星降りの丘
その日ミドリはクレセントに会いにケンタロウのいる牧場に行った。幼いころからミドリのことを知っているケンタロウの両親も、ミドリを温かく迎えてくれた。
ミドリはケンタロウと一緒に厩舎に向かった。子供の時に何度も見てきた場所だ。とても懐かしい。ところどころより年季を感じさせるようにはなったが、基本的にあのころのままだ。
そして馬房の中には、あのころと同じようにクレセントがいた。クリーム色の体毛に、額には三日月型の模様がある。
「こんにちは、クレセント。久しぶり。ミドリだよ」
そう言ってミドリが近づいていくと、興味をそそられたクレセントが近寄ってきて馬房から顔を出した。ミドリは馬の額を優しく撫でてあげる。
その時後ろにいるケンタロウが小さく笑った気がしたので、ミドリは彼のほうを振り返った。
「なに? なにか可笑しい?」
「いや。ミドリは相変わらず人と話すみたいに馬に話しかけるんだなと思って」
ケンタロウに笑われて、ミドリは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「いいでしょべつに! 馬とのコミュニケーションは大事なんだよ」
「ああもちろん。駄目だなんて言ってないよ。ただ……」
そう言ってケンタロウがまたクスクス笑い出したので、ミドリはフンと顔を逸らせた。
ミドリは馬房の中に入っていって、クレセントの体をあちこち触った。どこかの葦毛の馬と違って、おとなしい。クレセントもわりとやんちゃなほうではあるのだが、比べる相手が相手だけに。いつも大きな競走馬の体を目にしているので、クレセントが幾分小さく見える。
ミドリはクレセントの背中の首に近いほう、たてがみの終点辺りに、小さなコブを二つ見つけた。まるで人間の肩甲骨のようなでっぱり。触ってみると、微妙に柔らかい。
ミドリはそれからしばらく黙ってクレセントの体を撫で続けた。ケンタロウもミドリの気持ちがわかっているのか、何も言ってこない。
クレセントの背中にできた少し歪なコブは、病気でもなければ元々あったものでもない。このコブは、夜になるとほのかに白い光を放つようになる。俗に「流星の印」と呼ばれるものだ。
ミドリとの再会に気分が高揚したのかはわからないが、クレセントが馬房の中を動き回り始めた。寝わらの粉が宙に舞う。
「なあミドリ。久しぶりにクレセントに乗ってみる?」
「えっ、いいの!?」
ケンタロウの提案にミドリは驚き、そして嬉しくなった。クレセントはミドリが子供の時に初めて乗った馬。乗馬のノウハウ、そして馬とのコミュニケーションを教わった馬だ。馬と触れ合う喜びを知ることができたのは、クレセントがいたから。そうでなければミドリは馬と関わる仕事に就いていなかったかもしれない。
「なんだよ、嬉しそうな顔して。もう駄目って言っても乗るつもりだろ?」
「うん!」
馬に馬装を施し、ミドリはクレセントを引いて厩舎から出た。ケンタロウももう一頭の乗用馬を連れてきた。
ミドリはあぶみに足をかけ、クレセントの背中に跨った。視点が一気に高くなる。
吹き抜ける青空。緑に溢れた大地。風は少し肌寒いが、日差しが暖かい。ミドリは大きく深呼吸し、自然の息吹きを肌で感じた。
もう一頭の馬に乗ったケンタロウが先立って歩き出した。ミドリもクレセントに指示を与え、その後ろをついていく。
平地から、森の中の道に入った。
「よし、じゃあちょっと走るぞ」
前を進む馬が駆け出した。クレセントも追って走り出す。
森の中を馬に乗って駆け抜ける。次々と移りゆく景色。気分は快調。馬の蹄で奏でられる軽快なリズムが心地良い。
やがて森を抜けた。視界がパッと開け、大きな空の広がりが目に入る。
そこは小高い丘だった。巷では星降りの丘と呼ばれている。子供のころミドリもよくここへ来たが、この場所から見る夜空の星は本当に綺麗だ。
ミドリはクレセントに跨りながら、二つのコブである流星の印を撫でた。ミドリの脳裏に幼いころに見た流星群の夜の光景が蘇る。
流星の印は一般的にあまり知られていない。まるで男女が交わす契りのように、それは秘めるべきものとして語られるからだ。
流星の印はどの馬にも現れるものではない。現れる時期も決まっていない。なぜ現れるのかも解明されていない。
流星の印は闇夜にうっすらと光を放つが、その光はある時期に向けて少しずつ輝きを増していく。そのある時期とは、地上から多くの流れ星を目撃できる流星群の日だ。流星の印という名前はそこからつけられた。
流星群の夜、馬は印を解き放ち、その背中から白銀の翼を生やす。そしてその翼で空を駆け、生まれ育った地から去っていく。にわかには信じ難い光景だが、子供の時ミドリは確かにその光景を目の当たりにした。
馬に流星の印が現れることは幸福なことだと言われる。なぜなら、印が現れることは人と馬がかけがえのない絆を結んだ証だと伝わっているからだ。
愛情を込めて育てられ、人との信頼関係を築き、生涯変わらず愛され続けた馬は、ある時その恩を人に返すのだという。翼を生やし、人に別れを告げてその地を去る時、馬はそこに一枚の羽根を残していく。その羽根を持つ者には幸運が訪れると言われる。去った馬がどこへ行ったのかは、誰も知らない。それは、知るべきことではない。人間が立ち入るべき領域ではないからだ。人と別れた馬はきっと、その身果てるまでどこか遠くの地でひっそりと暮らしているに違いない。
産まれた時からケンタロウに見守られてきたクレセントは、おそらく誰よりもケンタロウに対して心を開いた。その信頼関係の証が、流星の印として表れた。
それは喜ぶべきことであると同時に、別れの時が近づいていることを意味している。ミドリやケンタロウが素直に喜べないのは、そのためだ。
ミドリを乗せたクレセントが星降りの丘をゆっくりと歩く。丘から見る景観は美しく、空気は気持ち良い。
「ねえケンちゃん」
「なんだ?」
「私今日、クレセントに会えてよかったよ。またこうやってこの子に乗ることができて、嬉しいんだ」
「そうか」
ケンタロウは、昔から多くを語らない。だけどいつもいろんなことを考えていて、ミドリの気持ちを理解してくれる。
だから今も、ケンタロウはわざとミドリから顔を背けている。
ミドリのまぶたから溢れてきた涙を、見ないでくれている。
流星の夜に起きる馬との別れは、誰もが望む美しい別れ。あるべき姿。人間の都合による無念な別れではない。
いつか来るその時は、笑顔でこの馬を送り出してあげたい。
だから、今日ぐらいは、ちょっとぐらい泣いたっていいよね?
いつだって、別れは悲しいものだから。
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