第3章 第3話 冬枯れる時

「さみっ」


 オリーブグリーンのロングコートの袷を、両腕をクロスさせて掴む。輝の履く黒のジーンズを叩くように、彼が歩くたびにひらひらと舞うそれはお気に入りだった。

 ファッションにはそれほどこだわりがなかったが、店内でこの鈍い色をしたオリーブ色に目を惹かれ、手に取ってひとさしゆびと親指でつまみ、枯葉色の光沢がさらりと浮かんだとき、これを着て大学内を歩く自分の姿を想像したのだった。枯葉舞うテラコッタ色の中を、脇に一冊の本を挟みながら、ゆったりと歩く。他愛無い話をしながら笑顔を交わし合って。

 ドイツに渡る前に、日本で出会ったこのロングコートに運命を感じた。纏うとどこか遠く離れた日本のうすく湿った空気が漂ってくる気がして、故郷に包まれているような気分にもなれたのだ。


(買ったのはちょうど3月の終わりだから、なんとなぁく春の桜の香りがするような気がすんだよな)


 濃い青空を覆う、けぶるような白い花弁。端から内側へ向かうにつれて、紅色が濃くなるそれらが、はらはらと散り、オリーブ色のコートの毛に舞い降りてつく様を想像した。


(卒業してドイツに残るか日本へ帰るかは、まだ決めてねぇけど、このコートを日本で纏えば、今度はそっちでドイツの花の匂いでも思い出すんかね)


 キングサリやマロニエの香りが、想像だけれど鼻先をくすぐった。

 輝はひとさし指でそれらを拭うように、鼻の下を撫でた。

 指先で握っていた袷から手を上へとすべらせ、襟首も深く抱きこむ。ぎゅっと目を瞑り、鼻から深く息を吐く。


「ふー」


 自分の体内から生まれる息があたたかで、襟が顔へと跳ね返すそれで、頬があたためられるようだった。心地がいい。


「はー、ねみぃ。今日1限だけのために大学来たようなもんだから、もう帰ってもいいかな」


 おっとその前に、図書館に寄って予約していた本が借りられるようになったか確認だけして帰るか、と気分を黄色のイチョウの木々に囲まれた図書館へと向けた。白い四角を、ミルクカフェ色の細い線で垂直に囲ったそれは、無機質でありながらもおしゃれで、古くから続いている伝統の品格を感じさせる。

 輝は図書館へ方角を定め、長い右足を伸ばした。オリーブから流れるようにブラックが覗く。


「ん」


 何かが彼のまるい額に当たった。

 短く刈った髪と同じ、黒いまつげは凛と上向いており、先端に当たった何かのせいで、瞼にぴりりとした痛みを軽く走らせた。輝は視界が一瞬虹色に点滅したのを感じた。

 秒を置いて、はらりと剥がれたものを目で追いかける。太陽のひかりに、逆光になったそれが日本でいつも春に見ていた桜の花弁のようにひらりと伸ばした手元へ落ちてくる。


「なにこれ」


 うすく開けたくちびるから、無意識に呑気な呟きが漏れた。

 1枚の紙だった。それも生まれたばかりの、真新しい白。

 ひかりが表へ当たり、そこに黒の印刷された文字で何かが書かれていることがわかった。


「へ?」


 書かれたものを確認するため、親指で掴んだそれを上下に押すように一度ひらりと振る。

 洗濯物を叩くようなその仕草に、普通なら自分でおかしくなってしまうところだったが、書かれていることへの衝撃で、それすらも気にならなくなってしまった。


「は……」


 内容は、リヒトについてだった。

 彼の過去の恋愛について、男と女どちらも含めたものが、まるで極悪人を嘲笑するかのように醜悪な文章で書かれている。

 輝の黒曜石色の眸に、文字が流れて消えてゆく。

 時が灰色になる。

 赤と金に色づいていた景色が一気に冬枯れた。

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