褒美はいらない、平穏さえ頂ければ
可馨は、鏡を見ながら言葉を失っているようだった。
先程少し派手目な衣装を持ってきた梓萌も、口を開けたまま何も言わない。
自信満々に支度を終えた香月だったが、余りにも二人が言葉を発さないので段々と不安になってくる。
少し思い切り過ぎただろうか。
可馨の頬にあった薄いそばかすを、劣等感ではなく優越感とする為に少々細工した。それが吉と出るか凶と出るか。
「…香月さん、これは…」
ようやく、梓萌が声を出す。
香月は鼓動がドクリと一際大きくなったのを感じた。
「す、」
梓萌が静寂を破ったのを皮切りに、今度は可馨が喉を震わす。
「すごいです………こんなの……見たことない……!」
振り返ってそう言う可馨の目は大きく見開かれ、どことなくキラキラしているように見える。
大丈夫だったようで、香月は安堵した。
「わたし、前髪こんなにあげたのもはじめてです……!」
「……本当に、すごいわ、香月さん。こんなに大胆な化粧をするとは思ってなかったけれど…」
可馨に続いて梓萌も、
「……良かったわ、あなたに頼んで」
すっかり興奮している様子の可馨を見て、目を細めながら感想を述べる。
やはり思った通り、梓萌や瑞麗は必要以上に可馨を気にかけているようだ。その瞳には安堵と優しさが詰まっている気がして、香月は思わず問いかけた。
「あの、つかぬ事をお伺いしても…?」
鏡を楽しそうに見入っている可馨には聞こえない程度の小声で問う。不思議そうな顔で頷く梓萌に、続けて香月は質問した。
「可馨さんって、ただの宮女、ではないんですか…?」
官服ではないので正真正銘の宮女だとは思うがどうも気になる。
「ふむ……なぜそう思ったのかしら?」
「え…と、瑞麗さまや梓萌さまが、何だか特別扱いをしているように見えたから、ですかね」
「……」
梓萌は少し考え込むようにしたあと、にこりと微笑って答える。
「この調子でしたら、きっとあとでその理由はわかりますよ」
「……はぁ」
この調子とはどの調子だろうか。
何だかよくわからないが、今は答える気は無いらしい。
まぁ、どちらにしろこれで大目的である『瑞麗の信頼を得る』ことが出来そうなので、香月はひとまずほっとして化粧道具を片付け始めた。
「さぁ可馨、瑞麗さまの所へ参りますよ」
「は、はいっ」
「可馨、扇子を持っておいでなさい」
「…え、えと…演舞のですか?」
「ええ、胡旋舞のものですよ」
「は、はい!わかりました、持ってまいりますっ」
可馨が扇子を取りに宿舎へ向かったのを見て、香月はなるほどと得心した。
「可馨さん、踊りがお得意なんですね?」
「……ふふ」
笑みで返す梓萌の様子から、それが正解なのだと分かる。
おそらく可馨の演舞の腕は相当なのだろう、だから瑞麗も梓萌も、可馨を特別扱いしているのだ。
「そう言えば、そろそろ天長節ですもんね」
かつての皇帝・玄宗の生誕を祝うこの日は、宮廷内でも盛大な宴席が行われる。宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物などで賑わう所謂お祭りだが、近年は各妃たちの売り込みの場ともなっていた。
呉家もよくその支度の為にと皇室からお呼びがかかっていて、当時の皇后・玉燕妃の化粧を担当していたことを香月は思い出す。あの頃はまだ化粧師として独り立ちしたばかりで、それでも信頼を寄せてくれた玉燕妃には感謝しかない。
香月の呟きに梓萌は特に返事を返すこともなく、テキパキと可馨の官服を畳んでいる。
ふぅ、と香月はひと息ついた。
もし可馨が踊り子ならば、あの化粧は正解であっただろう。舞踊なんてものは特に、目立ったもん勝ちだ。
「お待たせしましたっ」
化粧箱も片付け終わったところで、可馨が扇子を持って戻ってくる。
「途中で何人かとすれ違ったんですけど、みんなびっくりしていました…!」
「それはそうでしょうね」
可馨の報告に、梓萌はちらりと香月に視線をやる。
「もちろん良い意味で、ね」
にこりと笑って歩き出す梓萌に可馨が嬉しそうにトコトコとついて行くので、香月も慌てて化粧箱を抱えて追いかけた。
「本当に、見違えたわ」
瑞麗は随分と驚いていたが、その声音は満足気だった。
香月も改めて可馨を眺めてみる。
この部屋は先程の場所よりも大きく窓がとられているせいか、陽の光が充満していて明るい。おかげで可馨の頬に載せた橙色が良く映えた。
香月は可馨のそばかすを、魅せる方向に化粧を施した。
まず斜紅には丹桂に似た色を使い、いつもより濃いめに頬と目の下に載せる。そしてその上から、いつもは目尻に使用する眼弦笔用の筆に橙色の顔料をつけて、そばかすをなぞる様に濃く点を描いたのだ。
内側から外側に向かって濃くなるそれは、まるで蝶が羽根を広げたかのような自由を感じさせる。
更に香月はそこに、最近流行りの花鈿を施した。金箔を細かく千切り、頬の高いところからこめかみにかけて散りばめてある。
そのおかげで、可馨が身動ぎする度に頬がキラキラと輝いて、蝶が飛び立つよりも美しく見える。
あとは可馨の愛らしいたれ目の周りを、頬よりも少し暗い橙色と茶色で囲い、眉を長めに整えた。
可憐さと優雅さがうまく共存していて、香月も満足の出来であった。
「可馨。……今どんな気分かしら?」
ひとしきり化粧を見たあと、瑞麗が可馨に問うた。それを受けて、可馨は少し思案してから笑顔になる。
「とても……嬉しいです」
「そう」
それを聞いた瑞麗は、ほっとした表情で頷いた。そして香月に向き直る。
「香月、よくやってくれました。貴女が素晴らしい腕前だということ、充分に理解したわ」
香月はその言葉に無言で平伏する。
「顔を上げて、香月。ぜひ貴女に見てもらいたいものがあるの。……可馨、胡旋舞を」
「は、はい…っ」
可馨は背筋をぴしっと伸ばし、香月と瑞麗の間にある広い空間に躍り出た。
瑞麗の斜め後ろに控えている梓萌が、ほら言ったでしょうとばかりに笑んでいて、香月は思わずくすりと笑った。
この数刻の中で、この白貴妃がどんな人物で、そしてこの桂花殿がどんな場所なのか、もう否応なしにわかってしまった。
白瑞麗はなるほど、貴妃となるべくしてなった人徳の持ち主である。
香月の主はいつまでも梦瑶ただひとりではあるが、瑞麗に信頼されるということも香月にとってはとても喜ばしいことだと思えた。
「香月さん、ぜひ、楽しんでくださいね」
可馨は準備が整ったのかそう言うと、瞬間がらりと空気を変え、力強く舞い始める。
それは、美しくしなやかで、今まで見たどの健舞よりも心打たれた。
可馨がくるりと回る度に、編み込んだ髪に挿した簪がシャラリと揺れ、頬の花鈿がキラキラと光を反射する。
香月はその美しさに、時間を忘れて見入っていた。
しばらくしてひと舞いが終わると、香月は思わず大きく拍手をした。
するとどこからともなく香月とは別の拍手がいくつも上がって、驚いた香月が見回してみると、辺りには先程までは居なかったはずの宮女や官女たちが幾人も集まってきていたらしい。
「可馨、今までで一番、良く舞えていましたよ」
梓萌がそう声をかけると、ぼーっと息を整えていた可馨が我に返ったように周りを見渡した。
「えっ、えっ」
「可馨凄いじゃない!」
「本当、いつもみんなの前では控えめに踊ってたのに!どうしたの!」
「見て、可馨のお化粧!すごく綺麗!」
「あれってそばかす? 可愛いじゃない!」
宮女や官女から賞賛が飛び交い、可馨は戸惑いながらも嬉しそうである。
――よかった。
香月はようやく、心からの安堵を溜息に零した。
本当に輝かせる化粧とは、欠点や劣等を隠すことではない。
本人が厭うものであっても、そのままで良い、素敵な個性なんだと気づかせてあげられるような。更には愛していけるような。そんな化粧のことである。
香月は化粧師として、ひとつの答えを見つけた気がして胸が高鳴った。
ひとしきりその場の盛り上がりが落ち着いてきた頃、梓萌が声を張る。
「さぁみんな、これで桂花殿の天長節は、可馨の胡旋舞で決まりね」
大きな拍手がまたうねり、満場一致だと直ぐにわかった。
「…可馨、引き受けてくれるかしら」
瑞麗が穏やかな顔でそう、尋ねると、
「……はいっ」
可馨は眩しい笑顔で、そう返した。
「さて香月。改めて感謝を述べさせてもらえるかしら」
集まっていた官女たちと可馨が去ってから、瑞麗はゆっくりと香月にお辞儀をした。
「えっ、頭をあげてください瑞麗さま…!」
香月は声がうわずる。貴妃に頭を下げられる化粧師なんて聞いたことがない。
「いいえ、香月。この成果はとても大きいものなのよ」
瑞麗は頭をあげると、天長節に向けてのこれまでの悩みを打ち明けはじめた。
「胡旋舞の稽古で、あの子が素晴らしい才の持主だということはわかっていたのよ。けれど、あの子、自分なんかには恐れ多いからって、なかなか頷いてくれなくって」
香月は可馨と二人で話したことを思い出した。
確かに可馨は、容姿をきっかけとして自分に自信が持てない様子だった。瑞麗に憧れながらも、自分にはああはなれないと諦めていた。
「本当に助かったわ、ありがとう、香月」
胡旋舞を舞い終わった可馨は、自信に満ち溢れた顔をしていた。
その顔を反芻して、香月は自然と笑顔になる。
「いいえ瑞麗さま、私の方こそ感謝の念に絶えません」
化粧師として、ひとつ成長できた。
そう実感できた今回のこの件は、単なる調査の為だけではない、香月にとってとても大きくて重要な経験となった。
ひとしきり感謝を伝え終わると、瑞麗はひと息ついてから、とても不思議そうに首を傾げた。
「貴女、どうしてわざと地味にしてるの?」
それは純粋なる疑問のようだった。
「あんな腕があるなら、自分を飾るくらい訳ないでしょう? 正直勿体ないわ」
はじめはどうしても説得力がないもの、と瑞麗は残念そうに言う。
香月は苦笑しながら答えた。
「私はあくまでも脇役ですし、主役はお支度させていただく方、ですから」
――本当は、それは嘘ではないが一番の理由でもない。何故なら皇室へ赴いていた頃の香月はきちんと自身を着飾っていたし、身なりにも人一倍気を遣っていたからだ。
今こうして平々凡々にしているのは、兎にも角にも――
「まぁ、いいわ。……香月、褒美をとらせたいのだけれど、何がいいかしら?」
「いえ!何もございません!ここで起こったことは是非他言しないでいただけますと幸いです!」
――目立ちたくないから、ただその一言に尽きる。褒美なんていらないのだ、平穏さえ頂ければ。
そして何より使命の為に、信頼と桂花殿での適度な自由も。
ひとまず香月は、瑞麗からの信頼と、定期的に桂花殿へ参殿出来る機会を得ることに成功した。
両手に化粧道具を抱えて桂花殿を出る。
桔梗殿に向かって少し歩いたところで、前方に見慣れた姿があるのが見えた。
「…俊熙さま」
廊下の壁に背中を預け、両腕を組んだ状態の太子少傅がそこには居た。
近くまで寄ると、俊熙は無言で化粧箱を香月の手から抱え上げる。
えっ。
突然の動作に香月は固まった。
しかし俊熙はそのまま踵を返すと、スタスタと桔梗殿の方へ向かってしまう。
「あ、あの…っ」
あわてて追いかけるが、俊熙はその行動については何も言わず、
「上々だったようだな」
とだけ言った。
「…えっと…瑞麗さまのことですか?」
「ああ」
この人は何処まで知っているのだろうか。
まさか見ていたわけではあるまいし、どこから『上々』な情報を仕入れているのかわからなくて、香月は少し恐ろしくなる。
俊熙に、というよりは、太耀一味に。
「…一応、定期的に参殿出来るよう取り計らっていただきました」
「そうか」
横に並んで歩いているので横顔しか見えないが、いつもの無表情で何を考えているのかわからない。
曲がりなりにも今回の目的を最良の形で達成出来たんだし、褒めてくれてもいいのでは!?
そんな思考が視線から漏れてしまっていたのか、俊熙が苦笑した。
「すまない、褒めているつもりなんだが」
その苦笑した横顔に、思わず心臓がひとつ大きく鳴る。
なんだか見ていられなくて、香月は視線を前方に逸らした。
「…それで褒めてるつもりなら、きっと雲嵐さまもご不満溜まってらっしゃると思いますよ」
「そうかもしれないな、善処しよう」
なんだろう、この胸がソワソワする感じは。
このままでは良くないと、自分じゃない自分が警鐘を鳴らす。良くないことになる、と。
『恋でもしちゃった?』
脳内で梦瑶の無邪気な声が再生されて、ヒヤリと背筋が凍る。何故そんなことを思い出してしまったのだろう。
意識すればするほど心臓がやけにうるさくなってしまい戸惑う。
そもそも何でそんなさらりと化粧箱持ってくれちゃったりするの!?
あまりにも自然で言及出来なかったが、それが俊熙の優しさだということくらいは分かる。
無愛想で生真面目で史上最年少科挙突破記録を持っていて、二十二歳の若さで既に時期宰相候補とも言われているらしい、太耀第一主義の上から目線の宦官。
天地がひっくり返ったって、そんなこと起こりえない。
この人を好きになることなんて。
「……ここまでだな」
俊熙が足を止めて香月の方へ身体を向ける。
びくりと身体が跳ねてしまったが気づかれなかっただろうか。
「上出来だ」
化粧箱をまた両手に持たされて、香月がその箱の装飾を何も言えないまま見つめていると、
「頼りにしてるからな」
ぽん、と、香月の頭に俊熙の手のひらが乗った。
「!」
二回、軽く叩かれると、そのまま俊熙は踵を返して去っていく。
目でその背を追いながら、彼がどんな表情であの仕草をしていたのか、見ていなかったことを後悔した。
「……いや、何よこれ」
心臓は、ずっとうるさい。
ダメだと言う脳内の声もうるさい。
「ろくな事にならないわ…」
わかっている。
身分も違うし立場も違う。稀に宦官と宮を出ていく宮女も居るがそれも悪例とされている。
何より、香月は梦瑶に命を捧げるつもりで宮入りしたのだ。
「ろくな事にならない」
もう一度、言い聞かせるようにそう言う。
振り切るかのように香月は桔梗殿に身体を向けて、大股で歩きだした。
そして桔梗殿の正門に辿り着いた時、俊熙の先程の台詞を思い出す。
『ここまでだな』。
どういう事だろうかと考えようとして――考え込まなくても思い至ってしまって、香月の顔に熱が急激に集まってきた。
『話す場所は気を遣ってくださいよ』
『私は本当に、平穏に目立たず生きていきたいんです』
『お前の意思は尊重したいと思っている』
「……何よ……」
これまでの会話が思い起こされて、香月の膝から力が抜けていく。
ペタリとへたりこんで、廊下の冷たさが脚に伝ってきた。
「その願いは聞き入れられなくなったって、言ってたじゃない……」
この数十歩の距離は、俊熙の優しさだ。
平穏が、欲しかった。
けれど想像していた平穏に程遠い、胸のざわめきが香月の全身を占拠しはじめていた。
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