5章 2年目の終わり。それは夢の終わり。

第56話 風に乗る

 レースの翌週、久しぶりに走りに行こうと東尾師匠に誘われた。本当に久しぶりだな。

 師匠はホビーレースで上位クラスの仲間入りして、実業団レースに参加している実業団登録チームに所属したのだ。だから、普段は私達より遥かに実力が高い今の所属チームメイトと練習している。最初に出会った時から大分遠い存在になったけど、未だにビギナークラスから抜け出せない私を弟子扱いしてくれる。

 今日はどの様なレースのコツやトレーニング方法を教えてくれるのだろうと期待してしまう。いつも以上に期待してしているのは、集合場所がいつものヤビツ峠ではなく、前回のロードレースのコースだからだ。レースで走ったコースでのトレーニングは初めてだからな。

 私は集合場所に指定されたゴール前の平坦部で師匠を待った。約束の時間から5分遅れで師匠が到着した。


「すまない猛士さん。途中でパンクしちゃって。少し待たせたかな?」


 サラッと謝る師匠。

 師匠は簡単に言っているが、私にとっては衝撃発言だ。師匠の家から此処まで150kmあるのだ。途中でパンクしているのに、5分遅れ程度で到着するなど考えられない。そもそも150kmも走ったら疲れ切って練習どころではない。

 私はミニバンにロードバイクを乗せて来たから余裕があるけど……


「早速だけど、この前のレースで俺が巻き起こす風に合わせろって言った意味分かりますか?」

「正直全く分からなかった。もしかして、今日はその件について教えてくれるのですか?」

「そうですよ。でも、意味が分からないのに、良く合わせて走れましたよね。凄いですよ。あの時はレース中だったから詳しく伝えられなかったけど、アタックやスプリントの時に風を感じるのが大事って事を伝えたかったんだ」


 確かにあの一言では意味が分からないよな。風で分かるのは風向きくらいだけど合っているのか? でも、間違っているような気もする。よし、疑問に思った事は恥ずかしがらず聞いてみよう。


「風を感じるというのは、風向きを知るって事で合ってますか?」

「大体あってますよ。理由を説明します。スプリントを持続出来る長さは人によって違うけど大体20~30秒くらいです。その中で最大出力を発揮出来るのは最初の一瞬だけ。残りの時間は高出力ではあるけど、徐々に力を失っていく状態なんです。だからこそ、最初の一瞬の力を発揮した瞬間に大きな空気抵抗を受けるのは大きな損失になる。アタックの時も同じです」

「そうなのか。そんなに頻繁に風向きは変わらないと思うけど。向かい風の時はずっと向かい風だと感じている」

「そうですね。でも向かい風でも強弱があるのですよ。風圧が緩んだ瞬間に踏み込むとスカッと前に進むんですよ」

「話だけなら良く理解出来るけどな。実際に出来るのか?」

「やってみましょうよ。その為に再びこのコースに来たのだから」

「そうだな。任せたよ師匠」

「それでは行きますよ」


 師匠の後ろについて走り始める。


「最初は坂の影響を受けない平坦区間での練習です。純粋に空気抵抗の変化を感じる為です。一定の速度で走るので風を感じて下さい」


 師匠の後を一定の速度で走る。うーん、分からないな。私の感覚が鈍いのか?


「師匠、全く分からないです」

「それならパワーデータを見て下さい」


 パワーデータ? サイコンに表示されるパワーデータを確認する。

 何故だ?!

 速度が一定なのにパワーデータが頻繁に変動している。しばらく見ているとパワーが180W~220Wまで変動しているのが分かった。自分の感覚では一定のパワーで走っていると思っていたのに……

 試しに一番パワーを使っていない180Wで走れている時に、意図的に220Wまでパワーを上げてみる。パワーをかけた瞬間、グイっと上がる速度。

 これが、師匠が感じている風の世界か。

 切っ掛けがあれば変わる。私の感覚が師匠が語る風の違いを理解し始めた。無風だと感じていたが、徐々に風圧に違いがある事を感じられる様になってきた。


「ここからアップダウンの区間に入りますよ。斜度の影響が出るので少し難しいですが、風が弱まった瞬間にアタックしましょう。最初は軽く500W前後でいくので、合わせて下さい」

「分かりました」


 レースの時と同じ500Wでアタックか。

 前回は利男のポニーテールのリズムに合わせるその場しのぎで乗り切ったが、今回は正攻法で師匠と同じ風に乗る。最初は師匠の後に続いて所々でアタックをかけたが、徐々に師匠の動きより先に体が動いていく。

 私も風を感じる……いや、風ではない。風と呼ぶには空気抵抗の壁が重く感じる……まるで水圧の様だ。同じ流体だから感覚として間違ってはいないか?

 そう思った途端に何かに目覚めた様に風の流れが分かる様になった。

 そうだ……私の走りは風を掻き分けて走る師匠とは違うのだ。

 空気抵抗の大海原を掻き分けて突き進むのが私の走りだ!

 師匠の様に直接風として感じるのではない、空気抵抗を水圧として感じて乗りこなす。

 いくぞ、私の『深海の潜水者ディープシー・ダイバー

 赤き疾風と青の深海の共演だ!

 ありがとう師匠……少しだけだけど成長する事が出来たよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る