三十日目

 結局、言うべきことを先延ばしにしてしまった。僕はなんて意気地なしなのだろう。

 空が白みかけていた。帰ってきた後、僕はほとんど眠れなかった。床のなかで延々と、彼女にどう打ち明けようか頭の中をぐるぐるして。

 昨日、僕は「話がある。朝、待ち合わせをしよう」と彼女に切り出した。彼女は首を縦に振った。待ち合わせ場所と時間は、午前六時にいつもの駐輪場。

 そして今は、午前五時四十五分。僕の不安をあざ笑うかのように、刻々と時間は迫っていた。


(そろそろ出なくちゃダメだな……)


 僕はいつものように自室を出て、団地の自転車置き場へ向かう。もう朝はアブラゼミの声はあまり聞こえず、ヒグラシの声が目立っている。

 その時、背後の階段から足音が聞こえた。僕は緊張しながら後ろを振り向く。

 ――彼女だった。

 いつものジャージにTシャツ、クロックスという典型的なマイルドヤンキーファッションで、バチバチのピアスと脱色した髪が近寄り難さを醸し出していた。


「お」

「あ」


 そんな言葉になってない、挨拶ともつかぬ反応を互いにした。

 僕は自転車の鍵を開けようとしたが、彼女に止められた。


「今日は、歩いて行こうぜ」

「……うん」




 僕と彼女はぽつりぽつりと思い出すようにつぶやきながら、国道沿いを下っていった。


「……母なんだけど、今は大人しくしてくれて助かっている」

「そう。このまま良くなるといいね」

「良くなったり悪くなったりを繰り返してるから、あんま期待できないけどな。……この分だと障害年金もまだ切られないから、当面の暮らしは大丈夫だと思う」


 何故そんなことを言いだすのだろう。

 僕はなかなか話を切り出せず、とうとう海岸に到着してしまった。

 太陽は完全に登り切っていた。朝陽がまぶしく、寝不足の僕の目をくらませた。

 さっきまで僕に話題を提供していた彼女が、急に黙りだした。

 ――彼女も、僕が話を切り出すのを恐れているようだった。

 僕は、固い唾を呑み込む。ぐっと拳を握りしめた。


(言うんだ。散々引き伸ばしてきたんだ。もう後戻りはできないぞ)


 僕は、決意した。

 彼女からどんな反応が返ってこようと、僕は受け入れる。それだけ残酷な嘘を、僕はついてしまったんだ。


「……それで、聞いて欲しい話なんだけど」


 僕が震え声で彼女に言う。すると、それまでどこか遠くを見ているような彼女の表情が、至極緊迫したものになる。

 胸が早鐘を打つ。口の中が渇き切って、舌が上手く回らない。

 深呼吸を一つ。そして――


「……市役所の職員の試験を受けるって話、嘘なんだ」


 口から零れ落ちるように、するりと言ってしまった。

 彼女は無言のままだ。眉一つ動かさない。

 その圧には負けない。負けてはいけない。本当のことを話さなくてはならない。


「君を悲しませたくないと思ったんだ。でも、そうじゃない。この関係が終わって、自分が傷つくのが怖かっただけだ。僕は自分のために、君を深く傷つける嘘をついてしまった。――ごめん。本当に、ごめん」


 僕は、ほとんど九十度の角度で頭を下げた。砂の上に、いくつものシミができた。頬を伝っていた涙が、振り落とされたのだ。

 それからどれだけ、頭を下げていただろうか。体感的には、数時間は経過したように感ぜられた。


「頭を上げな」


 彼女が、淡々とした声でそう言った。僕は言われたまま、ゆっくりと頭をあげる。そこには、目が据わって無表情の彼女がいた。

 だが次の瞬間。彼女は、氷が溶けるようにフッと表情を和らげた。


「……わかってたよ、全部」



 ――聞けば、彼女は最初の時点で既に怪しんでいたという。


「公務員っていうとおカタく聞こえるが、こんな地方の市の職員なんて大体、体育会系やウェイのノリだからな。吉川とツルんでた太田とか駒野とかが今、市役所に務めているってお前も知ってるだろ? だから、ヘンだなとは思ってたんだ」


 僕は首を縦に振った。


「あんな連中とお前が一緒にやっていける姿とか、想像できねーし」

「最初からわかってたんだ……」

「確信に変わったのは、この間お前ン家行ったときだ。おばさんが『いつまでもフラフラして』ってぼやいたんだよ。おかしいだろ? 一人息子が公務員になるって頑張っているのに」


 全てお見通しだった。彼女の方が一枚上手だったということだ。


「……ごめん」

「もう謝るなって。……アタシもわかっていて、何度かプレッシャーかけるようなこと言ったから。それより、これからお前どうするんだよ」

「……東京に戻って、大学院に入るつもりだよ。試験は十月」


 すると彼女は「そうか、お前らしいな」とだけ言った。


「それで……。もし大学院に落ちちゃったり、研究にドン詰まって続けることができなくなったら、こっちに戻るよ。そしたらまた――」


 そこまで言いかけたとき、彼女が突然表情を険しくして、「馬鹿野郎!」と僕の胸ぐらをつかんで一喝した。


「そういう中途半端なのが一番よくねえんだよ! てめえは覚悟が決まらねえし、他人も傷つけるんだッ! 男が一度決めたことは、最後までやり通せ!」


 彼女は、僕のポロシャツの襟首を放す。すると、今度は打って変わって今にも泣きだしそうに、目を潤ませた。そして――


「……」


僕の唇に、やわらかな感触がした。

 彼女が口づけをしたのだ。

 一瞬にも、永遠のようにも思えた。桃のような、杏子のようないい匂いに、いつまでも包まれていたいと思った。

 彼女は、スッと身体を離す。そして、


「……じゃあな。楽しかったよ」


と言って、僕にくるりと背中を向けた。


 僕は思わず、「待って!」と叫んだ。


「ごめん。今のは失言だった。だから――」


 彼女はこっちを振り向かない。しかし僕は、言葉をかけ続ける。


「僕は、研究も、君も……どっちも、諦めない」


 そうだ。ここで彼女を離したくない。だから――


「研究者として足を固めたら、必ず君を迎えに行く! それまで待ってて!」


 言った。言い切れた。だが、その途端に僕は顔から火が出そうになった。僕は口をパクパクと震わせながら、取り繕うように言い訳をする


「あ、あ……もちろん、君の都合もあるし、待っていて、とは言えない。だから、できれば――」


 ふわっ。心地よい体温と、いい匂いが僕を包み込んだ。

 彼女が振り返り、僕に抱き着いたのだ。


「そこまで言ったんなら煮え切れよ。バカ」


 彼女が、湿っぽい声で言った。僕は、強く彼女を抱き返した。

 夏の終わりを告げる、強い潮風が僕らを嬲る。けれども、どれだけ強い風に吹かれようと、僕らは引き離されることなく抱き合っていた。……




   ★


 それから僕は、彼女と一度と会うこともなく東京へ戻った。


 僕はいま、試験を目前にして総復習をやっている。少し前まで、やりたいことがまだ漫然としていたから、勉強も張り合いがなかったけれど、今は違う。


 僕は、自分の「言葉」を大事にしたい。


 彼女が僕の「言葉」を「言葉」で守ってくれたように、「言葉」の持つ力を僕は研究したい。「言葉」の背景にある「生」の哲学を、僕は研究したいんだ。

 研究を通じ、成熟した僕は、彼女にもう一度、いや、何度だって伝えたい。僕の生きた証を込めた言葉、僕と彼女の「生」を讃える、美しい言葉を。……








 「本音」を伝えて、彼女と二度と離れなくなるまで、あと――

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