(-_-メ)和) ちょっと、行ってくるよ。

 勉強、洗濯、ゴミ出し、弁当作り、母親に飯を食わせる。


 朝にやる諸々を終え、さぁ後は介護士を迎えるだけだとなったところで、電話が掛かってきた。


 発信者は『二俣吏依奈』と表示されている。


「はい―――」

『姉さんが倒れちゃったのッ!!』

「うん。ゆっくり話せ」


 そう言ってもなお早口で要領を得なかったが、何度か聞き直し、姉の状態をひとつひとつ話させ、だいたい理解できた。


「救急車は?」

『……ううん』

「俺が呼ぶか?」

『……分かんない』

「二俣?」

『やだ……』

「二俣」

『もういなくならないで……』

「吏依奈!」

『はい!?』


 怒鳴るなんて久しぶりだ。喉が痛い。


「今から俺が行くから、ちょっと待っててくれ」

『……うん』


 通話終了。


「……」


 俺はさっそく行動を開始する。


「母さん、介護士の人、まだなんだけどさ。留守番しててくれないか」


 母は何も言わない。言えない。動けない。考えることもできない。


「俺の、クラスの女子……? 友達……? 生徒……?」


 なんだかどれもしっくりこなかった。


「まぁとにかく、女の子が泣いてるんだ」


 母は曖昧に頷いた、ように見えた。


「ちょっと、行ってくるよ」


※※


 10分後。


 俺は二俣家に辿り着いた。


『相楽くん!? なんで?』


 誰に電話したのか自分で分かっていなかったようだ。


「……ふぅ~」


 俺はマンションのエントランスで、緊張が弛緩するのを感じながら言った。


「開けろ。かよわき生き物よ」


 開いた。


「お邪魔します」


 もう勝手知ったる順路を行き、二俣のもとへ。


「お姉さんの具合はどうだ、二俣」

「相楽くん、あのね……」

「おお! センセじゃん! どしたの?」


 姉は妹の部屋のベッドで寝ていたが、、とても元気だった。


「まぁ、意識があるどころか、自分の足で歩いてお前のベッドで寝てるって話だったしな」

「ごめんなさい。気が動転してて」

「いいさ」


 洗面所でへたり込んでいる人間を見たら誰でも驚く。


「私のせいで忙しくさせちゃって、過労で倒れたんじゃないかって」

「なぁに言ってんの。確かにちょっと忙しい日もあるけど、大抵定時で帰ってくるでしょ。まぁ、めっちゃ道が混むから毎日遅くなるんだけど」


 救急車なんて呼ぶなよと、彼女が釘を刺したらしい。


「お姉さん」

「なぁにセンセ」

「間違ってたら申し訳ないんですけど、今朝倒れたのは疲労とか立ちくらみとかじゃなくて、なんじゃないですか」

「……さすがお医者さん志望なだけあるねぇ」


 医学の知識なんぞまだ何もないが褒められた。


「どういうこと?」


 話についていけていない二俣―――吏依奈がキョトンとしている。


「心のがひとつ取れたってことだ。お前のおかげでな」

「私……?」


 未だに疑問符だらけの吏依奈に、姉が言った。


「久しぶりにぐっすり寝て起きたら、身体が軽すぎて逆にびっくりしちゃってさ」

「それで倒れたの? だって、昨日ご飯も食べなかったじゃない」

「胸がいっぱいっていうか。幸せで胃もたれすることってあるんだね?」

「……知らないわよ。何恥ずかしいこと言って―――」

「だって、吏依奈がご飯作ってくれたんだよ?」

「……っ!」

「食べられなくてごめんね? でももうダメだったんだ。置かれたご飯とおかず見ただけで涙出てきちゃって」


 言いながら涙ぐんでいる。


「最近はセンセも連れてきて、勉強も頑張ってるし。それに―――雰囲気も昔に戻った感じ」

「昔って?」

「う~ん、小学生くらいの頃かなぁ」

「そりゃ、変わるでしょう」

「ううん。アンタは変わったんじゃなくて、って感じだったから。お父さんがいなくなっちゃってから、言葉遣いとか態度とか、無理してキリッとするようにしてたでしょ」


 二俣は、姉の言葉を黙って聞いている。


「だけど最近、って笑うようになった。私好きなんだよ、アンタのなんにも考えてなさそうな笑い方」


 未だに涙目で、しかしとても嬉しそうに彼女は言った。


「ねぇ?」

「……うん」

「この頃、なにか良いことあった?」

「分かんない……けど、ね?」

「うん?」

「学校行くの、もう辛くはない、よ」

「―――そうなの」


 姉は、妹の頬に手を添えてから、言った。


「―――!!」


 ドアが軋み開くような高音が聞こえ、次の時には妹が泣き出していた。


「うん……うん……いいごど……いっばい、あっだ……!」

「うん……そうだね、えへへ」


 止まらない嗚咽と慟哭を続ける妹の顔を撫でながら、姉は言う。


「ごめんね。辛いときに何もしてあげられなくて、私もお母さんも、自分のことで精一杯で」

「ぢがう……それは、ゲホッ……わだじのぼうだがらぁ」


 目は涙で見えず、鼻も喉も詰まらせて、なんとか言葉を絞り出す吏依奈。


「……」


 場違いに俺が泣きそうになってしまったので、慌てて部屋を出た。


 ※※


 リビングで待つ。


 登校時刻はとっくに過ぎている。


 ナガサ経由で遅刻の連絡は行っているとは思うが。


「相楽くん」


 吏依奈がやってきた。


「お姉さんはどうした?」

「……二度寝するって」

「ふふっ」

「なぁに?」

「いや」


 真っ赤な顔で。

 腫れた目で。

 幼い鼻声で。


 それに、なんだか小さくなったようにも見える。


 小学生とは言わないが、若返ったな。


 なんて言ったら。


 怒られるだろうか。

 泣かれるだろうか。


 それとも。


 笑ってくれるだろうか。


「―――っと」


 突然、温かい……いや、熱い物体が胸にぶつかってきた。


「お、おい……」


 それが、抱き着いてきた吏依奈だと気付いてからはパニックだった。


 どうしていいか分からなかった。


 向こうが背中まで手を回している以上、こちらもそうした方がいいのか。


 っていうか、あっつい。体温高っ! 泣いた後だからか。


 ……そんなことより―――いや、ほんとにこれは。


 どうしよう。なにが正解なんだろうか。


 思い切って抱き返そうにも、力加減が分からない。


 二俣の身体はとても細くて、壊してしまいそうだからだ。


「相楽くん、お母さんのことはいいの?」

「一応、Webカメラでモニタリングはできるから大丈夫。もうすぐ帰るけど」

「……ふぇぇえええええん!!」

「なんで?」


 この泣きは分からない。


「だって、だって……私ずっど迷惑じががげでない……なのに、頼っぢゃっで……いっづも、いっづもぉ!!」

「……っ!」


 その、目よりも鼻から出る液体の方が多い泣き声と泣き顔を見た瞬間、俺の胸から腹へ、なにやら重たいものがドシン、と落ちていった。


 なんだろうこれは。


 胸にかきむしりたくなるような苦しさと、むず痒さがある。


 それと同時に、腹の奥にとても温かいものがドロリと溶けた感じがした。


 その溶けた“なにか”はゆっくりとせり上がり、それが鼻に立ち上ると、抜けるようなスッキリとした感覚とともに、もうこのほかにはなにもいらないと思えるほどの、無上の喜びが湧き出し全身を駆け巡っていった。


「んなことはない」

「……ふぇ?」

「二俣は良い奴だよ」


 静かで暖かで柔らかな空気に溺れるほど満たされた俺は、とりあえず彼女を泣き止ませようと、いつか貰った言葉を花束のように返してみた。


 そしたら、また子供のように泣かれた。


【続く】

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