第90話 仲間の為のゴールスプリント

 遂に辿り着いた最後の山岳地帯。

 この山岳地帯は約14kmあるが、下り区間もあるから実質約7km上ればよい。

 そんなに厳しい上りではないが、疲れ切った今のコンディションでは先頭集団に残るのは難しいだろう。

 500m上った所で最初のアタックがかかる。

 私がいるのは先頭集団の最後尾だから先頭の状況は分からないが、最後の山岳地帯だから、ヒルクライムが得意な選手が優勝を狙って加速したのだろう。

 今回のレースの最後は5kmの平地区間。

 スプリントが得意な選手が勝ちやすいレースだから当然の展開といえる。

 実際にスプリントが得意で、最後まで残れば優勝の可能性がある私も遅れ始めている。

 最後まで先頭集団を追いかけるのは難しくても、諦めるには早い。

 この山岳地帯の途中までは食らいつくのだ!

 遅れた分を取り戻す為に、腰を上げてスプリントをしようとするが……

 パワーが出ない?! 何故だ?

 最後にスプリントをしたのは、先の平地区間の入口。

 高速巡行で回復が遅れていたが、それでも30分近く経っている。

 一番パワーを抑えたスプリント、ディバイディング・スプリント・トレイなら使えるハズなのに。

 練習でつかんだ感覚と合わない。

 何か大事な事を忘れているのか?

 答えが出ないまま、先頭集団が離れていく。

 今回の私のレースはここまでか……

 悔しいけど結構頑張れたよな。

 他に先頭集団から脱落した選手がいないから、一人で淡々と上り続ける。

 そして山頂付近に辿り着いた所で……


「やっと追いついたよ。巡行も上りも苦手だから、集団に残れないとキツイな」


 背後から東尾師匠に声をかけられた。

 あの状況から追いついて来たのか!

 凄いな師匠は!


「残念ながら、この上り区間の入口で力尽きてしまいましたよ。予想よりパワーが出なくなってしまって……」

「予想よりパワーが出ない? 補給はちゃんとしてるか?」


 補給?! 師匠の言葉で思い出した。

 今回のレースの全長は約140kmで、長い距離を走るから補給食を準備していたのだった。

 レース終盤なのに、私の背中のポケットに補給食が大量に詰まっている。

 結局、一つも食べていなかった。

 苦手な上り区間では補給食を食べる余裕はなかった。

 得意な平地区間も遅れを挽回する為に必死だった。

 下り区間では補給食を食べる為に片手を放すのは危険だから無理だ。

 実力不足なのに先頭集団に残ろうとしたから、結果的に補給を怠ってしまった。

 一応、ボトルで水分補給をしているから、全く補給をしていない訳ではない。

 それでも140kmを走り切るには、補給が不十分なのは明らかだ。

 これではパワーが出なくて当然だな。


「その様子だと補給を忘れていたのかな? この後の下りでは危険だから、最後の平地区間で一応補給しておきますか?」

「そうですね。先頭集団に追いつく事は無いけど、出来るだけ追いかける予定ですから」

「そうすると、また俺遅れるのか。猛士さんの新車の空力性能は化け物だよな。下りで自信を無くすくらいに差を付けられるから」

「師匠も乗り換えますか? 私のはシゲさんのスペシャルカラーだけど、メーカー標準のカラーなら在庫ありましたよ」

「買えるお金がないよ。仕事じゃ敵わないな」

「一応部長なので!」

「一応で部長になれるかー!」


 師匠と話しているうちに、山頂を越えて下り区間に突入した。

 ここから先は話す余裕はない。

 オーバースピードにならない様に、ブレーキで速度を調整しながら一気に下る。

 そして、何事もなく最後の平地区間に辿り着いた。

 周りに他の選手はいない。

 今なら安全に補給食を食べられるだろう。

 背中のポケットから補給用のジェルを取り出し、開封して一気に吸い込む。

 独特な甘い味が口の中に広がる。

 北見さんの話では、昔はもっと不味かったというけど……


「補給は済んだかな?」


 下りで差がついたはずの師匠が追いついてきた。

 機材性能の差をものともしないのは流石だな。


「今更だとは思うけど、念のために済ませておきました」

「その方がいいよ。ゴール前で力尽きる可能性もあるからね」

「残り5kmでリタイアはキツイですね。後少し頑張りますよ」

「その意気だ! 時速40kmくらいで先頭を引くけど大丈夫か?」

「問題ないですよ。力尽きているとはいえ、その程度はこなせますよ」

「さて、最後まで頑張ろう」


 師匠の後ろについて最後の平地区間を走る。

 既に勝負は終わっているから何事も起きないまま、ゴール前の直線区間に辿り着いた。

 先頭集団に残った選手は既にゴールしているようだ。


「最後にスプリント出来ますか?」


 ずっとアシストしてくれていた師匠にスプリント出来るか問われる。

 本来なら、平地区間で前を引いてくれた師匠に譲るべきだ。

 だが、あえてスプリント出来るか聞いて来たという事は、ゴール地点で私のスプリントを期待している勇也くんの為だろう。

 それなら期待に応える必要がある。

 補給を取ったし、師匠のアシストのお陰で多少は回復している。


「出来ますよ。最大出力は出せそうもないですけど」

「それで充分じゃないかな。さぁ、どうぞ!」


 師匠に促されてスプリントを開始する。

 下ハンドルを握り、腰を上がて必死にバイクを振る。

 予想通りパワーは出ないな。

 それでも時速50kmは何とか超えられた。

 普段の私にとっては大した事はない速度だが、一応ゴールスプリントに見えるだろう。

 そして最後までペダルを踏み抜き、ゴールラインを通過した。

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