第5話 君との"おしゃべり"
その次の木曜日。彼が朝に回収できる様に、わたしは前日の夜には彼の家のポストにファイルを入れておく事にした。
そして、そこに小さい紙を忍ばせる。
『これからよろしく アオイ』
本当にそれだけ。ごく小さなメッセージを、柄にもなく緊張しながら、ファイルのポケットに入れておいた。
「気がつくかな、彼」
思わず独り言が漏れる。少し前のわたしなら、絶対に言わなかった事だ。
誰かへ宛ててメッセージを残すことも、それに気付いて欲しいと思う事も。
彼に読んでもらった弁論文もそうだったけれど、今までわたしは他人の考えで出来ていたような気がする。
本を読み、知識を身につける。それは大切な事なのだけど、一人ぼっちを深めるにつれて、わたしはそれだけに依存していた様にも思う。
他の人が考えたものを、空っぽの自分に当てはめて、自分がそうでない様に装っていたのかも知れない。
だけど、今こうして彼に宛ててメッセージを入れたのは、間違い無く自分の意思…書いた言葉も自分で考えたもの。
ようやくわたしは、一歩進めた様な気がした。
金、土、日。三日間はたちまち過ぎて、次の月曜日。
母さんがわたしのところへ、ファイルを持ってきた。それを開くと、表紙裏のポケットの中にメモ用紙が入っていた。
『君からのメッセージ、本当にありがとう。これからもよろしくね。一週間に一度のやり取りだから、その週にあった面白い事とか、色々と書けたらいいなと思ってる。先週は…ごめん、数学と英語の授業が難しくって、よく覚えてないや。受験生なのに、こんな体たらくだよ。それじゃ、また来週ね』
メッセージの下には小さく、『真太郎』と名前が入っていた。
「数学と英語ね…そんなに難しいとは思えないけれど…」
わたしは少し課題のファイルを見つつ、考えた。そして、しばらくしてペンを取ると、課題のプリントの問題を解きながら、それに小さく書き込みを入れる。
そして、メモ用紙にはこう書いた。
『最初の手紙から勉強の相談をされるとは思ってなかった。というか、中三レベルの勉強でそこまで悩むのは中々心配。というわけで、今回の課題プリントには、君向けに私なりの分かりやすい説明を付けておいたから、先生のところに持っていく前に見ておいて。一気に理解はできなくても、要点さえ掴めれば、やり易さも変わってくると思うから』
そして、カタカナで『アオイ』と名前を入れた。
いずれにしても暇なんだ。今までと同じ様なことをしながら、説明を書き入れるのもごく簡単な事。知識を身につけながら、自分の力で説明できる様になる。
わたしにとっては、その練習のつもりだった。
…まあ、せっかく手紙をくれたのだから、という気持ちがあったことは否定しきれないけれど。
さて、役に立ったかしら。
翌週の月曜日。父さんから渡されたファイルの中には、二枚紙が入っていた。一枚目には、
『ありがとう。おかげで本当に助かったよ。素因数分解とかの、根本がわからなくて。このままだと上の分野が全部わからないところだった。お礼してもしきれないよ。本当にありがとう』
二枚目には、
『ええと、今週あった面白い事はね…。水曜日の朝礼で、遂に校長先生がカツラだったことが全校に知られたことかな。あの人間違えて、普通に頭下げちゃって、カツラがポロンって落ちちゃったんだ。みんな大笑いだったよ。それじゃ、今週も良い日が続きますように 真太郎』
私が説明を書き込んだプリントには、なぜか先生の字で『very good』と赤ペンで書き込まれていた。もしかして、彼がその意図を伝えたのかしら。
まあ、別に良いか。わたしとしては、彼のお礼を書く時の生真面目さと、もう一枚のトピックを書く時の、子供っぽさのギャップがとても面白かったから満足だった。
「とはいえ、このレベルの問題も解けなくて、受験大丈夫なのかしら…」
余計なこととは分かっていても、ついつい心配になってしまう。
わたしは過去の数学の課題プリントから、何枚か抜き出すと同じ様に説明を少しずつ書き入れていった。或いは、手近のレポート用紙を持ってきて、類題や詳しい公式の解説も入れていく。おそらく一日では終わらないが、良い暇つぶしにはなるはずだ。
そう思った時、わたしは気がついた。どうしてわたしは、他人のことを『心配』しているのだろう。なんというか、彼と出会ってから、やけに自分の心が動きすぎている様な気がしてならない。普通なら、わざわざこんな手間のかかる事を、知り合ったばかりの人にしてあげはしないと思う。
…相変わらずそうしてしまう理由は分からなかったけれど。
そして木曜日の手紙には、こう書いた。
『校長先生の話のお礼に、君用の解説を課題に入れておいたから、見ておいて。少なくとも、このくらいの分野ができなかったら、とても高校になんて入れないよ。きっと君の事だから、三年はおろか二年一年の範囲でもうろ覚えの所があるんじゃないかな。と言うわけで、きちんとチェックしておいてね。それから、暇があったら他の課題プリントも見ておいて。君なら許してあげる。それじゃ、また来週 アオイ』
少し大きめのメモ用紙に詰め込んで。
「本当に、どうしようもないんだから…」
ごまかす様につぶやく。君が仕方ない人だから、わたしがやってあげている。その時わたしがつけられた、唯一の説明だった。
翌週、父さんがファイルを持って来た時、わたしは玄関先まで出てそれを受け取った。彼からの返事を楽しみにしていたという事には、もうとっくに気がついていた。
まだ友達になったとは思っていなかったけど、彼が返事を書いてくれることが嬉しくて、早く読みたくて仕方がなかった。
『わざわざとっても分かりやすい解説を入れてくれてありがとう。お察しの通り、僕は数学はさっぱりで…。小学校の頃からできないんだ。でも、おかげで頑張れそうだよ』
また二枚目。
『今週はそうだね…何故か先生方が結婚ラッシュを起こしてたよ。今週だけで三人の先生が結婚発表。どこもかしこもお祝いムードだった。特に保健室の先生は男子の憧れだったから、泣いてる奴もいたかな。僕も、彼女とか欲しいなあと思う日々だよ。今はとりあえず、期末に向けて訳もわからない勉強を続けてる。それじゃ、また来週にね 真太郎』
彼からのメッセージを読むたびに、わたしの中には嬉しさと、一抹の寂しさがよぎる。
わたしみたいな人にも、心からの言葉をくれる、温かい思いをくれる。それは本当に嬉しくてたまらない。だけど、彼の書く学校の話は、わたしの知っているそれとはあまりにも違うもので、どこか遠い国の話の様だった。
彼にとっては、学校とはさぞ明るくて、楽しいところなのだろう。彼の言葉を目にする度に、わたしと彼との…歩んできた人生と、立っている場所の隔たりがわたしに突きつけられる。
たった数メートル上には、彼が住んでいるというのに、心の距離は海の向こうよりも遠い。
変わっていく心の中でも、それだけは変わらずに、冷たい風を吹かせていた。
『役に立ったみたいでよかった。あと、先生方結婚おめでとう。君にもいつか、そういう人ができると思ってるから、まあゆったりやってけば良いんじゃないかな。後、数学を小学生から放置していたっていうのはとてもびっくりだよ。納得はしたけど。あと、今度できればどこが出来ないのか整理して教えてくれると嬉しい。説明とかを書くのにやりやすくなるから。それじゃ、勉強頑張ってね アオイ』
あくまで言葉はそっけなく。寂しさと嬉しさで揺れ動く心を悟られない様に。複雑で、わたし自身もわからないこの感情は、まだ見せられない。もしかしたら彼は、わたしの事を冷たい女だと思うかもしれないけれど、それはそれでいい。実際、わたしはそういう人間だから。
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