10 記憶は洞の中に
柔和な火の音に隠れるように子どもたちの小さい寝息。大きなレジャーシートの上で横並びになっている五人と少し距離を置いて優白に埋もれている笑流。
どうやら心の壁はまだ残るものの、進展はあったらしい。イシアにいる間に横並びに混ざって眠る笑流が見れたらと思うのだけれど……それは高望みというものかしら。
「このくらいの子どもに弱いことは自覚してるわ」
焚き火を光源にして真っ黒な羽毛を毛繕いするカラスに語りかければ、子どもたちを起こさないように小さな鳴き声で返事をする。
同意をしてくれてありがとう。そう言って指の腹で後頭部を撫れば、彼はもう一度鳴く。
「手紙を二箇所に届けてほしいの。頼んでいい?」
今しがた書き終えた手紙が二通。アルミ製の筒に入れて左右の脚に付ける。
彼は筒が取り付けられたことを確認してから右翼を挙げて敬礼のポーズをとる。しかもウインク付き。カラスの姿で器用なことをされてしまえば笑いを堪えきれなくなるのも仕方がない。
肩を震わせて笑いを噛み殺していると、今度は両翼を腰にあてるようなポーズをして胸を張る。
「そこまで体を張って笑いを取らなくて大丈夫よ。なんだかんだで、そんなに悲観的にはなっていないもの」
私がもたれている木の上で羽角を上げて周囲を見渡しているミミズクに目を向ける。
カラスが膝に乗り、ミミズクに見守られる。まるで鳥使いになった気分だと笑うと二羽は大きく鳴く。
子どもたちが起きてしまうからと慌てて注意をすれば、二羽もしまったと鳴き声を潜めて身を縮める。幸い、ひと仕事を終えて疲れた子どもたちが起きる気配はない。優白にはしっかり睨まれた。
「心配しないで。あの国に私を裁ける人はいない。私に命令できる人もいない。貴方たちのことは私が守るから」
もう一度、カラスの後頭部を撫でてから、手紙をお願いねと頼めば、彼は大きく頷いて膝の上から飛び立つ。
カラスの後を追うようにミミズクも飛んで行ったので、昼行性のカラスが夜の森を飛んで他の鳥や獣に襲われるということはないだろう。
「元気に飛び立ちましたね」
「おかげさまで、楽しくやっているみたい」
「それは何よりです」
「で、どこに手紙を出したんだ?」
「泣き虫姫と破天荒聖女に」
さて、そろそろ私も明日に備えて眠ろうかな。そう思って目を瞑ろうとすれば、ほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐる。顔を上げれば、マグカップを片手にしたイオンと小皿を両手に持ったツナグの二人が揃っていた。
これはまた面倒臭いなあ、と。隠しもせず溜め息を吐くが、ツナグは人懐っこい笑みを浮かべて左隣に腰を下ろす。すかさず、イオンが右隣を確保する。サンドイッチ状態となった私はそれはもう嫌そうな顔をしていたのだろう。二人はご機嫌をとるようにホットミルクを注いだマグカップと小分けされたチョコレートを載せた小皿を差し出してきた。
両方とも私用なのね。つまり逃げ場はないのね。
「近は?」
「近姫なら、野宿なんてやってられるかとベッドの中だ」
「拗ねてるね」
「そりゃ拗ねるだろ。ああ見えて近は萩野に対して過保護なんだからさ」
「どう見ても過保護よね」
それは今日の夕食で起きたこと。
イシアの情報も集まってきた。仕込みとも言えない小さな仕込みも終えた。そろそろ明日、ハープ家に足を運ぼう。屋敷に入るのはクラム・ハープと私の二人だけ。皆は外で待機していてね。
そう説明したとき、近は怒った。自分もついていくの一点張り。納得させるためとはいえ、私も結構厳しいことを言ってしまった。
「部外者は立ち入り禁止とはまた突き放すことを言ったな」
「あれくらい言わないとついてきたでしょう」
「でも、部外者はない」
「……私も厳しい言い方したとは反省しているけれど、あそこまで傷ついた顔するとは思わないじゃない」
「いや、するだろ」
「よりにもよって萩野に言われてしまえばね」
左右から非難するような視線が突き刺さる。居心地の悪さを誤魔化すようにマグカップに口をつける。
口当たりがなめらかなホットミルクで、これはイオンではなく近が作ったのだろう。怒っていてもこれなのだから優しいよね。そう笑ってやろうと思ったのに、口腔内に広がる花の香りと蕩けるように甘い蜜の味に驚いて、笑い声ではなく悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと、これ」
「立派な角をした雄の花羊を捕らえたじゃないですか。ふふっ。狼煙で呼び出されるとは思っていませんでした」
「ツナグの転移魔法を思い出して、もしかしたら空路とか細かに設定したら遅れるかなあって試したけれど上手くいかなくて。でも、一目で場所が分かる素晴らしい方法でしょう」
「お肉の方は魔法で冷凍保存してありますよ」
「本当に魔法って便利ね。……じゃなくって!」
「雄がいるなら近くに雌もいるだろうと思い、帰りがけに散策してみたんですよ。快くお乳を分けてもらえました」
声を弾ませて説明をするツナグは落ち着きがない。正確にははしゃいでいるように見える。なので、マグカップをイオンに預けてツナグの頭に手を置く。棒読みですごいすごいと褒めてみれば、それが求めていたものだったらしい。ツナグは花を咲かすように笑みを浮かべる。そしてもっと褒めろと主張するように手の平に頭を押し付けてくる。
右隣でイオンがちょっろと鼻で笑う。ツナグの耳に届いていないのか、それとも気にしていないのか。お構い無しに甘えてくる。最終的にこの男、勝手に私の膝を枕にし始めた。
「萩野は嘘が上手ですね」
「嘘なんて吐いてないよ」
「最初からイシアを助けるつもりだったでしょう」
「イシアがどうなろうと私には関係ないし興味もない。本当にそう思っているよ」
「萩野は自分のために動くことの方が少ないですよ。それこそ食べ物関連でなければ」
「人を食いしん坊みたいに言わないで」
星海を飲み込むような黒髪が膝の上に散らばる。月の光を浴びて煌めく毛先を指に絡めて遊び始めれば、そうじゃないと不満気な表情を浮かべて手首を掴まれる。そのまま手の平に後頭部を押し付けられるので、どうやら今晩のツナグは面倒臭い甘えん坊らしい。
恨みがましくイオンを睨めば顔ごと逸らされる。手助けをしてくれる様子はなく、私はこのままツナグを寝かしつけないとひとくちチョコレートを食べることも、花羊のミルクを飲むこともできないらしい。
「ツナグ」
「はい」
「イシアに寄りたかったのは自分のため? それとも私のため?」
「さて、なんのことやら」
「ツナグもイシアに寄りたかったからトレーラーに魔法をかけたのでしょう。イシアは例の感染症に襲われて以降、衰退の一途を辿る典型的な国だもんね」
「…………」
ツナグの肩が小さく揺れる。けれど、質問に回答はない。否、言葉による回答を得られないだけで、態度で答えている。
膝を曲げて背を丸め、黙秘の姿勢をとったツナグをこれ以上虐めるのも気が引けるので話題を変える。
全く。飄々として何を考えているのか分からないと思いきや、突然笑流よりも甘えん坊な幼児になるのだから厄介な男ね。
「行きたいところがあるならちゃんと口でいいなよ。毎度トレーラーを直すイオンが可哀想」
「えー」
「そこで可愛こぶらない。はあ、二人が喧嘩したら仲裁できるの私くらいなのだからほどほどにしてよね」
「近たちが来てからはしてないじゃないですか。そこを褒めてください」
「ふうん」
「それに喧嘩をしたとしても萩野が仲裁できるならいいじゃないですか」
「…………」
丸投げされるこちらの身になってほしい。抗議をするように褐色の柔らかい頬をつつけば、ツナグはまろやかな笑い声を漏らす。
身体の力を抜いたツナグは寝返りを打つ。瞼が落ちかけており、いつも以上に表情筋が緩んでいる。眠たいなら眠ればいいのに。顔にかかる前髪を払ってやれば、ツナグは私の腹部に額を押し付けてくる。
「くすぐったい」
「……私はただ、みんなで旅をしているこの時間が好きなだけです。 いつまでも続けばいい」
「そう」
「だから、です」
「答えになっていないと思う」
「でも、萩野ならこれで答えを察してくれるでしょう」
「自分の答えを他人任せというのは良くない」
「委ねられるくらい信頼しているということです」
それから、規則正しい寝息が聞こえてくる。いつもは言いたいことだけ言って電池が切れたように突然眠りにつくくせに、甘えん坊になると寝ぐずりが酷いから困ったものね。
ひとくちチョコレートを口の中に放り込み、イオンに預けていたマグカップを受け取る。ぬるくなったホットミルクではチョコレートが溶けることはなく、咀嚼を必要とするがこの即席のホットチョコレートは癖になりそうなくらい美味しい。
「で。ここ二年は大人しかった二人はいつの間に喧嘩したの」
「してない」
「その隙を与えないために子どもたちを緩衝材にしてたのに、どうしてするかな」
「だからしてないって。つーか、萩野が子どもたちをけしかけたのか」
「じゃあ、イオンが厳しく叱ったのね」
「そんなこともしてない」
「そうでなければここまで甘えてこない」
いったい、どの口で喧嘩していないと言うのか。喧嘩直後じゃない。溜め息を吐けば、イオンは頬を掻いて無駄に音程の取れている口笛を吹く。
突然誤魔化し方が下手になるものだから、呆れてを通り越して笑ってしまう。ギプスで固定された肘で突いて指摘すれば苦し紛れに言い返してくる。
「叱られた子どもを甘やかす母親みたいだったぞ」
「じゃあ、厳しく叱るイオンは父親ね」
「やめろ。俺に子を儲ける機能は備わっていない」
「私もこんなに大きな子どもを産んだ覚えないわ」
それもそうだろうな。そうでしょう。
そのやりとりを最後にしばらくの沈黙が続く。時間に比例して空気が重くなる。場を和ませるために気の利いた冗談の一つや二つ言えたらよかったのだけれど、そういうのは不得手なので大人しくイオンが口を開くのを待つ。
どれくらいの時間が必要なのか分からないので、枝葉の隙間から覗く星々を眺める。星座をなぞり、数える。途中で疲れてきた首を解すために下を向く。視界に入ったツナグの黒髪は正に今、夜空に広がる星々を切り取ってきたみたいだ。指の腹に掠めるように毛先を撫でる。
「……ごめん」
風に揺られた枝葉の音に掠れた声が紛れ込む。
弱々しくて、囁くような声はイオンらしくないもので、掘り下げて感傷的になるのも面倒臭いので聞こえていないことにしようか考えた。けれど、私がそうしようとしていることを察したのか、それとも聞こえていないと思ったからか。イオンはもう一度同じ言葉を口にしたので、諦めることにした。
「一応確認するけれど、何に対しての謝罪?」
「俺がもっと早く気付くべきだった。萩野がイシアに長居するというのはどういうことか」
「……それ、誰にも話してないよね」
「話してたら、とっくにここを離れてるだろ」
「それもそうね。黙っていてくれてありがとう」
確かに。既に話を聞いていたとしたら、ここに留まることは許されていなかっただろう。主に近が。
木の幹に後頭部を預けて目を瞑りる。息を吐いて耳を澄ませば、規則的な寝息と風で揺れる枝葉の音が聞こえてくる。やってきた眠気に身を任せれば、瞼に浮かぶあの日のこと。
「ねえ、イオン。この森のこと覚えてる?」
「当然。俺のメモリーは優秀だからな」
「あの日さ、本当はイシアに寄る予定だったんでしょう」
「…………」
イオンからの返事はない。片目だけ開いて様子を窺えば、ツナグに視線を落としていた。
何を考えているのだろう。ただ一つ、分かることは無機質な目に映るツナグは腹が立つほど無防備な寝顔をしていて、同じように腹が立ったのであろうということ。イオンは褐色の柔らかい頬を抓っていた。
その程度のことではツナグは目を覚まさない。眉間に浅い皺を寄せて身を捩るだけで、すぐにまた間抜けな寝顔に戻る。毒気が抜かれるというのはこういうことを言うのだろう。私もイオンも身体の力を抜いていた。
「遅かれ早かれここに来ていたよ」
「そうだとしても、ツナグは相談すべきだった」
「報連相を教えてこなかったのは私たちでしょう」
「教えることを諦めた、だろ」
「その通り。だから、ツナグにだけ非があるわけじゃない」
「そうかもしれないけど、でも! ……でも」
「うん」
「鳥籠にとって、国を出るということは」
震えた声はそれ以上、続きを語ることをしなかった。
横顔は垂れた髪に隠れていて、どういう顔をしているのか見えない。もしかしたら今にも泣きそうな顔をしているのかもしれない。そういえば、旅を始めて三年四ヶ月経つけれど、皆の泣き顔どころか涙を流しているところを見たことがないわね。せいぜい笑流の涙目くらい。
そうとなればイオンの泣きそうな顔を見てみたい気持ちもあるけれど、折れた腕に負荷をかけないようにしながらもたれてくる様子を見たら、その気も削がれる。代わりに、頭を預けるように私からもイオンにもたれる。
「イオン」
「…………ごめん」
「私のために怒ってくれてありがとう」
その日は立つことすら困難な土砂降りだった。
日頃、外に出ることは疎か運動と言えるほど歩くことすらめったにない私が雨の重さに耐えられるはずがなかった。私よりも幼い子どもを二人も連れていれば尚更。
「さ、むい」
「凪の身体が熱くなるばかりで、どうしよう、どうしよう。このままじゃ凪が」
「大丈夫、大丈夫。私がなんとかして、二人を守るから」
根拠もなければ保障もない言葉を口にする自分に反吐が出る。何が大丈夫だ。
身体を温める火を灯すことも、服を乾かすこともできないくせに。大木の洞を見つけて、震える二人の小さな身体を抱きしめることしかできないくせに。
私はこの場を切り抜けるための方法を知っている。けれど、その手段を取ることはできない。体力も腕力もない軟弱さをこれほどまでに恨めしく思ったことはない。
「わあ」
無力感に打ちひしがれて、泣きたい気持ちを押し殺す。それでも、私にも限界というものがある。
目の奥が熱く、視界が揺らめく。喉奥からつっかえるものがあって、大丈夫の声をかけることすら難しくなる。少なくとも、この子たちが起きている間だけでも我慢しないといけないのに。顔を上げて、溢れてきそうな涙を堪える。そのときだった、夜の帳が下りたのは。
「イオン、みてみて。人の子がいる!」
「はあ? こんな土砂降りの中で人間がいるわけないだろ」
「いるもん」
夜の帳だと思ったものは地を這うほど伸び切った漆黒の髪。この土砂降りの中、気にせず引きずっていたのだろう。毛先は泥に塗れて固まっている。
髪も目も、光を飲み込む程黒く染まっていて不気味だった。そして、その不気味さを霧散させるかのように陽気で幼い声色が表現し難い不安感を煽る。
その人物は黒く染まった鋭利な爪を私たちに向ける。敵意とか攻撃性とか、そういうものは全くない。ただ、連れ合いに私たちの存在を教えているだけだと会話から読み取れる。けれど、弱りきった私たちには十分凶器で、肩を震わせて縮こまる二人を隠すように抱き締め直した。
「猿とかそういう獣の類だろ。この森、魔獣もいるくらいだし」
「僕が魔獣と人の子を見間違えるわけない!」
「へーへー、そうですか。……って、うっわ。本当に人間がいる」
夜の帳をくぐって現れる灼熱の太陽。
夜の帳の向こう側は厚い灰色の雲で覆われて暗いというのに、その人が現れただけで場が明るくなった気がする。気がするだけで、事態は何も変わっていない。
無機質な赤い目は私の胸元に刺繍された紋章を捉えると、一瞬動きを止める。それから、見なかったことにしようと言い出す。
その反応を見て、私は賭けに出るしかなかった。
「たす、けて」
「イオン、イオン。この人の子、助けを求めているよ」
「……まあ、そうだろうな」
博打なんて初めてするけれど、きっと私は運が悪い方だと思う。そうでなければ、今日が土砂降りになることもなかっただろうし、そもそもあんな国に生まれていなかった。
私の呼び止める声に引きずられようとしていた漆黒の男は逆に引っ張り返して赤の男を洞の中に引き込んだ。
子ども二人に青年くらいの男二人と私。私たちだけならゆとりのあった洞も五人ともなれば狭い。
「こ、う」
「凪? はっ、萩野さん! 凪が」
身体の熱が上がるにつれ、私の服を握る手の力が弱まっていく。繰り返される浅い呼吸の隙間で必死に片割れの名を呼ぶ姿に一刻の猶予も許されない状態だと判断することは容易である。
気抜けした顔で首を傾げる漆黒の男が安易なことを言わないように手で口を覆う赤の男に目を向ける。
「私は捨ててくれていいから、この子たちを助けて」
観察するように黒い目をこちらに向ける漆黒の男と違い、赤の男は今すぐにでもこの場を立ち去ろうとしている。
そのはずだ。だってこの男は私の胸元に止まる梟に反応したのだから。私は知っている。そういう相手に対して、理解した相手に対して、どういう言葉を使えば同情を買うことができるのか。
「知識だけじゃ、この子たちを逃がせない。知っているだけの私は、何もできない」
無機質な赤い目が揺らいだことを見逃さない。
漆黒の男の口を塞ぐ手を掴み、真っ直ぐ見つめてもう一度言う。
「お願い、助けて」
赤の男の拘束を容易く抜け出した漆黒の男は鋭利な爪で頬を傷つけないようにしながら、熱を帯びて赤く染まる頬に触れる。それから目を瞬かせて、ほうと息を吐き、口角を上げる。
愉快とでも言うように目を細めて、口笛を吹くように軽やかに、漆黒の男は語ってみせる。
「きみほどではないけど、その子も魔力への耐性が極端に低いね。それなのに魔力量が多い……のは、なるほど。双子ゆえの歪さか。そっちの子は魔力への耐性が高いけれど、魔力の量は少ない。ちなみに、きみはどちらもゼロ。それどころか、耐性に関してはマイナス。へえ、こういう人の子も存在するんだ」
「おい」
「いいじゃん。助けてって言ってるんだし、助けようよ」
「でも、そいつは」
「訳アリが一人増えたところで変わらないし、何よりこの人の子は普通っぽいじゃん。こういう子が今の僕たちには必要でしょ?」
「普通って……まあ、そりゃ、お前から見たら普通なのかもしれないが、世間の認識で言えば普通とは言い難いような」
「細かいことは気にしなーい」
赤の男は両手で顔を覆って天を仰ぎ、呻くように声を漏らす。それをお構いなしに、漆黒の男は怯える子どもを宥めるような笑顔を浮かべて近付いてくる。パーソナルスペースなど知らないとでも言うように距離を縮めてくるので、反射的に後退する。といっても、洞の中で後退可能な距離なんてたかがしれている。すぐに後頭部をぶつけることになる。
黒く染まった爪の先が私の頬に移る。筋をなぞるように下へ降ろし、顎を捕らえる。咄嗟に視線を落とすが、その分顔を上げられる。強制的に合わせられた目は底の見えない暗闇のように黒く、目が離せない。
「ねえ、その子たちを助けてあげようか」
「…………助けてもらうために、何が必要なの?」
「わあ。きみは人の子の中でもうんと賢くて、察しがいいんだね。僕、知ってるよ。そういう子は人の群れの中でも随分苦労するって」
「…………」
話が進みそうで進まない。きっと余談が多くて話が脱線した挙句の果てに本題を忘れる類だ。
急かすように赤の男を睨めば、彼は咳払いを一つする。それを聞いて、漆黒の男は乾いた音が洞の中に響くように両手を合わせる。
そして、漆黒の男は蕩けるような柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「その子たちを助けてあげるから、きみは僕たちを助けてよ」
光すら飲み込むような黒い目が妖しく揺らめく様を、私は一生忘れないだろう。
離れたところから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。微かにだけれど笑流の声も紛れていている。
ゆっくりと意識が浮上し、思考が回り始めたところで身体が水面に揺れる小舟のように揺れていることに気付く。状況を確認するために、まだ重たい瞼を上げれば飛び込んでくる世にも美しい光景。
「……」
「やっと起きた、ジャージ女」
「一晩経ったのにまだ拗ねている」
「拗ねていない。怒っているんだ」
「そういうことにしておいてあげる」
私が横たわるハンモックに腰をかけ、柔らかな木漏れ日に包み込まれる姿はさながら宝石のようだ。濡羽色の髪なんて天然のブラックダイヤモンドにも見える。
いつの間にハンモックに移動したのだろうという疑問は抱かなくもないけれど、私が会話の途中で寝落ちしたのを確認したイオンが運んでくれたというところだろう。
「子どもは朝から元気ね」
「もう昼下がりだ」
「……もっと早く起こしてほしかったなあ」
「屋敷に出向くのは夕方なんだろ。なら、まだ時間はある」
「そうね。でも、クラム・ハープのことだから直前に青い顔して思考を止めると思うのよ。先になんとかしておかないと」
「……あいつなら青い顔してあっちに行った」
近の指先を辿る。あちらにあるのはアミィたちが魚がたくさん泳いでいると教えてくれた川と人が隠れられる程の洞のある大木。時間をかけずに見つけることができそう。
枝葉の隙間から覗く太陽の位置から時間を推測しながら起き上がる。ハンモックというものは難しいもので、考えずに動くとあっという間にひっくり返ってしまう。けれど、近が腰をかけているのならば問題ない。という判断を安易にした数秒前の自分に忠告しよう。
「……痛い」
「ふはっ」
拗ねた近は小学生のような悪戯をしてくる、ということを。この場合、悪戯を通り越して嫌がらせである。
私が起き上がると同時に立ち上がり、目論見通りひっくり返ったことに満足して笑う姿を見て彼の子どもっぽい一面を思い出す。
「怪我人相手に酷いこと」
「ハンモックでひっくり返る鈍臭い自分が悪い」
「片腕がこれだとバランス取りにくいんですーっだ」
「両腕に問題がなくてもひっくり返るだろ」
「否定はしない」
ひとしきり笑った近はいつまでひっくり返っているつもりだと起こしてくれる。
手を差し伸べる姿も様になる上、木漏れ日を後光に変える。宗教画になり得そうな美しさに少しばかり腹が立つ。
「私なら頭も打ちかねない行為だよ」
「どこぞのジャージ女が一人で落ちることを想定してハンモックは低い位置に取り付けたし、下には柔らかいマットが敷いてある」
「そこまでしてハンモックで寝たい人みたいじゃない。というか、昨日までこんなマットはなかった」
「俺が今朝敷いた」
「随分と丁寧な悪戯ね」
鼻を鳴らして、どうだ参ったかみたいな態度に、ツナグに引き続き近まで構ってちゃんになってしまった。頭を抱えたい。
こうなると、イオンが何かしたのではないかと疑いたくなる。話はしていないとは言ったけれど、吹き込んでいないとは言っていない。
「まあ、いいや。クラム・ハープのところ行ってくる」
「放っておけばいいだろ」
「そうもいかないのよ。彼女にはやってもらわないといけないことがあるのだから」
「ソフトクリームなら俺が作ってやるのに」
「それはそれで食べたい。でも、私が食べたいのは花氷祭で振る舞われるソフトクリームなの。それに」
言いかけた言葉は飲み込み、口を閉ざす。濡羽色の目が続きを言うように促してくるが、首を横に振って会話を打ち切る。
険しい表情を浮かべながらもそれ以上話を掘り下げない近に、戻ってきてから昼食を食べると告げてから森の奥へ進む。よくもまあ、この状況で俺に昼食をねだれるなとかなんとかぼやいていたけれど、聞こえていないふりをしておく。
拗ねていようと怒っていようと、空腹を訴えられたら食事の準備をしてくれるのが近という男。なんだかんだで優しいのよね。イオンに言わせると近は私に過保護とのこと。文句を言って断りながらも用意してくれる優しさに付け込まれていることを理解しておきながらもその通りにしてくれるのだから、イオンに言わせなくても私に過保護だ。
「うっわあ。分かりやすい」
靴も靴下も、ジャージも濡れることを川の浅いところを渡り、森の中心部を目指す。笑流なら水面から顔を出す岩を飛び越えるのだろうけれど、私がそんなことした日には滑り落ちるに違いない。そして、そのまま溺れて流される。浅瀬だろうと流れが遅かろうと、着衣水泳になった時点で無理。今だって踝の深さを渡るのにも集中を欠かすことができないのだから当然よね。
そうして川を渡り終えたところで見えてくるのはこの森の中心に
「子どもたちにかくれんぼのやり方でも教えてもらったら?」
「ひゃっ。え、あ、萩野さん? あいたっ」
「うわ、顔からいった」
背後から声をかけられたことに驚いたようで、クラム・ハープは慌てて立ち上がろうとする。そして、物の見事に顔面を強打した。人が複数人は潜り込める洞だとしても、幹の太い大木だから空間が広いだけで高さがあるわけではない。なのに立ち上がろうとするなんて……。
蹲るクラム・ハープに奥に行くように指示して、私も洞の中へ潜る。
「擦り傷にまでは至っていないみたいね」
「それはよかったです……」
「というか、傷はなくともひっどい顔」
「じ、じろじろ見ないでください」
「今日に限って寝不足? 睡眠不足はパフォーマンス低下に繋がるよ」
「人の話を少しは聞いて!」
前髪で隠れている額を確認すると、赤く色づいていた。これなら時間が経てば元のペールオレンジの肌に戻るだろう。
そのままクラム・ハープの顔を観察する。
指通りの良いダークブラウンの長い髪にアップルグリーンの澄んだ目。この森での生活を通して思ったのだけれど、容姿と扱える魔法の属性はあまり関係しないらしい。森に馴染むこの色合いだと植物に関する魔法を得意としていそうなのに、そうでもないという話を数日前にされたから奥が深い。その奥深さに好奇心を掻き立てられるのだけれど……残念ながらこの手のことにはとことん不得手なので追究することは早々に諦める。こればかりは努力でどうこうできる話ではないのだ。
私の視線に堪え兼ねたクラム・ハープは逃げるように顔を膝に埋める。
「私は父と何を話せばよいのでしょうか」
「さあ」
「さあって……」
「人の観察から逃れるためとはいえ、唐突に真剣な話を挟まないでくれる?」
「それが原因で寝不足なんです。話に付き合ってください」
「そもそも、私の助言をもとに作られた言葉なんて彼には何も響かないでしょう」
「……そうかもしれませんが、それでも何かありませんか? 話し合いのコツみたいなの」
「言いくるめることならこの旅の中で何度もした。でも、話し合いはしたことないの。……ましてや親となんて一度も」
力無く、呟くように吐き出される悩み。そういうとき人は誰かに寄りかかりたくなるもので、クラム・ハープも例に洩れず。隣に座る私にもたれてくる。
そこまで親しい間柄になった覚えはないのに急に詰め寄られる距離感に、戸惑った私は口を滑らせて余計なことを言ってしまった。
話を曖昧にして終わらせようと考えたが、膝に埋められたアップルグリーンの目が真っ直ぐ捉えてきた。
「この話は本件と関係ないから」
「そこまで吐いたならもう話しましょう。女子会です」
「こんな暗い女子会嫌なのだけれど」
「私としては恋愛のお話も歓迎しますよ。そうですね、例えば今も指先で転がしているペンダントの贈り主とか」
「なんでそっちに飛ぶの。大抵の人は近との関係に触れてくるのに」
「女の勘です」
「うっざ」
「この数日でどれだけ貴方と近さんに揉まれたと思っているのですか。今更それくらいの言葉じゃ私は引きませんよ。さあ、さあ。先程の発言の続きかペンダントの贈り主か、どちらかについて語ってください」
「ちょっと近い。そして本当にうざい」
気持ち悪いくらい興奮し始めるクラム・ハープの勢いに逃げたくなった。
私が一歩後退すればクラム・ハープは二歩前進する。洞の中ですればあっという間に追い詰められる。これ以上逃がすまいと宣言するようにクラム・ハープは私に覆い被さるような形をとって両手を壁につく。ダークブラウンの毛先が頬を掠めてくすぐったい。
五日前まで、私の質問には何一つとして答えるつもりがないのですね。などと言って話を聞くことを諦めていたクラム・ハープが一体どうしたというのか。睡眠不足で頭のネジが馬鹿になったと言うのであれば早急にどうにかしてほしい。
「話すからどいて」
「貴方から質問の回答を得たいのであれば、話を聞き終えるまで攻めの姿勢を崩すなと教わりました」
「誰よ、そんなこと教えたの。ツナグね」
「はい」
鼻先が擦れそうなくらいの至近距離まで詰め寄られたので、このやり方を吹き込んだツナグに舌打ちをする。彼としてもまさかここまでするとは思わなかったのかもしれない。
そこから汲み取るに……この女、あまりどころか全然寝ていないわね。いわゆる深夜テンションというやつになっている。こういう風になっている人に自分の要望を通すことは非常に面倒臭い。なんなら会話を成立させるのも面倒臭い。会話の温度差に風邪をひきそうになる。
こうなったらさっさと言いくるめてトレーラーで寝かせてしまおう。
「鳥籠には義務教育の制度があり、高等教育を受ける人も多い」
「テクノロリアにはそういう国が多いですよね 」
「中学三年生になるとね、進路の話題で盛り上がるの。親にあの高校を勧められた、将来の夢を反対されている、模試の結果がどうだった、今の成績じゃ第一志望校は難しいと先生に言われた、なんてね」
「なんだか、大変そうですね」
「そうなのでしょうね。でも、私はそういう話し合いを親とできることが羨ましかった……のかなあ」
「ご両親とは不仲だったのですか?」
あれを羨望と表現するのが正しいのか、私にも分からない。生みの親と過ごした時間なんてこの旅の期間と同じくらいか、それ以下くらいだし。不仲になる以前に、私が生みの親に何かしらの感情を抱くほどの関わりをしていない。
顔を見たのも随分と前のことだから、今の顔も記憶のものと異なるだろう。面影を感じることもきっとできない。それを寂しいと思ったことがあると言ってしまったら、それこそ嘘だ。
心配するような目を向けてくるクラム・ハープの視線が下がる。視線の先に無意識のうちに触れていたペンダント。隠すようにジャージの下に戻せば、下がっていた視線が再び私の目を見る。そこまで凝視してこなくてもいいのに。
「私が黒を白と断言すれば白となる。誰かが意見することなく定義ごと変えられる」
「え、そんなことできるわけ」
「壱檻というのはそういうものなの。だから、私と話し合おうとする人なんていなかった」
厳密には一人もいないわけではない。どれだけ統制の取れた組織にも変わり者は一人や二人紛れ込んでいるものだし、融通の利かないマニュアル人間も当然いる。
それでも、彼ら彼女らも私が断言してしまえばそれに従う。
「本当に面倒臭い」
などという話をすれば心優しき女性は、イシアの民にすら
涙で潤むアップルグリーンの目を眺めながら溜め息を吐く。そして、左中指を丸めて勢いよくクラム・ハープの前髪に隠れた額を弾く。
「あいたっ」
「そういうところ」
「え?」
「人の話に聞き入って心を砕くの。話し合いをするにあたって致命的だから、どんな話をされても流されないという気持ちで臨むこと」
「えっ、えっ」
「そっちが聞いてきたことでしょ。話し合いのコツ」
額を弾かれた勢いで身体を仰け反らせたので、そのまま肩を押して離れてもらう。パーソナルスペースが確保できたところで腹の虫が大きな鳴き声を上げた。
たくさん喋って疲れた。なんだかんだ優しい近が朝食兼昼食を準備してくれているだろうし、そろそろ戻ろう。そう思って洞から出ようとするとクラム・ハープに左手首を掴まれる。まだ何か助言してほしいと言うか。会話術なんて私に求めないでほしい。
しばらく様子を窺うがなかなか口を開かない。仕方がなしに何と問いかければ、クラム・ハープは眉間に皺を寄せて言う。
「萩野さんこそ、それ、やめた方がいいですよ」
「こそあど言葉で通じ合えるほど親しい間柄じゃないのだから、はっきり言ってもらえる?」
「そういう言い方したのそっちが先なのに!」
「それもそうね。じゃあ、私は戻るから」
「って、話はまだ終わっていません」
これ以上会話を続けたくない。続けたらろくなことにならない。そんな予感がした。
直感が優れているわけではないけれど、こういう勘だけは当たるというもの。だから、逃れるためにクラム・ハープの手を振り解き、洞から出る。早歩きで来た道を戻る。そんな風に歩けば、足元への注意は怠ってしまう。私が足元不注意になれば当然、木の根に躓く。
これはまずいと咄嗟に両腕を前に出そうとする。ギプスと三角巾で固定されている右腕を前に出そうものならバランスを崩すのも当たり前のこと。悲惨な体勢で地面と衝突しかける。
しかけたけれど、後を追いかけてきたクラム・ハープに首根っこ引っ張られたおかげで未遂で済んだ。代わりに首が締まって苦しい。
「偽悪的に振る舞うことです。萩野さん、実は捨てられた犬猫を放っておくことができず連れて帰りますよね」
「待って、このまま話すの?」
「近さんと笑流ちゃんを招いたのは貴方だとお聞きしています。それがいい証拠です」
瞬間的にだけれど酸素が足りなくなる。瞬間的だとしても私にとっては大きなダメージ。身体に力が入らなくなり、木の根にへたりこむ。そうすれば、クラム・ハープは目線を合わせるように膝を折って話を続ける。
この強引な手法もツナグに教わったのだろうか、お喋りな彼には困ったものね。そう呟けば、クラム・ハープは物言いたげな眼差しを向けてくる。時には鈍感さも大事なので、その顔が何を言おうとしているのか察せないままにしておこう。
「本当は最初からこの国に手を貸そうとしてくれていたんですよね。でも、国外から訪れた自分が主体になるわけではないから誰かを立役者にする必要がある。だから自分たちには関係の無いことだから、義理なんてないなんて言って最初は突き放すようにしていた。……まあ、私が気に入らないというのは本心かもしれませんが」
「都合の良い解釈をしてるだけだよ。私はイシアがどうなろうと」
「イシアを救おうとしている理由は……
これから天気が崩れそうなので早めに森を出てイシアに向かった方が良さそうだ。雨が降り始める前に屋敷の中に入りたいし、その後のことを考えたら話し合いも終わらせてしまいたい。
流れが速くなっている雲を眺めながらこれからの予定を考え、クラム・ハープの話を右から左へ聞き流していた。けれど、どうしても聞き流せない単語が出てきた。枝葉が擦れる音が強くなり、森が騒々しくなってきてもそれだけは明瞭に聞こえた。
視線を向ければ、柔らかく微笑むクラム・ハープと目が合う。
「……どうして」
「母の遺産整理をしたのは私です。なので、お名前は存じていました。萩野さんが長らく開催されていない花氷祭を知っていたのも、ソフトクリームにこだわっていたのも、きっと母が語ったイシアをその人から聞いていたからですよね」
「……」
「国のためではなく、あの子たちのためでもない。ただ一人、その人のためだけにイシアを救おうとするなんて、私なんかよりもよっぽど健気じゃないですか」
刹那、思い出す。
陽の光が差し込まない閉鎖的な空間。肺を侵食する埃っぽい乾いた空気。身体の芯が冷えていくような無機質さ。点在的に色が濃くなった灰色の床。
そこで響き渡るのは──。
「私は何もしていないし、何もしないよ。イシアを変えるのは貴方たち」
「そのきっかけを与えたのはとても大きなことですよ」
「私が手を貸すのはイシアが変わってから。それまでは何があっても口を挟まない」
「イシアは物資も人材も足りていませんから、復興の手助けをしていただけるだけで十分です」
「……この一週間で随分と逞しくなったことで」
「そうでしょう、そうでしょう」
いつの間にか握り締めていたジャージから手を放せば、ペンダントトップが胸元を叩く。息がしやすくなった気がした。白くなった指先に血が巡るのを感じながら、肩の力を抜く。
いろいろ言った分を言い返された気分だ。褒めたつもりないのに、手を腰にあてて鼻を伸ばすクラム・ハープの姿が癪に障ったので前髪の上から額を小突いておく。
「仮眠をとった方がいいよ。睡眠不足で頭の中にお花が咲いているみたいだから」
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