第32話 本城咲希の贖罪⑧

 

 ——Re:Re:八月三日。午後五時四十二分。

 凪波大学 第二学生寮。


 昼間に感じた暑さの余韻が、長い尾を引く夕暮れ時。

 夕暮れとはいっても、空にはまだ青さが残っていて、日が暮れるにはまだしばらくかかりそうだった。

 そんな昼とも夜とも呼べない曖昧な時間。

 凪波大学本キャンパスから程なくのところに見える学生寮に、大きな買い物袋を手に下げた二人の少女が入っていくのが見えた。



「ただいまー」


「ただいまっス」



 二人の少女——由衣と茜音は帰宅早々、そう言って口からはみ出るほどに詰め込まれた買い物袋を足元に置くと、暑さと疲労から来る溜め息を一つ吐き、伸びをするように腰に手を当てる。



「二人ともおかえりなさい」


「あ、深月ちゃん」


「ただいま帰りましたっス」


 そんな二人の帰宅に気が付いた深月は、肌を大きく露出した薄着のままエントランスへ赴くと、床に置かれた買い物袋をみて驚いたように声を発した。



「随分とたくさん買ってきてくれたみたいね」


「この炎天下で頻繁に買い出しに出掛けるくらいならと思って、思い切っていろいろ買って来たんスよ。食料とか医薬品とか……あと、エナドリも」


「そうだったのね……。緒方さんも穂積さんもわざわざありがとう」



 二人にだけ面倒な雑用を任せてしまったことに少しばかりの罪悪感を抱きながら、鍛えられた両腕で歪に膨らんだ買い物袋を軽々と持ち上げる深月。



「これは私が運んでおくから、二人はシャワーでも浴びてきて」


「え、いいんスか?」


「ええ。私もさっきランニングから帰ってきて、シャワー浴びたばかりだったから」


「そうだったんだ。……じゃあ、お言葉に甘えて。行こう、茜音ちゃん」


「はいっス」



 由衣と茜音は深月の言葉を受け、ずっと気にしないようにしていた肌に張り付く衣服の不快感に顔をしかめると、着替えも持たず、すぐさま浴室へと足を向けた。

 深月は、そんな二人の後姿を見てふと思い出したように口を開くと、「そういえば」と静かに二人を呼び止めた。

 由衣と茜音は一度浴室へ向かう足を止め、そっと振り返る。



「どうしたの? 深月ちゃん」


「……帰ってくる途中、本城さん、見かけたりしなかった?」


「あれ? まだ帰ってないんスか?」



 疑問に疑問で返した茜音に、深月は小さく頷きを返す。

 それから、今朝の彼女の様子を思い返し、不安げな表情を浮かばせたまま深月は続けた。



「彼女、今朝から少し様子がおかしくて……。何事もなければいいんだけど……」


「心配しすぎっスよ~! 咲希さんなんて、大抵いつも不機嫌じゃないっスか」 


「……確かに、それはそうなんだけど」


「きっと、どこかで昼寝でもしてるんスよ。ね、由衣さん」


「……うーん。そうかも……って、あっ」



 突然茜音に同意を求められた由衣は、一瞬動揺を露わにする。それから、当たり障りのない曖昧な態度を示すと、何かに気づいたように視線を深月のさらに奥——エントランスゲートの方へと向けた。



「どうしたんスか?」


「……えっと、ほら——」



 そう言って由衣が指を向けるのと時を同じくして、純白のワンピースを纏った一人の少女が、俯きながらゲートを通ってエントランスへとやってきた。



「おかえりなさい。随分と遅かったわね」



 深月は身体の軸を一切ぶらすことなく振り返り、いつになく表情を曇らせて立つ話題の中心人物……もとい、今しがた帰宅したばかりの咲希に声をかけた。



「お、おかえりなさいっス、咲希さん……」


「おかえり、咲希ちゃん」



 続くようにして、口を開く由衣と茜音。

 しかし、そんな三人の声はおろか、姿さえも認識していないように無言を貫く咲希は、ブラウンのローヒールパンプスを乱雑に脱ぎ捨てると、元からそうプログラミングされていたかのように自室へ続く階段に足をかけた。

 まるで、目的を忘れた屍のように歩みを進める咲希。

 そんな彼女の異様な後ろ姿を見て、深月は再び声を投げかける。



「あなた、今朝から何か変よ? やっぱりどこか悪いんじゃ……」


「——何でもないって、言ったでしょ」



 圧はなかった。

 ただ、夏の暑さを置き去りにするほど恐ろしく冷え切った、静かで鋭い一言。

 それを傍で聞いていた由衣と茜音は、全身を覆っていた汗による不快感が、全く別の何かによって上書きされる感覚に陥っていた。

 彼女たちが立っている場所は、咲希がやって来る前とはもはや別物。異なる空間。

 咲希が、外から別の世界を運んでやってきたといってもいいほど、暗く、張り詰めた空気がそこには漂っていた。


 そうして、深月、由衣、茜音が声を発さなくなったのを確認すると、咲希はほんの少しだけ顔を振り向かせ、苦痛の入り混じったようなか細い声でそっと呟いた。



「……放っておいて」



 咲希は再び足を動かし、それ以上何も言うことはなく静かに自室へと去っていく。



「……咲希さん、ホントに大丈夫なんスかね」


「外で、何かあったのかな……」



 咲希が去ったエントランス付近では、緊張から解放された由衣と茜音が顔を見合わせるように彼女の様子について語り合っていた。


 あまりの暑さにやられてしまったのではないか。

 終わりの見えないこの生活に、心が参ってしまったのではないか。


 そんな二人の会話を耳に入れつつも、深月はただ一人、彼女の態度とは別のことを気にかけていた。深月は整った切れ長の瞳をさらにすっと細め、訝しむように咲希の自室の扉を見つめる。



 ……さっき、一瞬だけ見えた彼女の横顔。あれは、苛立ちから来る表情ではない。


 あれはそう……〝怯え〟だ。根源的な恐怖から来る表情だ。


 だけど、なぜ彼女がそんなにも怯えているのか、私には分からない。

 それはきっと、穂積さんにも緒方さんにも夢野さんにも。

 その怯えの理由を知っているのは、彼女本人だけだろう。


 ……そして、その解決法を知っているのも——。


 深月は、そこで一度思考を切り替えるように短く息を吐き出すと、あれこれ考察を続ける二人に身体を向け直す。



「さ、二人も早くシャワー浴びてきてちょうだい。その間、私と夢野さんで夕食の支度でもしておくから」


「……そーっスね。行きましょ、由衣さん」


「うん。じゃあ深月ちゃん、夕食の準備お願いね」


「ええ」



 深月はそのまま浴室へ向かう二人の背中を見送ると、袋いっぱいに詰め込まれた荷物を手にキッチンへと向かう。

 それから、リビングのソファーに寝転がりながらテレビゲームに勤しむましろに声を掛けると、買い物袋から大きなキャベツを一玉手に取り、「さて」と小さく気合を入れて夕食の準備へと取り掛かったのだった。

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