45. 十年間という溝

 カフェテリアの屋外に並べられた席の一つに、ウェイターがコーヒーを三つほど運んでくる。

 座っていた面々に礼を述べられはしたものの、彼はその一席の異様な取り合わせに少し息をのんだようだ。


 彼だけではない。

 周囲のテーブルの客達も、その一団が放つアンバランスさを遠巻きから観察しているようである。


 革ジャンに団子髪の“探偵”と、その隣に座る黒薔薇ばらのゴスロリドレスを着た“少女”。

 丸テーブルで彼女らの対面に座るのは、これまた黒一色の執事服を身に着けた老人である。


 誰一人、コーヒーには手を付けない。

 どこか張り詰めた空気に耐え切れず、ナデシコは現状を打破するために一言を投下した。


「いやあ、しかし驚いたね。まさかこんなところで、アイリスの“お屋敷”の人と出会えるなんてさ」


 わざとらしく作り上げた軽口を前にしても、アイリスと執事は黙したままだ。

 自身の一言の効果が薄かったことに、ナデシコは椅子にもたれてため息をついてしまう。


 ナデシコの眼差しはアイリスではなく、対面に座る老人へと向けられていた。

 彼はアイリスの家からやってきた人間で、その出で立ち通り、アイリスの両親に雇われた執事らしい。


 名はウキタケ――十年ほど前からアイリスの家に仕えており、アイリスの幼少期すら良く知っている人物だ。


 アイリスの家が執事を雇えるほどの高い生活水準であるという事実に、別段、ナデシコは驚きはしなかった。

 もとよりアイリスと出会ってすぐ、彼女の衣服や立ち振る舞いから、そのおおよその事実は予測できていたからだ。


 だが一方で、いくら“探偵”が聡明そうめいであっても、決して探り当てることができなかった“事実”というものもある。

 思いを巡らすナデシコの前で、執事・ウキタケはようやく口を開いた。


「重ね重ね申し訳ございません。このような形で“お嬢様”とコンタクトを取ること自体、本来ならば許されていないことなのです。ですが、あれからもう随分の月日が過ぎます。どうしても、お嬢様がご健在なのかどうかを、この目で確かめたかったのです」


 重々しく告げるウキタケをアイリスはちらりと見たが、すぐにまた手元に視線を落とす。


 アイリスが“お嬢様”と呼ばれる身分だということも、ナデシコは納得していた。

 だがそれでいて、彼女の家族が位置する“階級”にただただ唖然あぜんとしてしまう。


 少女の本名は、アイリス=フレアハート――彼女はワンドゥどころか、国際的にも有名な「フレアハート財閥ざいばつ」の一人娘だった、というわけだ。


 ナデシコ自身、世界史だの地理だのに詳しいわけではないが、その名前くらいは聞いたことがある。

 運輸業、スポーツ興行、造船業、工業――ありとあらゆる分野に根を生やした、莫大な資産を持つ巨大組織だ。


 改めてその事実に肩の力が抜けるも、ナデシコはあえて執事・ウキタケに切り込んでみる。


「アイリスのことが心配になったってわけか。でも、そもそも妙だよね。そんな大財閥の一人娘を、なんであえて両親は放置するのさ。何か事件にでも巻き込まれてたら、どうするつもりなのよ?」


 仮定の話に聞こえるが、アイリスは実際に“殺人犯”の濡れ衣まで着せられ、いまも警察に追われる身だ。

 執事であるウキタケにその事実を伝えてはいないが、いわば“令嬢”がこうも長い間、家出をし続けれているという状況に、ナデシコは疑問を抱かざるを得なかった。


 どこかウキタケが言い淀む中、口火を切ったのはうつむいたままのアイリスだった。


「どうだって良いんだよ。お父さんも、お母さんも――私のことなんて」


 ナデシコとウキタケが、同時に少女に振り向く。

 アイリスはどこか強い眼差しと、きゅっと結んだ口元のまま、ようやく顔を上げた。


「私みたいな“変”な子、お父さんもお母さんも、きっと必要としてないの。だから……だから私のことなんて、放っておいてるんでしょう?」

「お嬢様、そんなことは――」

「いつもそう。家にはいっつも、私一人。お父さんもお母さんも、いっつも仕事、仕事、仕事……! 二人は私みたいな“変”な子供なんかより、家のお金のほうが大切なんでしょ!?」


 執事の言葉をさえぎり、徐々に少女は語気を荒げていく。

 日々、二人で歩む中で、アイリスが抱く“家族”への思いに、ナデシコだって勘付き始めてはいた。

 だからこそ、あえて彼女の言葉を止めることはしない。


「あの時からそう……お母さんを……私が傷付けた、あの時から……私が“変”だから――」


 耐え切れず、拳を握りしめてアイリスはうつむく。

 涙こそ湧き上がってはいないが、それでも暗く淀んだ感情が小さな体の奥底で渦巻いているのが分かる。


 ウキタケは何かを言いたげだったが、やはりコーヒーへと一度視線を落とした。

 二人の間に――いや、かつての“フレアハート家”にどんな事件があったのか、ナデシコはまだその全貌を察することはできない。

 だが恐らく、執事の脳裏にも当時の情景がありありと蘇っていたのだろう。


 悲しむような、それでいてどこか懐かしむようなまなざしで、執事はため息をついた。


「もうおおよそ、十年前ですかな。お嬢様の仰る通り、思えば“あの日”から全ては始まっているのやもしれません」


 アイリスは答えない。

 ナデシコが見つめる中、執事はなおも続ける。


「確かに、旦那様も奥様も、かの一件にたいそう混乱していたというのは事実です。お嬢様の持つ“力”にどう向き合っていくべきなのか――あの日からお二人は、時にぶつかり、それでも諦めず悩み続けてこられました」


 ここで不意に、執事の眼差しはアイリスではなく、隣に座る探偵へと向けられた。

 ナデシコもその微かな変化を察し、思わず目を丸くしてしまう。


「実はお嬢様が、あなたに救われたということも我々は感付いていました。お二人が街の様々な場所を巡り、なにやら調べ事をしているというのも」

「おっと。なんだぁ、とっくの昔にばれてたってわけか」

「はい。お二人が何を探しているかまでは分かり兼ねますが、その事実は既に旦那様と奥様の耳にも入っております」


 ナデシコは「ふぅん」と唸りながら、少しだけ身を乗り出す。


「そこまで分かってるなら、なおさらなんで、この子を連れ戻しに来ないんだい? 居場所も分かってる。つるんでる青臭い探偵の顔も知ってる。なら堂々と、迎えに来ればいいだろうに」

「今回の件は、旦那様と奥様からの直々の命なのです。お二人はお嬢様が――アイリス様が納得するまで、外の世界を見てほしい、と」


 少しだけ息をのみ、アイリスが顔を上げた。

 ウキタケは微かに頷き、続ける。


「これは詭弁きべんでもなんでもなく、お二人はお嬢様の身を案じられておりました。だからこそ、お嬢様が家出されてすぐ、我々は総出でその行方を辿ったのです。そしてやがて、あなた――ナデシコ様と共に日々を過ごされていることを知りました」


 なぜか軽く会釈えしゃくしてしまうナデシコに、ウキタケは柔らかな笑顔を浮かべた。


「失礼ながら、最初はナデシコ様がお嬢様をたぶらかし、連れまわしているとも考えてしまったのです。しかし見れば見る程、ナデシコ様と一緒に行動されているお嬢様は生き生きとされていた。戸惑いながらも街を歩くことを楽しみ、初めて触れる物に驚き、未知の世界に心を動かされていた。その姿はこの十年、決してお屋敷では見ることのできないお姿でした」


 それはきっと、ナデシコとアイリスがこのワンドゥの街を巡っていた、泥臭い“調査”のワンシーンだったのだろう。

 無論、それ以外にも様々な危険があったし、恐ろしい思いもした。

 それらを差し引いたとしても、かつてのアイリスを知る執事らにとって、自然体で街を歩くアイリスの姿が衝撃的だったのかもしれない。


「旦那様も奥様も、お嬢様の“意志”を尊重したいのです。お嬢様が初めて、ご自身の意思でお屋敷を出られた。その“暴挙”の中に、お嬢様なりの考えと、強い思いを感じておられる。だからこそ、お嬢様自身が“納得”されるまで、我々はお嬢様を遠くからお守りする――それが、お二人が下した苦渋の決断なのです」


 反応を見るに、アイリスにとっても全くの予想外だったのだろう。

 困惑しているような、それでいてどこか微かな後悔が混ざる、絶妙な顔色であった。


 きっとアイリスは、両親を嫌いになりたかったのかもしれない。

 両親が自分を遠ざけているなら、それを理由に寂しさに納得できると考えたのかもしれない。


 だが、どこまで逃げても、どこまで目を背けても、両親の真意が追いついてくる。

 執事の記憶に宿り、彼との邂逅かいこうを経て、カフェテリアの一席でそれを受け取ってしまったのだ。


「今回、こうして私がお嬢様に接触したのは、いわば完全な規律違反。ですが、私としても一度、どうしてもお二人のお気持ちをお嬢様に告げておきたかったのです。十年以上、お嬢様の成長を見守ってきた老人のわがままとご容赦ください」


 深々と頭を下げるウキタケ。

 それに対し、アイリスはどう返答するか分からず、ただ視線を泳がすしかない。


 ウキタケは再び、唖然あぜんとしてしまうナデシコを見つめて笑った。


「ナデシコ様。身勝手な願いだとは分かっておりますが、どうかこれからもお嬢様をお任せ願えないでしょうか。十年経っても我々が辿り着けなかったお嬢様の“笑顔”を、あなたは取り戻してみせた。お嬢様にとっても、そして我々にとっても、あなたは一つの“希望”なのです」


 唐突な投げかけに困惑してしまうナデシコだったが、後ろ頭をかきながら視線をそらす。

 目の前に座る執事の抱いている“想い”にどういう言葉を返すべきか、ついに分からなくなってしまった。


 若い二人の困惑を察したのか、ウキタケは「さて」とコーヒーを飲み干し、ため息をついてすくと立ち上がる。

 持ち上がった二人の視線を受け、微笑んだまま彼は会釈えしゃくをした。


「突然、お邪魔いたしました。ナデシコ様、そしてお嬢様も――何卒、お体にお気を付けください」


 返答に困っている二人を前に、ウキタケは「では」と手身近に告げ、颯爽さっそうとその場を後にしてしまう。

 カフェテリアにはほうけてしまった二人と、冷めてしまったコーヒーカップが残された。


 椅子にもたれなおし、ナデシコは去っていく執事の背中を見つめ、少女に告げる。


「驚いたなぁ。まさか私達の事、ずっと昔から監視されてるとはねえ。まぁこれも、“フレアハート財閥”の底力ってことかな」


 おどけて見せたものの、隣に座るアイリスの返事はない。

 少女は視線をコーヒーに落とし、唇をきゅっと結んでいる。


 おそらく、先程のウキタケの言葉を噛みしめているのだろう。

 もはやナデシコは、妙な気を遣うことなどしない。

 ここまで共に歩いてきた間柄だからこそ、あえて無遠慮に切り込んでみる。


「アイリス、前も言ってたよね。『私が変だから、両親が大変な思いをしている』――って」


 それはかつて、アイリスが“調査”の合間に告白してくれた内容だった。

 

 変――人並外れた“握力”を発揮し、人間の本質を“ヴィジョン”として視ることができる、自身の特異体質こそが両親を苦しめている。

 かつて少女は、ナデシコにおぼろげだがそんな事実を告げていた。


 きっと以前の少女なら、その“先”をひた隠していたのだろう。

 アイリスもまた、ナデシコと歩んできた長い時間の中で、ようやく微かにだが心を開いてくれた。


「私……小さい頃に、お母さんに怪我をさせたの。私はただ抱き着いたつもりだったんだけど……お母さん、腕を怪我して……しばらく、ギプスをはめることになって」

「あのウキタケって人が言ってた件か。なるほど、無意識のうちに“握力”を使っちゃったんだね」


 こくりと頷くアイリス。

 また少し目線が下がり、黒い髪がぱらりと垂れた。


「あの時の事、今でもしっかり覚えてる。お母さん、腕から血を流してて……凄い辛そうで、苦しんでて……あの時の感触を……まだ覚えてるの」


 少女の手が、わなわなと震えていた。

 脳裏には、彼女が両親との間に溝を作るきっかけとなった、“あの日”が再現されているのだろう。


「自分にそんな力があるなんて知らなかった。でも、後からお医者さんに聞いて、やっと分かったんだ。お母さんに怪我をさせたのは、私だって」


 少女はただ、無邪気にじゃれただけだったのだろう。

 目の前の母親に手を伸ばし、力いっぱいその体を引き寄せただけ。

 どこの子供でもやる、そんないたって他愛ない行為が、結果として肉体を破壊し傷付けることに繋がってしまった。


 その不幸な歯車の連鎖が今もアイリスの中に残り、縛り続けている。


 かすかに、少女の体が震えているのが分かった。


「あれ以来、二人に触れるのが――ううん、誰かと触れ合うのが、怖かった。また私のせいで、誰かを傷付けるんじゃあないかって。私はこの力で誰かを――不幸にするんじゃあないかって」

「なるほど。そうやって十年もお屋敷にこもって、ずっと一人でいたってわけか。それじゃあ、外の世界を知らなかったのも納得できるな」


 アイリスは拳を握りしめ、歯を食いしばる。

 沸き上がってくる気持ちを抑え、必死に言葉を紡ぎ出す。


「分かってたんだ……お父さんとお母さんが悪いんじゃあないって。全部悪いのは私……こんな“変”な力を持ってて、周りの人と距離を置いてるのも、全部私……なのにじいに……あんなひどい事言っちゃった……」


 アイリスは、先程までの自分を恥じているのだろう。

 内心では現状を理解しつつ、それでも両親のせいにすることで逃げようとした、自身の弱さに向き合っているのだ。


 カフェテリアにどれだけ日が差し込もうとも、テーブルの周囲に仄暗ほのぐらい闇がまとわりついているように錯覚する。

 アイリスの奥に鎮座した真っ黒な“過去”が、いまだなお少女の足元へとすがりつき、絡みついていた。


 目を閉じ苦しむアイリスに、ナデシコは問いかける。


「アイリスはどうしたいんだい? お父さんとお母さんの元に、また戻りたいと思うかい?」


 時間はたっぷりと掛かった。

 やがて少女はただ黙したまま、重々しく首を縦に振る。


 何もかもがうまくはいかない。

 十年の間でこじれた家族の仲というのは、願望一つでどうこうなるものではないのだろう。

 だがそれでも、アイリスのその行動が、彼女の捨てきれぬ“本心”を表している。


 彼女はただ、堂々と戻りたいだけなのだ。

 遥か遠くの地に確かにあるはずの、“家族”の元に。


 ナデシコは「そうか」とだけ呟き、ようやくコーヒーに口をつける。

 冷めたそれを一気に飲み干し、わざとらしい大きなため息をついた。


「じゃあさ。全部が終わったら、私も連れて行ってよ。あんたのお屋敷ってのにさ」

「――えっ?」


 目を丸くし、顔を上げるアイリス。

 ナデシコは椅子に下品なまでにもたれかかり、不敵な笑みを浮かべていた。


「殺人事件の真犯人を見つけて、濡れ衣を晴らしたら、二人して堂々とお屋敷に戻るんだ。そこであんたの両親に、私がきちんと説明してあげる。あんたがどれだけ、外の世界で頑張ってたかをね?」

「い、いいよ、そんなの……うちの家族にまで、ナデシコを巻き込めないよ」

「固い事言わないの。大体、もう十分巻き込まれてるんだから、たいして変わんない変わんない。それになにより、“フレアハート財閥”のお屋敷なんて、一生のうちで入れるかも分かんないでしょ? よく考えたらこれって、すんごいラッキーじゃない?」


 相変わらず独自の理論で突っ走るナデシコに、アイリスは肩の力が抜ける。

 だが、よこしまな感情に捕らわれかけていたアイリスを、ナデシコはいともたやすく救ってみせた。


「必要以上に背負い込む必要なんかないさ。あんなに気にかけてくれてる執事さんがいて、待ってくれてる両親がいる――なら、やるべきことをやって、堂々と胸を張って帰ってやればいい。前よりも強くなったぞ、ってね。家出娘の帰還なんて、そんなくらいがちょうどいいさ」

「そ、そういうものかな……お父さんとお母さん……分かってくれるかな」

「大丈夫。さっきの執事さんだって言ってただろう? あんた、昔に比べて笑えるようになった。それだけでも立派な成長なんだからね」


 些細な出来事を、これでもかと前向きに生きる材料にするのも、ナデシコ流の生き方だ。

 アイリスは唖然としつつ、どこか自然体で考えてしまう。


「可愛い子には旅をさせよ――っていうけど、ただ可愛いまま帰ったってつまんないでしょ。事件解決して、外の世界知って――どうせならとびっきり、“強く”なって帰らないと、ね?」


 分かるような、分からないような探偵の理論に、それでもアイリスはようやく、くすりと一つ笑うことができた。

 少女は手元のコーヒーに浮かぶ、自身の顔を見つめる。


 まだまだ、自信など持てない。

 父と母に対し、どんな言葉を投げかけ、どうやって十年の空白を埋めるべきか、見当もつかない。


 だがそれでも、屋敷を飛び出すあの日――不安だけしか持ち合わせなかったあの時の自分と、今は違う。


 それが知らず知らずのうちに、アイリスが自分の中に作り上げてきた“強さ”なのだろう。

 それがもっとしっかりとしたものになった時、ようやく空白の中になにを詰め込むべきかが、分かるのかもしれない。


 アイリスも頷き、コーヒーを口にする。

 冷めてしまったそれを流し込み、肉体を苦みで覚醒させた。


 不意に見つめた探偵の意地悪な笑顔に、アイリスは柔らかな笑みを作り、ただ静かに頷いていた。

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