橋上より望む者

 ある廃墟に、殺された女の幽霊が出る。そんな噂を良く耳にするようになったのは、今から二十年以上も前の晩秋の事だった。

 ひょんな事から知り合ったT先輩という人から強引に誘われ、僕はその廃墟に行くことになってしまった。厳密に言えば学校の先輩などでは無いのだが、そう呼べと言われていたので、そうしているだけであった。何やら黒い噂が付き纏っていたT先輩の発言には変に強制力があり、僕も周りの悪友たちもそれに付き従うしかなかった。

 廃墟の探索にただ行くだけならまだしも、お前の家にビデオカメラはあるかと聞かれ、はずみでありますと言ってしまったのが災いして撮影係に無理矢理任命され、重たいカメラを担ぐハメになってしまった。

 僕が運転する車中で、T先輩は終始苛立っていた。何を聞こうとしても答えてくれず、ただぶつぶつと「なんで自分が……」と何かしら不満を呟いているだけだった。

 問題の廃墟が果たしてどこにあるのかも詳細に言おうとはせず、曲がり角に差し掛かる度に、右だ左だここは道なりだと行く方向を指定するだけだったので、どこに行くのか皆目見当がつかなかったが、西日本方面だとだけは分かった。

 何度目か県境を跨ぐ頃には、普段は鈍い僕でもさすがに何かがおかしいとは感じていた。

 T先輩は確かにこういった心霊スポットや廃墟への突撃は好きだった。知り合って間もない頃などは良く無理やり連れて行かれたし、その度に後輩達を驚かせては喜ぶという典型的な嫌な先輩像を見せていた。

 しかし今回は根本的に違う。T先輩は明らかに行きたくなさそうだった。一人で行くのが嫌で、僕を巻き込んだとも感じ取れるようだった。

 勿論廃墟という足場の悪そうな場所へ赴くのに、一人で重たいカメラを持っていく気になれない、というのなら分かる。だがそれなら撮影などという酔狂な事を辞めればいいだけのことではないか。

 助手席のダッシュボードに脚を乗っけた行儀の悪い姿勢でT先輩がぼやいている。主に舌打ちと「クソが」という一言が交互に聞こえるのだが、ごく稀に文章で不満を漏らすときがあった。その中に「何で撮ってこなきゃいけねぇんだ」というものがあった。

 ここから察するに、T先輩も誰かから指示されているのだと思ったが、彼の身の回りの黒い噂の事もあり直接聞くことは何となく躊躇われたので、そうしたほうが自分の身のためだと聞かなかった。

 時刻が深夜二時を回る頃、とある県の国道を山側に逸れて行った先、山間を縫う峠道の途中でT先輩が助手席側の窓を指差した。

「あれだ」

 僕がそれにつられて窓の向こうを見ると、そこにはいかにもな廃墟が佇んでいた。

 いよいよ来てしまったと後悔したがもう遅い、T先輩に指示されて脇にある待避所に車を寄せて停める事しか僕に出来ることはなかった。


 廃墟と一口には言ったものの、近づいてよくよく見てみるとその惨状は酷いもので、かろうじて何かの建物であろうことだけが分かるというようなものだった。廃墟と言うよりもはや残骸に近い印象だ。

 険しい傾斜のある山に覆われたその場所を無理矢理拓いて建物を建てた、という印象を抱かせる。遠くには暗くて見えないが、吊橋のようなものもあった。しかしかつての面影はどこにも残っておらず、天井部分はその半分が崩落し、梁や鉄骨が剥き出しになっている。畳だったようなものがぶら下がっていたり、扉のようなものが穴の空いた地面に橋渡しのように落ちていたりした。果たしてここは何の建物だったのかを推察するにはあまりにも材料が足りない。

 しかしそれでも中へと入れる進入路はいくつか目星がついた。建物の脇に獣道のようなものがあり、緩い傾斜でジグザグに造られたそれは、草木を掻き分ければなんとか歩いて行けそうだった。建物の内部が無事であれば入っていくことも可能だろうと思える。それでもどこかが崩落を起こしたりして足場を踏み外すなどの危険はあったが。

「カメラ用意しろ、ここからもう撮っていくぞ」

 そう言われて僕は渋々カメラの準備をする。暗いというので照明も持ってきたのだが、全ては僕の役割だった。いくらなんでも文字通り荷が重すぎるのではないかと思ったが、不満を言える立場ではなかった。

「おい、早くしろよ」

 照明をやっとのことで点けれたところでT先輩にそうどやされつつも、慣れない手つきでカメラをいじくり、なんとか撮影を開始出来ていたようだ。

「まぶし……映ってる?」

 照明をT先輩に向けると、存外に光が強かったようで彼だけが暗闇に浮かんで見える。背景は真っ暗闇で何があるのかもわからない。T先輩は眉間にたっぷりと皺を寄せて睨んでいた。

「いや、先輩だけです」

「近付けば映るか?」

「多分ですけど……行ってみないと分からないです」

 T先輩はそのまま黙って前を向き、さっさと進んでいく。僕も後に続き、獣道を歩き出した。

 道中もT先輩は何も言わなかった。僕も撮影以外にはとてもではないが気が回らず、なんでこんなことをしているのかと疑問に思う暇もなかった。

 廃墟の内部へと入ると、T先輩はするすると奥へ進んでいく。瓦礫やらゴミやらが乱雑に散らかっており、カメラを持ちながら避けて歩くので精一杯だったが、彼は軽快に進んでいく。以前にも来たことがあるのかと問うと、ある、とだけ答えた。

 詳細を語りたくないのか、嘘なのかは分からなかったが、話をしても無駄な労力を費やすだけだと思い、僕はそれ以上何も言うまいと口を閉じた。


 建物は二階建てであり、僕らはその一階部分の奥へと進んでいったのだが、遂に目的の場所と思しき場所でT先輩が脚を止めた。

「三脚あるか?」

 余計に荷物が嵩張るので持ってきていない、と答えると、T先輩は隠しもせず舌打ちをし、その辺りにあった痛みきっている棚だったものをずるずると引っ張ってきた。

 その上にカメラを置けと指示してきたので、定点で向かいの部屋を撮影するということだろう。

 その場所は、壁と床の朽ちた青のタイルや鏡の跡、そして一ヶ所だけ四角形に窪んだ床などから察するに、風呂場だったであろう場所だった。

 重みからやっと解放された事で幾分か気分が紛れ、T先輩にいくつか質問をしてみる。

「これ、何してるんですか? 女の幽霊を映すんですか?」

 T先輩はしばらく黙って睨んでいたが、そのうちに面倒くさそうにだがぽつぽつと語りだした。


 元々は温泉旅館だったそうだが、廃業後にある筋の者が買い取り、あることをしていたそうだ。

 内容が内容だけに、それはごく一部の者にのみ知らされていたが、ある時急にここを管理している者が相次いで死んだり失踪したりするようになった。そして彼らはほぼ例外なく、謎の言葉を残して消えていった。

 その言葉の内容は長く、先輩は覚えていないそうだ。ただ微かに思い出せる一つの単語は「橋上」だと言っていた。

 そしてその言葉の意味は分からないまま失踪者や死者は続き、そのうちこの現象を恐れてか、この場所を管理するものが徐々にいなくなっていった。

「ちょっと待って下さい、女の幽霊の話は?」

「遮んなよ。まぁ、意味が分からな過ぎたんだよ。だから誰かが最初に言い出したんだろ、殺された幽霊の仕業だって。なんせこの場所は……」

 続きを言う前にT先輩は僕の目の前で突然手のひらを拳で叩いた。大きな音と動作に驚き、思わず尻餅をついてしまった。

 T先輩は笑いながら「バラシだ」とだけ言った。

 人間の、解体──。

 僕の脳裏に言葉がよぎる。身を起こしてから改めて風呂場を見てみると、汚れた床の染みなどが浮き立って見えるようだった。それが風化によるものなのか、誰のものとも知らぬ体液によるものなのかは知りたくなかった。

「要は、心霊スポットだなんだって騒がれちまうと、俺たちみたいなのが湧いてくるだろ? あー……だから、証拠で映像を撮ってこいって事だ。幽霊なんていねぇって」

 それならそうだと最初から言って欲しかったのだが、もう来てしまった以上何も言うまいと口をつぐんだ。

「そのある筋ってのはうちじゃねぇぞ。俺も上の人もよく知らねぇんだがよ、変な宗教だって話だ。神との交信だのなんだの、なんか気持ち悪ぃ事ばっかやってたんだってよ」

 T先輩はそう吐き捨てるように言った。やはり先輩はそっちの組織の人間だったかと納得した。


 それから数十分ほどその場で放置して様子を見ていたのだが、これといって何も起こらず、ここいらで充分だろうと言うことで撮影を終わりにすることにした。

 苦行から解放されると聞いて僕が録画を止めようとカメラに手を伸ばしたとき、それは起こった。

 テープを巻き戻した時のきゅるきゅる、という音が響き、録画が強制停止してしまったのだ。

 無論僕は手を触れていない。T先輩はカメラの近くにすらいなかったし、彼にはその音も聞こえていなかったらしい。

 何が起こったのか、とりあえず録画は停止しているのでテープを取り出して確認してみることにし、驚いて固まった手をもう一度カメラに伸ばす。

 その時、なんの前触れもなく突然目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。ただでさえぐちゃぐちゃに散らかったその場所が、さらに形を崩していく。

 やがて、自分が立っているのか寝ているのか分からなくなった頃、崩れていた景色がまた別の何かに変化していった。

 視線の奥、先ほどまでは何も無かったはずの壁に敷かれた青タイルの模様だけ元通りになり、中央に真っ白なものが浮き出ていた。

 それは裂けるほど大きく口を開け、見開いた目でこちらを強く睨み付ける女の顔だった。何故かはわからないが、それはこの場所できっと惨たらしく絶命した、誰かの最期の顔だと一目で理解した。

 そうと理解した瞬間、遠くの方から誰かが自分を呼ぶ声がした気がした。それにつられるまま、声の方へ足が向かいだす。何故かそこに行かなくてはいけない気がした。

 視界は先程より一層歪み、視界の中に渦巻きが巻いているようだったが、何故か足取りはしっかりしていた。惹かれるようだった。

 一歩進むごとに声は大きくなってくる。が、何と言っているのか理解は出来なかった。それでも、分からなくても理解しなくちゃいけない、早くしないといけないような、釈然としないが確かにある焦燥感と使命感が僕の中に芽生えていた。早く、行かないと。

 いつしか声が頭の中で繰り返されているのを感じたとき、視界の渦巻きの中心に何かが居た。

 縦長の楕円のような形で、上部で二つに枝分かれしていた。ぼんやりとそれを眺めていると、初めはぼやけていたそれが鮮明に見えるようになってくる。そこまで来て思い当たった。どこかの資料、いや図鑑か何かで見たことがある。

 それは、真っ黒に塗られた草食動物の頭蓋骨だった。

 そうだと気付いた瞬間、頭の中に膨大な情報が流れ込んできた。目まぐるしく移り変わる様々な景色、人物、情景が、止まること無く次々と流れていく。若い女、黒い山羊、白装束の集団、木、触手、子ども……。

 頭の中に強制的に浮かんでくるようなその映像が終わって、目の前も真っ暗になる。そして、ある一つの感情に支配される。

 女を殺さなくてはいけない。殺して送らなきゃ。

 それは激情のように身体を支配し、とにかく行かなくてはと思い、僕は勢いよく立ち上がった。

 景色は廃墟に戻っており、僕は入ってきた場所まで一気に戻り、獣道を下ってアスファルトの道路まで戻ってきた。そして、再び廃墟を外から眺める。

 と、獣道から足音をたてて派手にT先輩が飛び出してきた。

「お前ふざけんなよ! なんでカメラ置いてくんだよ、持って帰らねぇと証拠になんねぇだろうが!」

 手にはカメラを持っていたが、僕の姿を認めるなり地面に乱暴に置いた。

「もういやです。帰りたいです」

 僕はそんな事を思ってはいない。だが勝手に口が動いた。

「はぁ……お前さぁ、ここまで来たんだから、もうちょっと我慢しろや」

 あの場所だけじゃなくて他にも撮らなきゃいけねぇんだよ、とT先輩はぼやく。

「帰りましょう。帰らないといけないんです」

 そんな気がしていた。帰って、殺さなきゃ。送らなきゃ。

「……もういいわ」

 T先輩は未だ録画の続いていたらしいカメラの録画ボタンを、これか? と呟きながら押す。録画は止まり、僕に持つよう促した。苛立ちがより一層積もった表情を浮かべたまま、T先輩は帰るぞ、と歩き出した。

 車に戻り発車させ、廃墟から遠のいていくのに、自分の生家から離れるような郷愁を覚えているのが不思議だった。

 僕は先程録画したテープをぐっと握りしめ、決意めいた何かを感じていた。そして、もうその時から僕は僕で無くなったような気がした。


 それから数年が経ち、嫁を貰い娘を授かり、さらに長い時が経った。頭の中に未だある使命のようなものを実行するに充分な時間を掛ける必要があったから、ここまで待った。

 そして来たるべき時は来た。娘が連れてきた二人の青年の訪問を機に。僕はあのときのテープの一つを棚に忍ばせつつ、彼らを迎え入れた。


 必要なものは「眷属の血縁」「若き女」「穢れた精神」そして「邂逅」である。

 贄が仔を孕めし時、彼方再会の場所にて橋上より望む者と邂逅の時が来る。

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