お茶会に付き合ってくださらない?


 悪夢だと思った。

 結局猛獣を止めることも叶わず、気がついたら朝だった。どうやって帰宅したか記憶に無いが、目が覚めた時には硬い長椅子なんかではなく、慣れ親しんだふかふかの寝台だったので幾分ほっとした。

 別に自分にとっては初めての行為でもないし、見も知らぬ相手でもない。

 だが、初めて幼馴染を『怖い』と思った。

 許嫁に振られた衝撃も残ってはいるが、それを遥かに上回る衝撃的な事件。

 寝台から降りようとすると身体中のあちこちが傷んで、あの硬い長椅子で無理な体勢を強いられたことをまざまざと思い出して、夢なんかではないと思い知る。

 枯れるくらい泣いた気がするのに、まだ視界が潤むのは人体の不思議である。

「お嬢さま、そろそろお支度を…」

 扉の向こうから可欣の声がして、そういえば今日は参内の日だったと気づく。

 天長節も終わり季節は秋。そろそろ中秋節もあり、また宮廷では儀式が行われるのである。

 顕威帝は国内の平定や安定をとても重視しており、昔からある年中行事や国をあげて行われる祭事にとても積極的であった。その為行事の度に化粧師が駆り出される訳なので商売的にも有難い政治ではあったのだが、今日に限ってはそれを恨めしく思ってしまう。

「はぁい、ありがと」

 もぞもぞと寝台から痛みを押して降りながら、可欣へ返事をする。

 婚約破棄を打診されたこと。

 幼馴染に手篭めにされたこと。

 何一つ整理出来ていない心を抱えて煌びやかな宮廷に向かうのは、どうしても苦しかった。


 それからしばらくして、何事も無かったかのようにまた子豪から呼び出しを受けた。

 さすがに謝罪があるのだろうと思って仕方なく邸宅に赴いた香月が耳にしたのは、信じられない台詞だった。

 確かに謝罪にしては呼び出しだなんて誠意がないな、とは思った。思ったがまさか――脅されるだなんて。

「俺ァ別に謝る気なんてねェし、何なら兄貴やお前んトコの親父さんに知られたって屁でもねェよ」

「でもお前は違うだろ?」

「どうせ兄貴に振られて行く宛だってねェんだし、俺に落ち着きゃいいじゃねェか」

「ま、知られたくねェなら俺の言うこと聞いて、姜家との関係保った方が利口だよなァ?」

「とりあえず兄貴との婚約破棄については、ここで止めとくわ」

 別に今思えば、悪いことをしたのは子豪であって、香月が隠そうとする必要なんてなかったとわかる。だがその時は今までの何もかもが壊れてしまうことが怖くて、逆らうことは出来なかった。

 何より、猛獣みたいな幼馴染が怖かった。

 それから季節が三回変わるまで、ほとんど子豪の言いなりだった。相変わらず商談で飛び回る秀英とは会えなくて、婚約についても宙ぶらりんのまま。

 ただただ、有限の時間を子豪に搾取されるような、そんな日々が続いた。

 それでも香月が立って居られたのは、『化粧師』という職が、呉の誇りが、玉燕妃からの信頼があったからだった。

 家と宮廷、子豪の部屋を行き来する日々だった。

 おそらく両親も、今となってはわからないが、じわじわ不審に思っていたとは思う。秀英に結婚無期限延期をされているのに、頻繁に姜の邸宅へ赴いていたのだから当然だろう。

 でも、誰も、何も言わなかった。

 とても歪だったと思うが、それは今振り返るからそう思うだけで、当時はそんな違和に気づく事も出来ず毎日息をするので必死だったのだ。


 三つの季節を越え天長節の儀式の準備で慌ただしくなる頃、突然、顕威帝が病に倒れた。

 もちろん儀式どころではなく玉燕妃もつきっきりになり、化粧師の参内もしばらく中止となった。

 化粧師の仕事が生きがいにまでなっていた香月は、それでも何か出来ることがないかと、両親の都への仕事について行きつつ、伝手を広げた。

 もちろん変わらず子豪からの圧力は続いていたが、もう何かを変えることは諦めていた。

 それでもまだ、大丈夫だと思っていた。


 しかしそんな絹糸一本で耐えていたような状況は長くはもたない。

 天長節の儀は開催されないまま秋に差し掛かったころ、遂に顕威帝が崩御され、第一皇子であった昂漼(こうさい)帝が即位したのである。

 それからはまさに地獄のような日々だった。

 顕威帝が崩御された数日後、姜家から正式に秀英との婚約破棄の沙汰と、絶縁状が届いた。あんなに連絡のあった子豪からでさえ、文のひとつも届かなくなった。

 さらにその数日後、香月の両親は馬車の事故で帰らぬ人となる。それを機にあれよあれよと化粧師の仕事も立ち消えていった。

 まずは玉燕妃が皇太后へ登られたのと同時に、専属化粧師の契約が終了。そして少しずつ広げたはずの伝手も、手のひらを返されたように取引しないと言われてしまったのだ。

 自分の実力を認められたと思っていたのに、どうやらそれは両親の培ってきた『呉』の力のお陰だったのだろう、両親のいないただの香月との取引は、どこも取り合ってくれなくなってしまった。

 それから冬を越える間は、なんとか青楼の妓女たちの支度や化粧講座などで食いつないだが、段々とその数も減っていき、終いには青楼よりも安価な遊郭との取引しか無くなってしまっていた。その頃には、最後まで支えますと言ってくれていた可欣への給金も支払えなくなり、泣く泣く知り合いの商家へ紹介状を書いた。

 いよいよ独りぼっちになってしまったが、なんとか香月だけが食いつなぐくらいには遊郭の取引はあり、ただただその『化粧師・呉の生き残り』としての誇りだけが、香月を奮い立たせていた。

 しかし、ようやく冬の盛りが過ぎた頃、更なる事件が起きた。いや、起きたというより気づいたのだ。――そういえばこの冬の間、月のものが来なかった、と。

 愕然とした。

 もしそうだとしたら、もちろん父親は子豪しかいないのだ。

 誰も頼れる人がいないこの世界で、もしかすると養うべき存在が『ここ』にいるかもしれない。

 しかしその責を担う片割れからは絶縁されてしまっている。

 もう、生きていられないと思った。

 それが本当にそうなのかどうか、確かめる勇気も医者にかかる気力もなかった。

 ただ、絶望しかなかった。

 ――冬は、死ぬには簡単な季節だ。

 少し外で過ごすだけで、あっという間に身体の機能は停止へ向かっていく。

 何もかもが嫌になった香月は、気づいたら両親が事故に遭った場所まで来ていた。都から少し離れた街道の、少し森に入ったところだ。雪がしんしんと降っていて、両親が落ちて血溜まりになっていた窪みは真っ白に覆われている。

 このままここで、両親のもとに行けるなら。

 ひとけのない道の端で、さくりと音を立てる雪の上にゆっくりと座り込んだ。冷たさもわからなかった。

 だんだんと意識がぼやけてきた時、後ろの方から足音と話し声がするのに気づいた。気力もないので身動きも取らずにいたが、その声は徐々にこちらに近づいてくる。

「あっ、ほら、やっぱりいたわよ、水晶」

「…なんてこと、……生きてるかしら」

 鈴のような可愛い声と、落ち着いた妙齢の女性だとわかった。

 ゆったりと首だけでその方向を見た。

 唐傘を持った十歳くらいの少女と、身なりの良い女性がいた。

「あっ!生きてるわ!」

「…!」

 さくさくと雪をかき分け、その二人が香月のもとへ辿り着く。何かが肩に触れた気がして下を見ると、女性が厚手の布を掛けてくれていた。

「どうしたのあなた、何か探し物?」

 鈴のようなころころとした可愛い声の少女が、唐傘を差し出しながらそう問うてきた。

「…………いえ…………」

 喉がぴったりとくっついて、声を出すのが億劫だったが、なんとかそれだけ答える。返事をしてくれたのが嬉しかったのか、少女はにっこりと笑んだ。

「なら良かったわ!何か失くして探してるのかしらと思って来てみたのよ」

 失くしたもの。

 その言葉に、冷えきっていた身体が感覚を帯び、目元に熱が集まるのを感じた。

 そう、全て、失くしてしまった。

 家族も、未来も、誇りも。

 そう思い知って、涙が止まらなくなってしまった。少女の顔が見えなくなる。

「あらあら、寒かったのね、耳も真っ赤よ」

 声にならない声で泣き出す女を目の前にして、少女の声音は一切変わらなかった。そっと耳に触れたその手のひらの温もりが、信じられないほど心地よくて、それにまた泣けた。

「とりあえず立ちなさい、あなた」

 肩に手を添えて、女性が身体を引き上げてくれる。その揺れに合わせて、「ひっく」としゃくる声が漏れる。

「あらびしょびしょ。雪って本当に水なのね」

「そうですね、この前お勉強されたばかりでしたから理解が深まりましたわね」

「ええ、邸から見てるだけじゃ、わからないことも多いわ」

 香月がしゃくりあげるのを他所に、二人は雪に対しての感想を述べている。

 なんだかそれを聞いていると、なぜ今自分がこうして泣いているのか、香月はよく分からなくなってきてしまって、少しずつ涙も落ち着いた。

「あら、喋れそう?」

「『お話出来そう?』の方がおしとやかですよ、姫さま」

「あっ、いけない」

 姫さまと呼ばれた少女は口に手をあてて、しまったという仕草をしたあと、香月を見上げて目線を合わせてきた。

「あなた、お名前は?」

 その目はとても澄んでいた。どこかで見たことがある気がして、ああ、玉燕妃の芯のある瞳みたいだと小さく思った。

「……呉、香月……」

「…呉?」

 肩を支えてくれていた女性が、姓に反応する。

「え、呉って、もしかしてあの呉?」

 どうやら少女も合点がいったようだった。

「だってだって、呉家って…」

「……」

 驚いているのかそのまんまるな目をもっとまんまるにして、まじまじと見つめてくる。女性は何か思案顔だ。

「そっか、そうなの……」

 そして少女は一瞬、何か思いついたような顔をして、こう言ったのだ。

「ねぇ香月、今日おいしい白牡丹が手に入ったの。お茶会に付き合ってくださらない?」


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