レースへ
シルバーライトのデビュー戦当日。レース場に向かうため、ミドリはシルバーライトを引き連れて厩舎を出た。
馬を電車やタクシーに乗せて移動させることはさすがに無理なため、専用の馬運車で移動する。馬運車の見た目は大型のバスに近い。後部に下ろされたスロープから馬を中に入れる。内部はかなりこじんまりとした馬房のようになっている。
輸送会社のスタッフと挨拶を交わし、ミドリはシルバーライトを馬運車に乗せた。
移動の間も、ミドリは馬を緊張させないように付きっきりで面倒を見る。
「頑張って走るんだよ。でも、怪我はしないでね」
白いたてがみに手を沿わせながら、ミドリは言葉をかけた。
シルバーライトはミドリの心配などどこ吹く風といった様子で、退屈そうに欠伸をした。
カズマは自宅を出る前に、リビングに飾られている写真の前に立った。
彼とかつての相棒ノーザンスカイがレースを走っている躍動感のある写真。
ノーザンスカイは、いつも先頭を走っていた。序盤から飛ばし、中盤でさらに後続を引き離し、誰も寄せつけずにそのまま先頭でゴールする。一頭だけ異なるレースを走っているようだった。あんな走りをする馬は、おそらくもう二度と現れることはない。
誰もがもっと見たかったはずだ。あの馬の走りを。特別な瞬間を。運命だけが、それを許さなかった。
カズマはノーザンスカイの写真が収められた写真立てを横にした。
誰よりも速かった相棒への想いは、この胸の内に秘め。
今日、新たなスタートを切る。
レース場に到着し、ミドリとシルバーライトは発走の時を待っていた。
表のほうでは、他の馬たちの未勝利戦が行われている。それが終われば、シルバーライトが走る二歳の新馬戦だ。
レースが近づくにつれ心臓が暴走を始めたように脈打って、ミドリはどうしようもないほど緊張していた。馬のためというより、自分を落ち着かせるためにシルバーライトに触れているような有様だった。走るのは馬のほうだというのに。
これから始まるのは、仲良く一緒に走るお遊戯ではない。勝ち負けを決定づける、競争だ。そして、レース場には多くの観客が訪れている。馬たちに期待を寄せて、思い思いに馬券を買う。競争に敗れることは、その人たちの期待を裏切ることにもなる。
自分ではどうすることもできない事象に晒されて、ミドリは容器に詰め込まれたマヨネーズにでもなりたい気分だった。マヨネーズになってしまえば何も心配することなどないのだから。
発走の時が近づいている。
カズマがレース場の騎手待機所に向かおうとしていると、廊下である人物とすれ違った。
競馬記者のサツキだ。
カズマはそのまま通り過ぎようとしたが、サツキが何か言いたそうな顔をしていたので、立ち止まってやった。どうやらサツキはカズマのことを待っていた様子だ。
「ようやく復帰戦ね」
サツキの言葉に、カズマはだからどうしたというような顔を向ける。そんなことは昨夜眠る前からわかりきっていることだ。
「いい? 今日はみんな、あなたのレースを観に来たのよ。有力馬たちが集まる重賞戦じゃない。あなたの走りを観に来たの」
「僕がその辺でランニングでも始めればいいのかな?」
カズマのスカしたジョークを受けて、サツキは眉間にしわを寄せた。やっぱり、冗談の通じない相手だ。
「もう行っていいかな? それともきみが代わりに馬に乗ってくれる?」
カズマを睨むサツキの目がさらに鋭くなった。
沈黙を肯定と受け取ったカズマは、サツキの前を通り過ぎる。
「カズ」
彼女の声に、足を止めた。
「頑張って。応援してる」
カズマはその言葉を背中で受けた。
「ああ」
パドックが始まった。円周を先導して歩く誘導馬の後を出走馬たちがついて歩く。
レースを走る他のライバル馬たち。周りでは観客たちが馬たちの様子を観察している。
思いの外、人が多い気がする。カメラマンの数も多い。
シルバーライトを引いて歩くミドリは、自分の足の震えを隠すことだけで精一杯だった。緊張が止まらない。
ミドリがガチガチの手で手綱を引いていると、シルバーライトが突然進む方向を変えた。
「えっ、ちょ、どこ行くの?」
ズンズンとミドリを引っ張って進んでいくシルバーライト。コースを逸れて、多くの観客が見守っている一角へ来た。
人々が間近で馬を見られて歓声を上げた。シルバーライトはそちらを向いてじっと立ち尽くしている。
ここがシャッターチャンスとばかりにシャッター音の連打。
それに気を良くしたのか、シルバーライトが足踏みをするような妙なステップを始めた。それを見てまた歓声を上げる人々。
「ちょっとちょっと、恥ずかしいからやめてー」
ミドリの願いも虚しく、シルバーライトのファンサービスは終わらない。
遠くで騎乗号令が聞こえた。待機していた騎手たちが小走りで一斉に担当馬のところへ向かう。
「ずいぶんと楽しそうだね」
赤と白の勝負服に身を包んだカズマが到着し、微笑みながらそう言った。
「全然楽しくないですよ!」
シルバーライトと絶賛悪戦苦闘を繰り広げているミドリは、憎らしげにカズマを睨んだ。
カズマが登場すると、今度は彼に向かってカメラを向ける観客たち。やはりこの人の多さは、彼の復帰戦に注目が集まった結果だろう。
カズマがポンポンとシルバーライトの体を叩いて合図をし、それから飛び上がって背中に跨った。
本馬場に入場した。出走馬たちが芝のコースに入り、おのおの返し馬、ウォーミングアップをしながらゲートへと向かう。
軽やかに走るシルバーライトはエネルギー充分。カズマは馬の溢れんばかりのパワーをひしひしと感じた。この力が、上手く走りに向いてくれればいいけれど。
天気は良く、すきっとした良馬場。吹き抜ける風も心地良い。
ゲート前に到着し、馬をゆっくり歩かせながら出走の時を待つ。
この新馬戦の距離は1800m。出走馬は十頭で、シルバーライトの枠順は三枠五番。基本インコースを取りやすい内枠が有利とされるが、この馬の場合はあまり関係ないとカズマは思っていた。
他の馬は全て黒っぽい
ミドリもゲート前までやってきて、前で手綱を引いてくれている。厩務員は、レース中以外本当に馬に付きっきりである。
この荒っぽい馬をレースに出すことができたのは、ミドリの存在がとても大きいとカズマは思っていた。馬と真摯に向き合い心を込めて接する彼女がいたから、ここまでくることができたのだ。
レースのファンファーレが鳴り響いた。重賞レースになると、ファンファーレは録音ではなく生演奏で行われる。
もうすぐレースが始まることがわかっているのか、シルバーライトの気が立ってきた。首を大きく上下させたり唸り声を上げたりして、周りを威嚇し始めた。
他の馬は厩務員や黄色いズボンに緑の服のゲート員に促され、シルバーライトから逃げるようにゲートに収まっていく。
なかなかゲートインしないシルバーライトに痺れを切らして、ゲート員たちが集まってきた。まずい状況だ。下手に刺激すると、火に油を注ぐ羽目になる。
その時、ミドリが顔が密着しそうなぐらいシルバーライトに近づき、首筋を擦りながら声をかけた。
「大丈夫だよ。うん。怖がらなくていいから。大丈夫」
とても優しい声。先ほどまでミドリも相当緊張しているようだったが、そんな様子も見せず馬に声をかけ続ける。
すると興奮気味だったシルバーライトが見る間に落ち着き始めた。その目にしっかりとミドリの姿を捉え、彼女の言うことを聞こうとする。
シルバーライトの状態を確認したミドリは、手綱を引いてゲートに導いた。そのまま無事にゲートインが完了する。
「頑張って、走るんだよ。だけど無理はしないでね。カズマさんもよろしくお願いします」
そう言って、ミドリはゲートの下の隙間から出ていった。
他の馬も全てゲートに収まる。
確認を終えたゲート員がラチ際にはけ、
小気味よい音とともにゲートが開いた。
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