第29話「夕立ち」
空が大泣きしているような大雨を降らせている中、傘も差さずに走る男がいた。友だちの春斗が入院して中々会えなくなって退院した後の8月。秋男は染められた明るい茶髪を濡らし、叫びながら濡れている歩道を走り続ける。
「油断した! 傘置いて来ちまった!」
朝は晴れていた。それだけの理由で傘を置いて来ていた秋男。空は気まぐれで人の事情など考えない自由人のような存在で、秋男の油断はまさにその気まぐれに困らされていたのであった。
秋男は走り続けて後ろへと過ぎ去って行く景色の中に屋根のついた木のベンチを見つけてそこへと避難する。バイトをしている時は水は恵み、海に行った時は水着の女性が映える最高の場所、そう言っていたものの今回ばかりは心の底から困っていた。ようやく雨に濡れずに済む場所を得られた秋男は木のベンチに座る。
ふと隣りを見るとそこにはセーラー服を着た少女が座っていた。短い髪と大きな瞳、右目の下の泣きぼくろ。秋男は心の底から驚き、思わず大きな声で叫ぶ。
「立夏、どうしたんだこんなとこで」
立夏と呼ばれた少女は明るい笑顔を咲かせて答えた。
「そうですよ、アキくん」
大人しそうな声でそう答えた立夏は秋男に訊ねた。
「アキくんは元気にしてますか? もしかして私の事お嫁さんにお迎えに来ていただけたり?」
「こんなずぶ濡れな姿で? 水も滴るいい男、なんつって」
冗談を交わし合えるような仲、秋男が中学3年生の時のバスケ部の後輩の立夏。秋男が2回生の今、立夏は受験生である。
「にしても3年ぶりだな」
「いえいえ私にとっては7年ぶりの気分です、アキくん」
あの頃と変わらない明るさとそれに似合わぬ大人しそうな声。秋男は久々に後輩の女子と話す事が出来て嬉しい事この上なかった。
秋男は立夏の鞄に付けられた緑色のストラップに目を向ける。
「相変わらずカエル好きだなお前」
「大好きですよ。可愛いし癒されるし唐揚げにしたら美味しいし」
「食うのかよ」
立夏は笑っていた。笑顔が似合う可愛らしい顔に秋男は癒されていた。そしてそんな少女の制服姿を拝み、校章を見て更に驚くのであった。
「頭良いんだな、意外」
「こう見えても私、天才ですからっ」
「天災の間違いだろ。マジでバカにしか見えねえのに凄いよな、お前は」
その言葉を耳にして立夏は俯き呟く。
「別に頭良くなくてもよかったのになぁ……アキくんが傍にいてくれれば。守って欲しかった」
「守って欲しかったって、イジメにでも遭ったのか」
「それとは別ですよ、アキくん」
先程の暗い表情はどこへ消えた事やら立夏は微笑んでいた。
立夏の表情の変わり方に秋男は気まぐれな空と同じものを感じた。そして空を見上げて立夏の方を向いて言う。
「雨止んだな」
しかし、そこには誰もいなかった。
☆
そんな不思議な後輩と可笑しな会話をした懐かしい日を思い返す。あの時から1年が経ち、秋男には小春という彼女がいた。小春の家に泊まって次の昼、秋男は小春に「じゃあ、またな」と言って家を出ようとしたところ、小春に折りたたみ傘を持たされたのであった。いらない、そう言ったにも関わらず「アキが風邪引いたらイヤだから」と言われて渡されたのであった。
秋男は照れながら歩いていた。雨を弾いて美しく濡れる傘は白い身体に赤い花を描いた模様で明らかに女物。
ーめちゃくちゃ恥ずかしいんだけどー
華やかな傘はあまりにも目立ち過ぎる。傘を差して歩いていると去年も通ったあの歩道、あの屋根のあるベンチ、そしてそこから手を振るセーラー服を着た少女。
秋男は立夏の存在に気が付いてベンチへと駆け寄った。そこにはあの笑顔が待っていた。秋男は笑顔を浮かべながら挨拶をする。
「一年振りだな、立夏」
立夏はあごに手を当てて2秒の空白の後、ようやく答えるのであった。
「お久しぶりですアキくん」
何故だかセーラー服を着ていた立夏。留年でもしたのだろうか、やはり天災じゃないか、何だかんだ言ってレベルの高い学校は大変だな。言いたい事は大量にあり、様々な色のものがあれども秋男が放つ言葉はそれらのどれでもなかった。
「元気してたか」
元気、そんなはずはない。去年一瞬だけ見せた陰、そして今年卒業しているはずなのにセーラー服を着ているその姿。分かり切っている事だったがそれでも本音を隠す為に言える事はそれしか思い浮かばないでいた。立夏はいつもの明るい笑顔を浮かべる。
「元気ですよ、アキくん。それより傘、女物なんですね」
それを指摘された秋男は目の端にその傘を映しながら答えた。
「ああ、小春……彼女に持たされたんだよ。これしかなかったみたいだからいらないって言ったんだけどな」
立夏はわざとらしい程に明るい笑顔を浮かべて少しの震えを持った大人しそうな声で言う。
「女の子ってさ、そんなものですよ。それより彼女出来たんですね、おめでとう、アキくん」
そして立夏は続けて言った。
「また傘忘れたから、一緒に帰ろう」
そうして始まった彼女以外の女との相合傘。やはり立夏は俯き気味。その頬を濡らす水は雨がかかったからであろうか。
「これがアキくんの彼女の匂い、ですね……私、アキくんと離れたくないなぁ」
秋男は立夏を見つめて言った。
「別に離れるわけじゃないだろ、また会えば良いだけだしな」
「……そうだね、ありがと」
秋男は携帯電話を取り出そうとするも、ポケットに入っていない事に気が付いた。
「あれ、ケータイねえし」
「いいんですよ、そんなの家にハガキ出せばいつでも交換できるじゃないですか」
そんな会話の直後、秋男の手が力強く握り締められて後ろへと引っ張られた。
秋男は頭の中が真っ白になり何も考えられず、しかし目の前の光景だけはしっかりと捉えていた。
目と鼻の先、そこを走る車は秋男の服を思い切り濡らしていた。
秋男の手を思い切り掴んでいたそこから激しい叫びが聞こえて来た。
「アキ! 死ぬとこだったでしょ、バカ!」
秋男が振り返るとそこにいたのは最愛の彼女、小春であった。小春はその手に秋男の携帯電話を持っていた。
秋男は怒鳴られる事でようやく我に返り、辺りを見回して訊ねた。
「あれ? 立夏はどこだ?」
その姿はどこにも見当たらず、代わりに地面、車が通った後の雨に濡れ続けている道路にきつねともたぬきとも人ともつかぬぐちゃぐちゃの死体が転がっていた。
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