いくら臥薪嘗胆と言えどこれは無い
一睡もしないまま朝を迎えていたが、俊熙に眠気が襲ってくることは無かった。
まだ宮女たちが起き出して来る前、俊熙は早足で桔梗殿の水晶の元へと向かう。もちろん太耀の変装は解き、いつもの紺の文官服を着て、だ。
事前に殿の見取図と部屋割を把握していた俊熙は迷うことなく水晶の部屋へと向かう。道中門番以外には誰にも会うことなくたどり着くことが出来、ひとまずほっと息をつく。
なるべく周りに響かないよう小さく扉を叩くと、しばらくして戸越しに怪訝そうな声が返ってきた。
「…はい?」
「水晶殿、太子少傅の劉俊熙だ。火急の用だ、開けてくれ」
端的に名乗るとすぐに扉が開く。
夜着に羽織りだけの水晶は堅い表情で俊熙を迎え入れる。私室に入るのは非常識であるが、それを上回る程の非常事態なので許してもらう。水晶も理由は分からずとも察しているのか、扉が閉まるまで声も出さず迅速な動きであった。
「手短に言うが、呉香月が毒に侵された」
目を大きく見開いた水晶の顔色が、みるみるうちに悪くなっていく。
「どういうことです…?」
「呉香月には皇太子殿下の命で内々にある仕事を任せていたんだが…」
この件は皇太子と俊熙、そして信用出来る者四名のみにしか知らされていない。内容が内容だけに、漏れれば最後、皇太子の身に危険が及ぶからである。
「…我々の想定外の事が起きてしまった、申し訳ない」
持ち回りの仕事の調整もあるだろうし、何より目立ちたくないと頑なに言っていた香月の意志を尊重するならば、水晶の協力無しにはこの局面は乗り切れない。
詳しく話すことが出来ないもどかしさはあるが、香月の上司はこの水晶である以上、聞かれればある程度は答えるつもりで俊熙はやって来ていた。
「…それで、容態は」
「命に関わる程ではない、が…二刻経っても目は覚まさない」
「…見込みはどれくらいでしょう」
「太子侍医に拠れば本日中には目覚めるはずだ、と」
流石一つの殿を仕切る女官である、突然の事に顔を青くしながらも声ひとつ荒げず必要な情報を仕入れようとしている。こういう頭の切れる度胸のありそうな女は、敵に回すと大変厄介であることは重々承知している。
「快復までは必ず太子侍医が付く。それまでは東宮で預かる故、桔梗殿での取り計らいは水晶殿にお願いしたい」
「…承知しました、お任せ下さい」
しっかりとそう返す水晶に俊熙も安堵した。目的も果たされたので長居は無用である。
部屋を辞そうと扉に手をかけたところで、
「梦瑶さまには」
そう、水晶の声が追いかけた。
「…すまないが、水晶殿以外には他言無用でお願いしたい」
「…かしこまりました、」
含みはあったが、水晶は納得したようだった。気持ちは分からなくもないが、宮を揺るがすようなこの手の話は、なるべく後宮内に広めたくはない。
今度こそ俊熙は扉を開けると、人に見られないようするりとその部屋を抜け出し、再び東宮へと足を向けた。
水差しに入っていた毒は、恐らく蛙などの体表粘液から採取された類の物だろうと太子侍医は言う。植物毒と違い動物性の毒は即効性があるものが多いこと、発熱などの症状が見られないこと等からその結論に至ったらしい。
俊熙は未だ目覚めない香月を見下ろしながら熟考する。
香月をひっそりと護衛させていた影の者が言うには、あの水差しを持ち込んだのは東宮の宮女だったらしい。しかもあの時香月を案内していた宮女だ。
それを確認し、すぐにあの時の宮女を探させたが、それらしい宮女は該当しなかった。その上女官長が言うにはその時間に客人の案内を女官に任せた記録は無いという。
『手解き』に関して、俊熙自身が東宮内で指示したことと言えば、門番を御す衛尉に件の者を通すよう東宮の郎官(門番)へ通達することのみだ。女官側への指示は今回は一切していない。
作戦のこともあり『意図的に』何も指示しなかったのであるが、それが最悪の結果として現れてしまった。
これが当初の目論見通りの流れになっていれば、仕掛けてきた実行犯は『現行犯』として取り押さえることが出来るはずだった。俊熙は思惑が外れたことの無念さと善良な女官を巻き込んでしまったことへの罪悪感に臍を噛む。
もう少し室内の変化に留意していれば。
もっと早く水差しの違和感に気付き摂取を止められていれば。
もう少し慎重に東宮内官吏の立ち回りを考えていれば。
考えれば考えるほど、たらればが湧き出てくる。
「入るぞ」
俊熙が眉間の皺を指で摘んだ時、扉の向こうから声がした。こちらが返事をする前に既に扉は開かれ、大男が部屋へ押し入ってくる。
「磊飛(らいひ)」
磊飛と呼ばれた男は、腰に下げた大刀を鳴らしながら俊熙に近寄った。頭ひとつ分程俊熙よりも背丈は高く、明らかに武官であると分かる体格だ。頬にある古傷から、歴戦の香りが漂う。
「まだ起きねぇのか」
ぶっきらぼうな物言いに俊熙は少し苦笑した。
「みたいだな」
自嘲のようなそれに、磊飛はハンっと鼻を鳴らした。
「だから言ったんだよ、女官に頼る作戦なんかじゃなく、もうちょい端的にとっ捕まえる作戦を考えろって」
「いや、一応ここからそうなる予定だったんだがな」
「全く、こっちは捕物期待してたのに、飛び出して来たのはお前そっくりの殿下でよ、侍医呼んで来いって…俺ァ使いっ走りか?」
「恩に着るよ」
磊飛はつまらなそうにそう言うが、何だかんだ全幅の信頼を俊熙に置いてくれていることは分かっているので俊熙も軽く受け流す。
「…そいや雲嵐(うんらん)は何処だ?」
「ん、ああ、恐らくその辺に…」
「呼んだ〜?」
二人の会話に割り込むように、何処からとも無く呑気そうな声が響いた。かと思いきや、上からバサリと黒い影が降ってくる。
「ずっとここに居たけどどした?」
「いや別に呼んだつもりはねぇんだが」
少し茶色がかった髪を後ろでひとつに結んだ、十五歳くらいの小柄な少年がそこには居た。
「お前は毒持ってきた女官、見たんだろ?」
「いやそーなんだけどサ、正直何処にでもいるような女官過ぎて全ッ然印象に無いんだよね」
「それでも隠密か」
「だってしょーがないじゃん、聞いてた展開と違ったんだもん」
「…それに関しては私の想定が甘かった、すまない」
そう、元々の作戦では、あの部屋の側にひっそり控えていた磊飛と雲嵐が、『皇太子(に扮した俊熙)を手にかけようと侵入してきた輩を捕縛する』予定であったのである。
これまでの手口がそういった直接的なものばかりだったため、まさかこんな風に毒を盛られるとは想定していなかった。完全に俊熙の落ち度である。
「しかも証拠も有耶無耶になっている、完全にしてやられた」
俊熙は再び眉間の皺を指で摘んだ。
そんな俊熙を、珍しいものでも見るように雲嵐は面白そうに覗き込む。
「俊熙めっずらしーね、やられたーって顔してる」
独特の、両の口角をにんまり上げる笑い方で雲嵐は笑う。
「まぁ確かに、いつもは多少の損失くらい、屁でもねぇって顔してんのにな」
雲嵐の台詞を受けて、磊飛もカカカッと豪快に笑う。俊熙だけが心外だという表情である。
「私は普段そんな薄情か?」
「うん」
「ああ」
同時に肯定されて、俊熙は溜息をつく。
人一倍冷静であろうとしてはいるが、そんな風に見えていたとは。
「いつもきちんと反省はしている」
「まぁそれもわかってるよ、俺らはちゃんとな」
「そうそう!それにさっき太耀サマの様子も見てきたけど、俊熙と同じ表情してたよ」
雲嵐の移動手段のひとつに天井裏というものがあるので、東宮内の移動は自由自在なのが彼の強みである。
「やっちゃったー!って顔!ほんっと似た者同士だよね〜」
「ほぉ、あの御方のそういう表情も珍しいな」
「ねー!二人とも基本いつでも動じない顔してるからねぇ」
その話を受けて俊熙は閉口する。確かにこの作戦を練ったのは俊熙と皇太子の二人であるから、太耀も同じように責任を感じるのも致し方ないだろう。
しかし、今回の責は全て自分にある。
「雲嵐、すまないが殿下に、新たな策を練るまでお待ちいただくよう伝えてきてくれ」
「ほいほい、お易い御用」
雲嵐はすぐさま天井へ飛び移り、隙間からするりと天井裏へ姿を消した。
「……まーたお前は、一人で抱えるのかよ」
呆れたようにそう零す磊飛に、俊熙は何も答えない。
当たり前だ。いくら太耀の即位まで臥薪嘗胆とは言え、今回のこの結果は無い。普通に考えて最悪の結果だ。
下手すれば太耀も、香月と同じように毒に倒れていたかもしれないのである。
俊熙は香月が横たわる寝台に近づくと、彼女のその艶やかに流された髪をゆっくり撫でた。申し訳ない、という気持ちを込めて。
「次の策を練ってくる。磊飛、しばらくここの見張りを頼む」
「はいよー」
憂いを払うように踵を返すと、大股で歩き出す。
しかし俊熙には今回の件でひとつだけ、納得いっていないことがあった。
――何故、致死率の低い蛙毒だったのだろうか。
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