現代怪奇見聞録
りっきぃ
角女
今から一年くらい前の話だ。
その頃は転職を機に、新しい住まいを探すために賃貸物件を見て回る日々が続いていた。諸事情で仕事を既に辞めていた俺は、あまり金銭的に余裕がなく、自然と家賃を重視した選び方になっていた。
その物件と巡りあったのは、割りと早い段階だった気がする。
どこにでもあるような2階建てのアパートの201号室。家賃はその地域にしては驚くほど安い方だった。
しかし、オンボロで風呂便所なし……と言ったこともなく、綺麗な内装と、快適な設備。内装の下見に向かった時には「本当にこの家賃なの?」と仲介業者の人に尋ねるほどだった。仲介業者曰く、駅から少し遠いことと、建物自体の築年数がこの値段の理由となっているらしい。
何も迷うことは無く、その場で即決だった。
再就職もスムーズに進み、その物件を借りるために仲介業者を挟んで契約を済ませ、引っ越しを完全に終えたのはそれから数日後の事だった。
住所変更の手続き、インテリアや電化製品の設置がやっとの思いで終わり、落ち着いたところで最後にしなければならないことは、近隣住民への挨拶だ。
軽く回ってみたところ、全員人当たりも良さそうで、おかしそうな住人は居なかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。それは、左隣りの202号室の田崎さんという優しそうなお兄さんから聞いた言葉。
「どうもこんにちは、201号室に新しく越してきた狭山と言います」
「ああ、引っ越しはもう終えられたんですね、お疲れ様です。202号室の田崎です」
「ご迷惑をかけることもあるかとは思いますが、よろしくお願いします」
「いえいえ、お土産わざわざありがとうございます。 ……狭山さん、お引越しは、お仕事の都合か何かですか?」
「ええ、まぁ……転職で」
「そうですか、新しい職場に慣れるまで大変ですね。……あの、失礼ですが、恋人さんなんかは……?」
「はぁ? いえ、今は特に……」
「そうですか……いやいやすいません、突然変なことを聞いてしまって」
初対面でいきなり馴れ馴れしいなと感じたが、独り身の俺を心配してくれてるんだろうと思い直した。
田崎さんが言うには、前の住人は女性関係のトラブルですぐに出て行ってしまったのだと言う。
そして、その前も、さらにその前も……。
「ですから、夜中の喧嘩とかは大変でしたよ。僕もあまり首を突っ込まなければよかったのですが……」
恐らくこれは、釘を指しているのだろうと思った。確かに他所の痴話喧嘩で生活を邪魔されたくはないだろう。
そんな事には到底無縁だろうが、もし恋人が出来た場合は気をつけようと思った。それから二言三言話したあと、他の住民への挨拶に戻った。
前の住人の事が気掛かりだが、さほど気にもせずそれからしばらくその部屋で過ごした。
越してきて一週間が経った時だ。
その日、慣れない仕事で疲れきった俺は夜遅くに帰宅した。ドアの鍵を開け、真っ暗な玄関に入る。
ボーッとした頭で部屋の電気を点けると、部屋の角に俯いた女が立っていた。
ボサボサで腰まである長い髪、何故か下着姿、肌の色は真っ白で、明らかに異常な光景だった。
人間、本当に怖い目に遭うと声も出せなくなるのをその時知った。情けないことに俺は目を見開き、口も開けっ放しのままそいつを凝視することしか出来なかった。
そいつは壁のほうを向いており、俺に気付く様子が無い。向いている壁を左手でゆっくりと、何回も引っ掻いており、何事かブツブツとつぶやいている。
頭がおかしい人? ドロボウ? 殺される?
混乱した俺はそのまま百八十度回転し、ドアにタックルをかまして一目散に逃げ出した。
その後、近くのコンビニから警察に電話をした。来てもらった警官と一緒に家に戻ったのだが、女は居なくなっていた。
侵入の痕跡も無いし、見間違いじゃないですか? と一蹴され、少しイラッとした。
でも、玄関の鍵は掛かっていたし、他の窓からも侵入の痕跡は無いのを自分の目でも確認した。物も取られていないし、女が居た形跡すら無い。
全く理解できなかったが、次の日も仕事であるため、玄関や窓の施錠をハッキリと確認した後、疲れ切っていた俺は眠りについた。
その日の朝、目を覚ますと、また女が立っていた。
情けない声で叫び、立ち上がって女と対局の角により掛かる。女は相変わらず同じ格好で壁を引っ掻き、ブツブツ呟いている。
意味が分からなかった。鍵かけたのに。
そのまま凝視しているわけにもいかず、俺は勇気を振り絞って女に声をかけた。
「誰だおまえ! 何しに来た!」
何の反応もない。
「で、出てけよ!」
やはり反応はない。
こうなったら強行手段しかないと思った俺は、女に近づいた。
あと1m程の距離まで近づき、飛びかかろうとしたその時、女が壁を引っ掻く手を止めた。
そして、ゆっくりと身体の向きを変え始めた。まるでスローモーションの様に、ゆっくりと、ゆっくりと。
そして、俯いた頭がゆっくりと角度を変え、上に起き上がってきている。
すると、その動きはガクン、ガクン、と時折何かに突っ掛かるように一瞬だけ速度を上げ、またしばらくゆっくり動くとまたガクン、ガクンと速度を上げる。
人間の動きじゃなかった。人では無いと実感したのはこの瞬間だった。
とうとうこちらを向いてしまうという頃に、俺は恐怖の限界を迎え、叫び声を上げながら腰を抜かしてしまった。
しばらく頭を抱えていると、ブツブツが聞こえなくなった。恐る恐る顔を上げてみると、女は綺麗サッパリ居なくなっていた。
それから、その女は度々現れた。しかしその日からは壁ではなく、俺の方を見るようになっていた。
帰宅した時にこちらを向いていたり、風呂からあがると出現したり。気付いた時に部屋の角に目線をやると、いつのまにか現れている。
家賃が安い理由が判明し、仲介業者を心底恨んだ。だが、その女はそれ以上何もしてこなかった。
何か悪い影響を及ぼしたり、俺に攻撃をしてきたりということは一切なかった。一日に数回現れ、ただ部屋の角に立ってこちらを見てるだけ。心臓に悪いだけで、実害は何もなかった。
人間、こんなことも慣れてくる。実際にしばらく時間が経つと、俺はその話をネタにしたりしていた。
お化け出るんだぜ、と同僚を部屋に招いた時も現れたが、どうやら俺にだけしか見えていないらしい。会話を試みたり、写真や動画を撮ってみたりしたが、何の効果も進展も無かった。
「君、割りと綺麗な脚してるよね」とからかってみたりしたが反応無し。何をやっているんだと、自分が少し悲しくなったくらいだった。
「田崎さん、これ実家のお土産です、どうぞ」
「わざわざすいません、ありがとうございます。どうですか、生活は? 慣れてきましたか?」
「ええ、まぁ……なんとか」
「困ったことがあれば、いつでも相談して下さい」
「……あの、困ったというか、変な話をしてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「僕の部屋に、女が居るんです」
田崎さんはニヤッと笑って、「彼女、できたんですか?」と返してくる。
「いえ、そうじゃなくてですね……。部屋の角に、女が立ってるんですよ。気が付くと」
俺がそう切り出すと、田崎さんはいつもの笑顔から一転して無表情になった。不気味に思ったが、話して楽になってしまいたい気持ちが勝り、それからは勢いに乗り、事の次第を簡単に話した。
しばらく無表情で黙っていた田崎さんは、俺の話を聞き終わるといつもの優しい顔になった。
「まぁ、仕事の疲れでしょう。 幻覚というか、夢というか。たまには休息も必要ですよ」
お土産ありがとうございます、と言ってから、ドアを閉められた。
やはり変な奴だと思われたのだろうが、そもそもこんな話誰も信じるはずがない。住人の中でも特に仲良くしてもらっていた田崎さんに理解されなかったことは割りとショックだった。
それからもしばらく、その女は現れ続けた。何をするでもなく、ただ、部屋の角にいるだけ。
次第に俺は、彼女が一体「何なのか」が気になってきていた。
数日後のある夜。寝付けなかった俺は、布団に入って携帯電話をいじくりまわしていた。
そろそろ寝ようかとしたとき、ふと女がいる場所に目をやると、女は最初現れたときのように壁の方を向いていた。
そして、ブツブツと呟きながら壁の方を向いている。気になってしまうともう眠れない。しばらく俺は彼女を観察していた。
すると、彼女とは違う声色でもうひとつ別の声が聞こえた。その声も壁の方から聞こえる。
彼女を観察しながら、耳を壁に当ててみる。聞こえてくるのは男の声で、思いつく限りの罵詈雑言。それもどうやら、俺に向けての言葉らしい。
「なんであんな奴の事ばかりを見る」
「僕には見向きもしなかったのに」
「隣のやつなんて死ねばいい」
「呪ってやる」
消え入りそうな涙声で喋っていたかと思うと、唸るように低い──まるで地の底から喋っているかのような声に変わったり、突如、怒鳴り散らしたりと、かなり不気味だ。
女はそれに相槌を打ちながら、諭すように壁を優しくさすっていた。
この壁の向こうは、202号室だった。
数週間後、新しい職場にも馴染めず、俺は再び引っ越すことになった。
仲介業者の人は何も言わず、ただ「大丈夫でしたか?」と聞くだけだったので、俺は何も言わなかった。
出ていく旨を伝えるために隣近所に挨拶に回った際、多くの方々は俺を心配していたようだったが、田崎さんだけは酷く機嫌が良く、気味が悪いほど満面の笑みで、その笑顔はいつもの優しい笑顔ではなかった。
今でもあの物件の201号室は、貸出されている。
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