせようとする。そして、愛を受け入れた時、男は妖精から才能を授かるらしい。

 芸術家として大成させる一方……リャナンシーは、精気を吸い取り、死なせてしまう。

 優れた作品、それに伴う、死後の名声、人生の値付け。

 絶世の美女に愛される日々と、本来到達できない領域の傑作の、二つの無形の宝。

 それをもたらす存在は――ともすれば。

 命というただひとつの、替えが効かないものを奪いさる“悪”ではなく。

 安い命と釣り合いにならないものをもたらしてくれる、“善”なのではないだろうか。

 ……心は知れない。ましてや故人のものだとしたら、できることは推測で止まる。

 ただ、明確な証拠については、誤魔化せない。

 早瀬桜之助は、彼女に“りやな”の名を与えていた。

 あの人は――正体不明の不思議な存在、としてではなく。

 リャナンシーとわかったうえで、彼女を自分のそばに置いていたのだ。

「食事」

 考えながら食卓に着いた僕は、問いかける。

 今朝も、学校でもそうだったが、いつもそこにあるのは、一人分だ。

 用意されているのは僕のだけ、それを作った本人、彼女の分がない。

「あんたは、取らないのか?」

「取るよ? きみとは好みが違うけど。こういうのも別に、食べれないことはないんだけどね、きみが感じるみたいな喜びはないし、無理には食べないかな」

 こんなところでも知識と合う。彼女にとっては丹精込めて作っただろう食卓の料理より、椅子に座っている生きのいい食材のほうが、お気に召すんだな。

「あはは。それ聞かれたの、サクノときみで二人目だ」

 胸をちくりと刺す、透明な針の正体がわからない。僕は今、何に何を感じていて、この感覚を覚えているのか。箸を取る気にならず、彼女はお構いなしに続ける。

「じゃあ、サクノにも言ったこと、言おっか。わたしが取り込みたいのは、きみが創り出す、わたしの趣味にどんぴしゃの作品。何を書けばいいのか、人物一人、草木一本、匂いも心も伝えてあげる。わたしの中にある、皆も喜ぶ最高の幸せを。きみはそれを写すだけで幸せになれる。ね、わたしにきみを、幸せにさせて?」

「待て」

 反射的に、聞き逃せない一言を引き留める。

「今――あんた、なんて、言った? “わたしの中にある、最高の幸せ”……?」

「ええ。人を喜ばせるためのわたしの中にある、最高のエッセンス。チャールスにも、シドロスにも、アージャにも、ミケラにも、ヴォルザーにも、ヅェンにも、サクノにも、それを分けて――皆が喜ぶものの作りかたを、ひらめかせてあげてきたのよ」

 父さんの筆名より前に出てきたのは、リャナンシーとして彼女が関わって、大成させてきた相手の名前だろう。いや、今はそれはどうでもいい。重要な項目じゃない、添削。

 じゃあ、何か。

「――――は」

 四作目以降。

 早瀬桜之助の作品は――元を辿れば。こいつの作品、だってのか。

「あははははははははははははははははっ!」

 ああ、おかしい。うん、おかしくなった。

 僕は今、血沸き肉躍っている。

「決めた。決まったよ。聞いてくれ、りやな」

「えっ! なになになになに!?」

 絶世の美女が、輝く瞳を僕に向けて身を乗り出す。平素ならいくらでもときめいた。大河の髪に、冬雲の肌に、紺碧の瞳に、触れずとも柔らかさの伝わるような豊かな肢体が、僕を求め、愛され、好きにして欲しいとささやく幸福に。

 愛でられずにはいられないすべてを備えた、この世のものでなき魔性。

 だが、残念だ。僕はそれに負けない。負けられるものではない。

 僕のほうこそが今、作家というひとでなしの、スイッチが入っている。

「あんたが“早瀬桜之助”でもあるなら、掌編でいい。朝までに一作仕上げろ」

 彼女の手を引き、作業に使う書斎に招く。僕は自分のノートパソコン一式を机からどかし、押し入れから父が使っていたノートパソコンを用意し、立ち上げる。愛用していたらしいワープロソフトを起動し、ついでに、原稿用紙と万年筆も揃えて並べる。

「僕は、今取りかかってる作品の、一章分まで書き上げる」

「それで?」

「書けたら、勝負だ」

 競うものに、かたちはない。文字・ページ数だのを秤にするつもりはない。ならば。

「何を書いてもいい、僕の心を震わせろ。涙一滴、こぼさせてみせろ。そうしたら、何だって言うことを聞く。精気だろうが魂だろうが愛だろうが、読み賃に払ってやるよ」

 そう宣言した一秒後、胃の腑の底に酸性の後悔が湧いた。

 女の表情が、変貌したのだ。蛙が蛇に、蛇が蛙に、回ったような上下逆転……これまでこちらに、ひたすら媚びてせがみ倒す立場だった相手が、歯を向いて笑う。

「聞いたわよ」

 五指がキーボードを踊る。タイトル署名冒頭一行、瞬くうちに出力される。

 それはいかにも――早瀬桜之助の、書きそうなモノだった。

「明日の予定は空けておいてね。全部の書き込みを白紙に戻して、上から大きく、情熱的に真っ赤な文字で書き込むの。『りやなといっしょに、しあわせになる』」

「書かせてみせろよ、大作家」

 そうして僕は、僕の武器を抱えて書斎を出る。

 用意された食事には、残念だけれど手を付けられない。僕は、満腹だと……満たされていると、手が動かなくなるタイプだ。食欲をそそる夕食にラップをかけて冷蔵庫にしまい、ペットボトルからグラスにアイスコーヒーを注いで、自分の相棒を起動する。

 イヤホンをつけ、音楽をかけ、そうして――――――――――――――――沈む。

 よし、じゃあ。

 これから、何にでもなるとしよう。

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