第5話 雨宿りの魔法

 僕らは、信号が変わるのを待っている。

 午後三時を過ぎたが、この時間が一番暑いのかもしれない。僕は、タオル地のハンカチでそっと汗を拭う。


 地震の後に感じた頭の奥にかかる霧はまだ取れていない。


「先生、次はどこいくん?」

「ん? 次は、“ならまち”を歩くよ。」

「お〜、楽しみ!!」


 気分は完全ではないが、橘が喜んでくれているみたいなので、僕はこのまま予定しているスケジュール通り、ならまちに向かうことにした。


 ならまちに入ると、時代が一気に遡った気がした。

 多くの民家の間口が狭く、壁もそうだがその家の作り全てに歴史を感じる。

それに、「身代わり申」という赤い飾りを付けている家が多いのも風情をかき立てる要因だろうと思う。高畑町やならまちといい奈良には歩くだけで歴史を感じる場所が沢山ある。なんて素敵なんだろうと僕は改めて思っていた。


 僕らは、古都奈良の文化財の一つとして世界文化遺産に登録された元興寺を訪れていた。


 この元興寺の見所は、本堂の屋根だ。

 「行基葺き」と言われる屋根の中に飛鳥時代に創建された「法興寺」の屋根に葺いてあった瓦が使われているというのだ。そもそも、飛鳥時代といえば約千四百年も前なのだ。この時代の瓦がまだ今も実際に現役で使われているなんて、本当に凄い。


 僕は、カメラをその屋根に向けてシャッターを切る。そして、境内に整然と並べられた石塔に向けシャッター押していた。


 その時、僕の顔に雨粒が落ちた。


「あれ、雨だ。夕立かな…」


 本堂を見ていた橘が声を出す。


 雨粒はさらに強くなっていく。

 僕らは、本堂の軒下に逃げ込んだ。


「すぐ止むだろうから、ちょっとここで雨宿りするしかないかな」


 僕らは、二人で座って石塔に雨が落ちる様をただ静かに眺めていた。

 今日の雨は本当に静かだ。夕涼みとはこういうことなのだろうか。あれだけ暑かった空気が一気に下がっているような気がした。


 しとしとと降る雨音のリズムに同期するように僕の弱い心にもさざ波が立ってきているようだ。

 あれだけやりがいを感じていた教師の職をあんなに中途半端に辞めるなんて、僕はどうかしていたんだろうと思う。しかも、その後、自分で自分を責め続け、結局深い闇に三年もの間落ち続けていたではないか!?

たとえ教師には戻れないとしても、一度の挫折なんて乗り越えられるんじゃないだろうか!?もっとしっかりと前を向いていこう。


 僕は、これからの人生に明るい未来があることを漸く今日、ほんの少しだけ認識することができたのだった。


 橘の方といえば、彼女もただ黙って、雨音を聞いている。

 どんなことを考えているのだろうか?大学受験のことだろうか?それとも残り少ない高校生活のことだろうか?


 雨音を見つめる彼女の横顔から何故か僕は視線をずらす事ができなかった。


 その時、橘が僕の方に顔を向け話かけてきた。


「ねぇ、先生って、板書上手いよね。あと、話の組み立てが上手くてとてもわかりやすいよ」


 こんな自分を教師だと認めてくれていたのか、、。僕は申し訳なさと感謝で胸が一杯になっていた。


「先生は、独身っていうのは知ってるけど彼女さんとかいるの?」


 僕は思いがけない質問に返事が詰まる。


「いや、ず、ずっと一人だよ。そう、ずっとね」

「そうなんや。」


 橘は、また視線を石塔の方に戻すと、小声でつぶやいた。


「あとさ、今日の事、私、、絶対に忘れないと思う」


 僕はとても暖かい気持ちになっていた。


「そうだな。僕もきっと忘れない。今日は、ありがとうな」


 二人笑顔で頷く。

 僕らは雨音だけが響く静かな時間に包まれている。


 一体どれくらいの時間が経ったのだろう。

 夕立が去り、僕らがいた場所に優しい光が差し込んできた。


 頭の中の霧が少し薄くなったような気がした。ただ、まだそれがいったい何を意味するのかは分からない。


「さぁ、行こうか」


 僕らは、もちいどのセンター街を歩き、そして東向商店街を肩を並べて歩いて行く。


「ところで、橘の志望校はどこなんだ?」

「笑わんといてな?実は合格予想評価はDなんやけど、早稲田に行きたいなって思っていて……。だけど、そもそも大学行って何するかをずっとイメージできてなかったんよ。でも、なんかわかった気がする。ほんと、今日、先生と会えて良かった」

「そうなんだ。それは良かった。早稲田か、懐かしいな。色んな意味でとてもいい大学だよ。とにかく諦めずに最後まで頑張れよ」

「うん。今日はありがとね。お昼もごちそうさまでした。じゃぁ、私、帰るね」


 橘は、近鉄奈良駅に向かう階段を降りて行く。そして振り向きざまに僕にこう言ったのだ。


「先生!また明日ね!先生の授業一時限目だよね!」





 時計を見ると午前九時五十三分。

 大きな揺れを感じ、しゃがみこんでいた僕はゆっくり立ち上がり辺りを見渡す。

 一体なんだったんだ。さっきの揺れは?僕はどうしたんだろうか?もしかして、まさか夢を見ていたのか?夢にしてはあまりにも生々しい。


 雨音がまだ耳に残っている……。

 頭の中にあった霧は嘘のように消えていた。



「おはようございます」


 僕に話しかけてきた女性はどこか見覚えがあった。


「他の方はなんだか用事ができちゃったみたいで、遅れて来られるようです。途中で合流するってことでした」


 僕は、まださっきまで過ごしていた時間が現実なのか夢なのかまだ全く整理ができていない。


「やっぱりあのブログを書いていたのは先生だったんだね。写真を見て多分、ううん、、絶対先生だと思ってた」


 僕は、驚いた顔のまま、その女性の顔を見つめている。


「先生、元気でしたか? 私は、三年前の夏に先生と一緒に歩いたあの時間が忘れられなくて、いつかまた先生と偶然に会えないかなと思って、帰省したら必ずお寺を回っていたんです。まさかブログのオフ会で先生と会えることになるなんて……。私、今日凄く楽しみにしていました」



「橘、、、結花」


 僕は、漸くその女性の名前を口にする。

 いつも、僕のブログに長いコメントを書いて、さりげなく励ましてくれていたのがまさか橘だったとは……。


「あっ、もういつまでも先生って呼ぶのはおかしいよね。じゃあ、下の名前で呼ぶしかないか、、。えっと、祐介さんって呼んでいい? 祐介さん、これからもよろしくね」


 少し頬を赤くして差し出した右手を僕はそっと握る。


 僕の中にまだ残っていた小さな傷が一気に消えたような気がした。



終わり(第二章 奈良市高畑町 )

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