第3章 第9話 ドレスにさよならを 

 薄闇が帷のように訪れている廊下を、リヒトの背だけを頼りに突き進むと、彼はある部屋で立ち止まった。

 輝はリヒトの動きに合わせていたので、唐突に止まった彼に合わせ、呼吸を沈めるように足をそろえた。

 背後から見やったリヒトは、表情が見えなかったが、うすくくちびるを引き結び、何か静かなる決意を固めているような感情を抱いていることが感じられた。

 リヒトがゆっくりと銀製のドアノブに手をかける。

 そっと開いた扉は、草花の模様が褪せて縁取られ、見た目には重そうに感じるものだったが、リヒトがきゅっと引いて胸の前に持ってくると、かるさを感じさせた。

 そうして彼らは部屋の中へ足を踏み入れる。


「ハインベルグ……。ここは」


 輝は周囲を見渡す。

 飴色のクローゼットがいくつか置かれている部屋だった。古い時計のようにアンティーク製のある風格。

 リヒトはそれらを見渡すように首を回していた。


「ハインベルグ」


「ここは……ルドルフのドレスが住まう部屋」


 輝は息を飲んだ。心臓が一度止まったかのような感覚に陥る。血流に、氷水を逆さに流されたかのような。


「……へぇ」


「アキラ……僕は」


 リヒトはくるりと輝の方を振り向いた。金色の眉を寄せ、その蒼いひとみは水をたたえたように潤んでいる。錐か針で突けば、今にもまなじりから真水が溢れてくるかのようであった。


「僕は、過去と決別しようと思う」


 輝が目を瞠るのと同時に、リヒトは勢いよく両手を使ってクローゼットを開ける。

 ばん、という小君良い音が鳴る。

 自然の風にふれ、一度かたりとクローゼットのドアが揺れてたわむ。

 窓を開けてカーテンの布が室内にはためくように、クローゼットにしまわれた幾重ものドレスが、両腕を翼のように広げたリヒトを覆うようにはばたく。

 アンティーク調の色彩をしたドレス。ベルベットやシルクの素材が、暗く飴色に沈んでいるような異様な雰囲気の個室の中で、ひかりのレエスのようにひらひら、きらきらと輝いて見えた。

 リヒトもクローゼットを開けて驚いていた。


「嘘みたいだ……こんなに輝いて見えるなんて」


 輝からは死角になって彼の表情は見えなかったが、気のせいか肩が震え、それを右手で押さえて少し俯いているようだった。彼の白いうなじが、着ていたオフホワイトの白いシャツの襟から覗き、そこも発光しているようにうつっていた。

 リヒトははためくドレスたちを両腕でぎゅっと抱きしめて、しばらく顔を埋めていた。


「ルドルフ……」


 リヒトがつぶやいた小声は、布の織り目に溶けて消えてゆく。愛しい弟の名前。彼のかけがえのなかった名前。ルドルフが生前愛して着ていたドレスたちに、玲瓏なリヒトの音とともに、染み込んでゆく。

 リヒトはそれらを全て細い両腕で抱いて動こうとしたが、古い木製のハンガーにひっかかって取ることができない。リヒトが伏せていたまぶたを開け、右手のゆびさきを伸ばしハンガーからドレスを抜き取ろうとする。

 すると背後に微かな風が吹いた。

 はっとして振り返ると、輝が腕を伸ばしてリヒトの背後に立っていた。触れないように、近づきすぎないような距離だった。


「アキラ」


 輝は何も言わず、いつものポーカーフェイスでリヒトのゆびさきが絡め取ろうとしていたドレスを取ると、さっと己の腕にいくつかのそれを重ねた。


「これ持って行きてぇんだろ」


 輝がリヒトをまっすぐに見つめてこたえる。

 リヒトは数秒、うすくくちびるを開けて輝を見やっているだけだったが、やがて彼にひかれるように、クローゼットに残されたドレスを両腕いっぱいに抱えると、輝と共に部屋から廊下へと飛び出した。


「それ!」


 開け放した廊下の窓から、ひらひらとライトブルーの空を背景に、ドレスが舞い上がって落ちてゆく。一枚一枚大切に作られ、かつての主に大切に着られていたドレス。冬の空気を纏い、追い風にして散るように深いトウヒの森や雲の向こうへ、風をはらんで舞い上がって、リヒトの白い手や、古い屋敷から離れていく。乾かした洗濯物が、風に乗って勝手にどこかへ漂っていってしまうように。

 長い間囲っていた、籠の鳥を放つように。

 リヒトと輝は窓から顔を出し、その光景を見守っていた。


「ーーリヒト」


 輝がぽつりと呼びかける。


「ん?」


 ファーストネームでふたたび呼ばれたことに微塵も動揺を見せず、リヒトは振り向いた。

 彼の顔は、今まで見たこともないほど晴れやかで爽やかな顔をしていた。うっすら口角を上げて落ち着いた穏やかな顔をしていた。

 風が吹き、彼の前髪をさわりと揺らす。

 水色が、輪郭を染める。


「……後期試験。受けられなかった」


 リヒトが背でかるく腕を組み、眉を寄せる。まっすぐに輝を見やる瞳は、どこか悲しげだった。


「また二年生を繰り返すことになるね。あーやだやだ」


 リヒトは輝から体を逸らし、ふたたび窓の方を向くと、両手を組んでその上に顎を乗せた。くちびるを窄めて、タバコの煙を吐くように、ふうとひとつ息を空へこぼす。


「大学諦めんのか」


「いや、バーでバイトでもしてやり直す分の学費を自分で稼ごうと思ってる」


「……へー、えらいじゃん。俺も一緒に働こうか?」


「え?」


 リヒトは振り返った。両手を顎の下にふわりと重ねたままだった。

 青いひとみが、空に流れるひとすじの白い雲を、真横に乗せている。

 輝がリヒトへと一歩距離を詰めた。

 空に浮かぶ雲のような、晴れやかな笑顔をしている。窓からこぼれたそよ風が、彼の短い前髪をさらりと撫でた。


「俺も一緒に働いてやるよ。お前だけじゃ、そそっかしくてバイトにならねぇだろうし」


「アキラ……」


「友達と一緒にバーで働くってぇのも、楽しそうなもんだ。日本ではさぁ、高校のダチと、

時々一緒に飲み屋で働いてたんだぜ。こうビールのジョッキ両手に掲げてさ」


 笑顔で両腕をあげる輝に、リヒトはくすりと微笑んだ。そして窓から離れると、飛び去ってゆらゆらと消えて行こうとするドレスたちを切なげに見つめ、何かから取り払われたように背後の輝のほうへ足を向けた。


「アキラ……。僕は君と出会えて本当によかった」


 ぽそりとつぶやいた言葉は、薄闇の屋敷の中へ溶ける前に、シャボン玉のように輝の心に届いた。

 輝は少し首を曲げ、ただにかっと真夏の太陽のような笑みを見せた。

 しろく照り映えたトウヒの葉が、穏やかな笑みを浮かべたリヒトの背後にきらりと光った。

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