わたしを愛してもらえれば、傑作なんてすぐなんですけど!?
殻半ひよこ/ファミ通文庫
プロローグ 冴えない作家と誘いのミューズ
死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない、全力で勘弁してほしい。
このまま何者にもなれないままで終わるなんて嫌だ。途切れるなんて認められるか。だからお願いです、どうか、どうか――。
「どうか出てこい、傑作ネタッ! もう打ち切りは嫌なんだよ! 神様でも悪魔でも誰でもいいからインスタントにひらめきプリーズ! 平気平気、ご都合主義とか気にしないというか、それ主食の作風なんで!」
庭の木で、ツクツクボウシが鳴いている。ぬるい風が開けっ放しの障子戸から入り、外しそびれの風鈴がむなしく揺れた。
ネタの欠片も捻り出せず、畳敷きの書斎で、ひと夏を終えた蝉のように倒れ込む。
……ああ、見苦しい場面をお見せした。
僕は
座右の銘は、『作家たるもの変人であれ』。
「……喉渇いた」
悪夢的な白い画面から逃避して台所に行って、九月頭の熱気でぬるくなった水道水をコップ二杯分干した。
そのまま部屋に戻ればいいものを、鬱々とした足は勝手に床の間へ向かっている。
そこにあるのは、笑顔だ。
仏壇の中には、こっちの気も知らずに穏やかな微笑みを浮かべる男がいる。三十九の晩年ではなく、まだこういうものを取る余裕や暇があった時期の写真。
在りし日の、父の遺影。
「なんだよ。言いたいことあるんなら言ってみろ」
セミの声ばかりがうるさい。
「言えないよな。ここにいないやつには。できないだろ。生前はどれだけすごかったにしても、今のアンタにゃもう何も」
あえてそちらの名を呼ぶ。父ではなく、作家としての筆名で。
「今に見てろ。
己の心を奮い立たせる。戦意で気力を充填する。
「ここにいるのは、アンタが名付けた新井進太朗じゃないぞ。自分で決めた筆名の、
そう啖呵を切った直後、仏壇の横に積まれたものが目に入って、否応なしに威勢が削がれる。
並べて積むと、高さがざっと三倍は違う、早瀬桜之助と明日木青葉の著作たちだ。
「……戦いに来た、んだけど、さあ……」
手に取り、めくって、奥付を見る。
早瀬作之助の一作目の奥付に記されたるは――【第十三刷発行】。記されるは、つい一月前の日付。
対して僕、明日木青葉の、発行から二年経つ一作目は……【第一刷発行】。無情にも、発売日の日付。
「……うぅぅ……」
九月のツクツクボウシよりよほど弱々しい、断末魔みたいなうめき声が出た。
重版のたびに更新される、仏間の【
「あーーーーーーーーっ!」
現実に足すことネタの出ない疲れで、我慢の閾値をあっさり超えた。
「つらい……やだ……作家とか世界で一番虚業だが……?」
身も蓋も無い言葉も出よう。執筆依頼が五年先まで埋まっていた父と違い、僕は何処に原稿を出しても『うわ……』の同情覗く、連続打ち切り作家だ。
筆が止まらなかった経験なんぞない。書いていてつらくなかった試しもない。作家生活三年目、今やキーボードをどう叩いたところで「でもどうせ」の感触ばかり先に立つ。
……そもそも、あえて考えないようにしてきたのだけれど。
この家に乗り込んできた決意に、一片の下心も無かったと言い切れるだろうか?
たとえば、早瀬桜之助に関するとあるインタビューでは、聴者の言葉でこうあった。
[町の外れに位置する閑静な日本家屋。西に面する縁側は太陽の動きと共にあり、一日の過ぎ行くさまと共にある。風通しのよい書斎はどこまでも日常と地続きで、この空気の中でこそ数多の傑作が生まれたのだろうと感動し、納得が湧きあがった]。
たとえば、他でもない勝負相手な早瀬桜之助の作品に、こういう一文もあった。
『お引越しって、素敵ね。住むところが代わるのはさみしかったけれど、今はもううれしいばっかり! 不思議、このおうち、まるで、しあわせがつまっていたみたい』。
「……ええ、期待してましたけどぉ!? ここに引っ越してくれば、なんかどうにかいくんじゃないかって! 環境変えればヌルッとネタも出んじゃないかってぇぇ……!」
結果はご覧の悶絶だ。
そんな甘い話、
越してきてはや一週間、大作家が使っていた部屋の、大作家が傑作を仕上げた机で、キーボードを打てども打てども身につまされるは夢と希望の不在証明。
そりゃそうだ。産みの苦しみに、都合のいい痛み止めなどあるものか。
「うぐぐぐぐ……だ、だめだ、いけない、これは……!」
転げるように仏間を出て、洗面所で顔を洗い、執筆の疲労とネガティブ思考をわずかに削減する。厨房へ取って返し、元気がハツラツに湧いてくる、茶色い瓶の炭酸飲料で喉と頭に活力を補給する。
「――そうだ。僕ぁまだ、アイツと違って生きてる。これだけは、現状の本当だ」
殊更に口にすると、腹の底に熱が宿る。言葉にはきっと、魂が宿る。
「はっ! なーにが大作家、百人泣かす早瀬桜之助! そうだ、僕の作品は、アイツのよりも面白いッ! ……ものを、これから書いてやるもんねっ!」
自分自身に言い聞かせるように叫び、思いきり頬を打って気合を入れた。
大股で廊下を行き、勢いよく襖を開け、再び自分の戦場たる文机に戻ろうとして――
そして、僕は、化かされる。
書斎の縁側にいたのは、人でないものだった。
少なくとも、僕が思う「人」の美しさの範疇を、それは易々と超えていた。
長い髪が風に遊ぶ。陽を受ける横顔が艶めく。たおやかな指がめくる本の頁は、座布団の周囲に散らかしていた、僕の著作、最新の三冊目、【紅と朱】。
身体が瞬時に固まり、頬が瞬間で紅葉したと思う。
胸の奥からせりあがったのは、暴力的なまでの光栄だ。あんな美しいものが、僕の作品を読んでいるということ。同時に、すすり泣いてしまいそうなほどの恥辱。作家において、作品とは誇りであると同時に、もっとも柔らかい内臓に他ならない。目の前で丹念に覗かれることに、抵抗を覚えないものなどあるだろうか?
いつからだろう、あれだけうるさかった蝉の声まで止んでいる。
永遠より長い時間が過ぎて――ギロチンを落とすように本を閉じる。
その目はこちらを向き、唇が開き、そして、魂が宿る言葉が告げられた。
「惜しい」
声には、深い、憂い。増水した川が溢れるように、女の瞳から涙がこぼれる。
「やりたいことがあるのよね。けれど、自分が一番わかっているのよね。刃物を持つ手に籠めた力も、ここだと突き刺した急所も、全部ぜんぶ届いていない、って」
その指摘こそ、必要十分の力が籠もり、寸分違わず急所を突き刺す刃物だった。
明日木青葉の最新作、つまりもっとも作家としての力量がついているべき作品で、現時点までに下された評価は【
ああ、いつもそうだ。僕は作家として未熟にも程があり、その続きを出してもよいと評価された試しがない。創作者として、いちばん見抜かれたくない、死ぬまで隠し通して目を逸らしたかったものを突き付けられた――『お前は浅い』と。
今にもうずくまって悶絶したい駄目作家に、怪しい美女は更に畳みかけてくる。
「においがする。とてもかすかだけど、早瀬桜之助のかおり。……へえ。きみ、あれになりたかったのね」
「……っ!」
最悪だ。いっそ消してくれ。記憶なんて甘ったるいことを言わず、僕の存在自体。
「よかった。それなら、わたしが要る」
本を置いた指が向けられる。細く、長く
蛇だ。
細められた瞳の怪しさは、禁断に誘う蠱惑を置いて他にない。
選ばれたことが幸福なような。
標的になってしまったのが、恐ろしいような。
「きみが望んでくれれば、わたしがきみを、あの子以上にしてあげられる。あの子が終えたその先に、殻を割り、羽を育て、飛び立たせてあげられる」
おいで、と声を聴いた。ような、気がした。
彼女は何も言っていないかもしれない。僕が勝手に、そう感じたのかもしれない。
どうしようもなく惹かれながら、けれど身体は固まったまま。僕は相変わらず動けなくて……なのに次の瞬間、彼女は僕の願いを叶えていた。
目の前にいる。
美女は立ち上がった状態でいつのまにかすぐそばにいて、その指に胸を押された。畳に尻もちをついた僕の頭を撫でて、情熱的な風のようで、芯まで凍える真冬の水のようでもある不思議な吐息をひとつする。
改めて、近づく顔を僕は見る。
肌が、異質に白い。胸が透く草原のように眼が
ぬらめいて出た舌はまさしく蛇のそれであり、捕食される瞬間に『ところでこの人は、一体どこの誰であり、いつの間に入ってきたのだろう』なんてどうでもいいことを思う余裕があるわけもなく。
初めての口づけ、舌と舌が絡まった刹那、僕は、見知らぬ場所にいた。
そう、確かにそれを見たのだ。幻覚なんかじゃない。鮮明なイメージが浮かんで、僕の視界は想像に支配される。
僕はそこで、実感を得た。聖処女が神託を受けるように、成すべきことを理解する。
もう、何を悩んでいたかもわからない。ずっと詰まっていた一文、この先の展開、そんなせせこましいことは言うまい。八ページほどしか書けていない長編ストーリーの結末どころか、それがインクの身体を得て紙に乗り、滂沱と共に人の胸に永年刻まれる事実までもありありと、予感ではなく確信としてわかる。
有り体に言って。
明日木青葉は、社会を揺るがす傑作の霊感をいただいた。
「さあ、どうぞ」
口が、舌が離れても、顔はまだ近い。
絶世の美女が、僕が望んでやまなかったものをもたらした乙女が、誘う。
僕をそっと文机の前に座らせて、白いテキストの画面に向かわせ、ささやく。
「たたきつけて、欲を。今のきみなら、それができる。超えたくてたまらなかった、憎くていとおしい相手を上回る、人の胸に、永遠にせつなさを残すような作品が。どうか、それを見せて。きみには、わたしがいないとだめだって、証明し――」
「ふんっっっっ!」
それは、あまりに唐突な反応だったもので。
絶世の美女も、固まって絶句していた。
思いきり机に頭をたたきつけるなんて、思ってもみなかっただろう。
打撃に巻きこまれたキーボードがぶっ壊れ、キーキャップが弾けて飛んで畳の上に散らばった。
額が、じんじん、ずきずきする。おかげで、冷静になれている。
「え、え、ええ……?」
「――あ、あー、あー。いや、足んないな、これ。くそ、まだ頭に残ってやがる。ええい、小癪な。だったらこうだ!」
「えー!?」
書斎兼自室、だらしない敷きっぱなしの万年床に着替えもせず飛び込んだ僕に、美女……改め不審者女が叫びをあげる。
「ちょちょちょちょ、なーに!? なにしてんのよきみぃ!? わたしのあげたおためしインスピ試食版、長持ちしないって感覚でわかってるわよねえ!?」
「わかってるとも、だからだろ。ネタが出ない時、反対にコレジャナイネタが出過ぎる時、万能薬が睡眠だ。書きたくもないネタが頭にこびりついた時は、この手に限る」
「か、書きたくもないネタぁ!? 何言ってんの、きみ
「それだよ」
「べやっ!?」
化けの皮が剥がれた不審者女の額を指で突き、尻餅をつかせ返して言ってやる。
「どんだけ向いているって言われようと、僕はそっちをなぞらない。明日木青葉に、早瀬桜之助の
瞳を閉じる。頭の中に浮かばされた、いかにも万人受けしそうな父の作風を追い出すことに集中するうち、どんどん眠気が来てくれる。そうなるともう、不審者女の喚き声さえ子守唄だ。なまじ声が美しいもので、リラックスの効果があるのは本人には皮肉だろう。
「待って待ーってよぅ! だったらせめて、メモ! メモだけでも残そぉ!? それで食ってくから! 妄想つなぐから! 最高の物語思いついたでしょ、まだそこにあるでしょ、書いてよ書いてよ書いてよ書いてよ、出すもん出してから眠れ――――っ!」
聞こえるが問題ない。二日ほどろくに寝れていなかったことも相まって、すがりついてくる刺激より眠気のほうが圧勝だ。おやすみなさい、ざまあみろ。僕は売れない残念作家だが、書きたくないものを書かないちっぽけな自由は、決して誰にも侵させない。
「びゃああああ! ねー! 書ーいーてーよー! 絶対おもしろいんだからぁーっ!」
――ただ、少しだけ。眠りに落ちる直前の、混濁した意識で思い出す。
昔。自分もこんなふうに、【ぼくのかんがえたさいこうのはなし】を書いてくれ、これなら絶対売れるから、と父にせがんで困らせた――遠く、遠く、もう二度と訪れることのない、その時間を。
とまあ、このような感じに。
腐心の作家と不審な女の遭遇は、徹底的ディスコミュニケーションから幕を開ける。
色々思うところなどあるだろうが、何はともあれ。
『こいつ、偏屈で、生き辛そうだなあ』と思っていただければ、変人志望は幸いだ。
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