天奏楽士はこの旋律を空の彼方へ届けたい
国見 紀行
練習は独奏から始まる
1-1 無人のホールにて
少し薄暗いその場所は、三千人以上の観客を入れても余るほどの大きな
そこで一人の少年が、舞台から誰もいない客席に向かってトロンボーンの練習に取り組んでいた。
少年の持っている
練習曲と思われる旋律を時には優雅に、時には激しく吹き分け、音の始まりや終わりも綺麗な舌使いで整えられていた。個人練習にありがちなテンポが狂う息継ぎもなく、一定のリズムを保ったまま
曲が終わってからも、何度も楽譜を見ながら音程を確認しつつ、滑らかなスライドアクションに彼は自身の練習の成果を実感していた。
『うん、いいんじゃないかな』
場内の連絡に使われる響声管から声が響く。ここにいない誰かが少年に向かって話しているのだろう。
「じゃあそろそろ実践練習に入ろうよ、ティファ」
少年は、それが当然であるかのように響声管へ声をかける。
『わかった。まずはこれから』
声が止むと同時に少年の背後、舞台の裏側から
一つ一つの音が徐々に重なり、聞くに耐えない不協和音となるにつれ、それが周囲の空気の振動を巻き込み、客席の空間の一部が反転する。
反転した空間は周囲の光ごと音を吸い込み、音の化け物〝
「……この
少年は文句を言いながら、楽器を構えて背筋に力を込める。
『大丈夫。今のタクトなら丁度いいくらいに調律してるから』
響声管から声が止むやいなや、音怪が大音量で叫ぶ。
音怪はまず、舞台上にいる
タクトは練習通り勢いよく息を吸い込み、一瞬腹筋を強張らせた。一つの塊に変えられた空気が一定の速度と圧力を得て楽器へと流し込まれ、音怪に対抗する旋律となって音怪へと放たれる。
だが、双方の音はお互いへ届くことなく丁度中央辺りで
(あれ、音量が低かったかな?)
『油断しないで!』
音怪はその間も舞台に近づき、荒く細かいビートを刻んできた。
(それはもう覚えた!)
タクトは再度息を込め、乱れたリズムを正すように音を刻む。今度は消されることなく届いた音によって音怪は体の一部が維持できなくなり、バランスを大きく崩した。
『いい調子だね、今で半分くらいかな』
それを確認したタクトは攻勢に出た。
スライドを正確に動かし、相手の音に合わせた
だが、相手もその行動は折り込み済みなようで、崩れる体も構わずに迫ってきた。狙いは…… もちろん、楽器だ。
(これで、終わり!)
ありったけの息圧で吹き込まれた低音が、音怪に止めをさす。空間の歪みは綺麗になくなり、その場には少年の姿だけがぽつんと残された。
『ん~、85点』
「なんでだよ! ミスもなかったし、長い音も吹ききった!」
自己と他者との採点基準の齟齬に、タクトは楽器の唾抜きをしながら不平を漏らす。
『音の伸びが弱い。やっぱりまだ唇が振動を抑制できてないのかも。息だけ吹き込んだらいいってもんじゃないから』
タクトは言葉につまる。
「いや、でもさ。あの高い音を安定させるには結構息を使わないとだめじゃん?」
『指摘箇所がわかってるなら、どうすればいいかも分かるよね?』
「……はい、練習あるのみ」
しょぼくれるタクトに、響声管の声は楽しげに声をかける。
『うん、よろしい。じゃあ次の練習は……』
「ちょ、少し休憩入れようぜ?」
『だーめ。弱点や指摘部分が明確な間に基礎練習でつぶしておかないと、身につかないんだから』
こうなると絶対譲らないことを、タクトは何度も一緒に練習をする中で理解していた。こと、音楽に関しては厳しすぎるくらいなのだ。
『さあ、しっかり構えて。そんな構え方じゃあ手首を痛めるだけなんだから』
「わーかった、わかったって!」
タクトは姿勢を正し、楽器をしっかりと構えて、再び基礎練習を開始した。
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