第二編第九章第二節 メビウスの蹉跌(さてつ)

 防衛省A棟地下の中央指揮所に警視庁崩壊の報が入ったのは、深夜一時を過ぎたころだった。外敵の侵攻を前提としている有事法制を本件に使うことは本来できないものの、有事法制に準じ対策本部シチュエーションルームを設置することが決定されたのが事件発生直後。そしてその場所は、霞が関から唯一離れた危機管理官庁である防衛省に定められた。

 反乱に対処する緊急対策会議のために集まった警察官僚と防衛官僚はそのとき、それまで議論されていた諸々の案件が納まってようやく一息入れていたところだった。

 その案件とは第一に、対策本部の名称を『日本陸軍事件対策本部』にするか『陸上自衛隊反乱事件対策本部』にするか。第二に『令和表記』を使うか『西暦表記』を使うか。そして第三に、閣議決裁事項を『臨時閣議で処理するか』、それとも『持ち回り閣議で処理するか』だった。その間にも指揮所の警戒デフコンレベルは上がり続けていたのだが、一方で官僚達は省益と保身のために貴重な時間を出血させ続けていた。

 警視庁が崩れ落ちたという新たな情報は、交渉のイニシアチブを握っていた警察官僚を失意と動揺のどん底に叩き込んだ。そもそも警察は最初から、正規部隊の反乱に対応する能力など有していない。それに加えて警察の指揮命令系統が失われたことは、恭順派の自衛隊による『第二の治安出動』を事実上意味したからだ。

 そのとき、髪を七三に固めた一人の男が立ち上がった。自民党を離党して選挙を戦い次期泉内閣の防衛大臣に内定した、前国家公安委員長の後藤田ごとうだ正義まさよしだった。

「皆さん、何か良くないものがやってきます。明日が来て、明日が去って、また来て、また去って――」

 雲を掴むような言い草で、滔々とうとうと述べる後藤田。彼は警察官僚出身の衆院議員で、佐藤とは同期当選組に当たる。大学こそ違ったものの高校でも同期で、防衛省への出向時代も含めて佐藤とは因縁浅からぬ仲だった。

「このままではその繰り返しですが、好きにやらせておけばいい。どうせ白痴の話す物語です。勢いだけは凄まじいが、意味などなに一つありはしません。断固として治安出動を行い、これを殲滅せんめつすればよいのです。とりあえずは現内閣に治安出動を要請した上で、一刻も早い政権交代を行わねばなりません」

 そのとき、後藤田の隣に座っていた青年が手を挙げた。四月一日付けで警視庁警備部警備第一課に異動したばかりの係長、稲垣いながき聡一郎そういちろう警部だ。彼はと言えば、機動隊の運用担当者としてこの会議に招かれていたのだった。

「……後藤田議員。お言葉ですが私には、彼らが故・佐藤氏の遺した毒蛇サーパントの卵に見えます。人間の振る舞いには潮時があってしかるべきですが、彼らはそれを忘れている。佐藤優理也という個人に感化されて、道を踏み外しているのです。ですが反乱に参加した子供達は、まだ文字通りのに過ぎない」

「それで? 何を言いたいのですか、稲垣係長?」

「これは個人的な意見具申ですが、治安出動に当たっては警察比例の原則を徹底させ、過度の武力行使は謹んでいただけませんか? 少なくとも武山高の生徒については、佐藤氏に洗脳されているだけです。できるだけ刑事犯として逮捕し、更生を促したいと私は考えています」

 後藤田は手元の『防衛実務小六法』をめくり、自衛隊法九十条第三項の上で指を止めた。

「先制攻撃を禁じた海上警備行動とは異なり、危険性の高い重武装集団に対する先制攻撃が治安出動では認められています。警察比例と言いますが、彼らは既に警視庁を粉々にしている。敵は三個大隊から成り、戦車まで持っているのです。次期防衛大臣として、その提案には乗れません」

 穏やかだが、その口調には閣僚経験者としての威厳がこもっていた。

 ……やはり、通らなかったか。稲垣は机の下で両拳を固く握りしめたが、決して感情を表に出すことはなかった。

 と、警察から出向中の防衛官僚が、中央指揮所の会議テーブルに資料を配り始める。全員に資料が行き渡ったのを確認すると、彼はパワーポイントを使って説明を始めた。

「お手元の資料は、陸上自衛隊内に存在する改憲勢力、『自主憲法期成同盟』のメンバー一覧です。その領袖トップは前防衛大臣、佐藤優理也氏。彼女が、幹部候補生学校時代の同期を中心に結成した研究会です。現在、メンバーの多くは佐官に昇任しており、前大臣の人事介入で陸上総隊直轄部隊に多くが集中しております」

 後藤田は苛立たしげに万年筆をもてあそびながら、苦々しく吐き捨てた。

「……これが反乱の火種になるとは。まったく、佐藤前大臣もやっかいな忘れ形見を残してくれたものです。……内局はなぜ、この人事に気付かなかったんですか? 自衛官せいふくの暴走を抑えるのが、あなたたち背広組の仕事でしょう?」

「お言葉ではありますが佐藤前大臣はそれまでの先生方と異なり、陸幕との間に強力なパイプを持っておられました。それに内局が口を出せる幹部人事は、一佐以上に限られています。平成二十七年入校の佐藤前大臣の期には、まだ一佐に昇任した者がいないのです」

「……いずれにせよ、陸幕と内局には陸上総隊直轄部隊への佐藤派集結を見過ごした責任があります。正式に防衛大臣に任命されたあかつきには、この責任は明確にさせてもらいます」

 後藤田はそう告げて立ち上がり、薄暗い部屋の中で光る作戦パネルを見上げた。画面には永田町の地図が映し出され、議事堂と官邸の上に敵の反乱部隊が赤の部隊符号で表示されている。そして警察のシステムとデータリンクで繋がったパネルは、青で表示された治安出動中の自衛隊他部隊と機動隊が敵を囲んでいることを示していた。

 新政権にとって幸いと言えるのは本件が『一部陸自部隊の反乱』に過ぎず、陸自の大多数がシビリアンコントロールに従い恭順の意向を示していること。そして、海自と空自が全くの無風状態にあることだ。事態のイニシアチヴが警察から防衛省に移った今、全ての勢力を叩き込めば鎮圧は時間の問題だった。――ただ一つ、合理的判断能力を失った敵が核弾頭を炸裂させるリスクを除いては。


 会議の休憩時間を見計らい、稲垣は佐藤が自決した現場――A棟十一階の防衛大臣執務室を訪れていた。二・二六事件のあの日、稲垣自身も訪れた部屋だ。既に現場検証も済み、黄色いテープが入口に張られただけの部屋は無人だった。

 そもそも佐藤と稲垣の付き合いは、佐藤が稲垣の大学時代に『ユーラシア地域変動論』の非常勤講師として出向していたことに遡る。思えば大学時代、佐藤の選挙に陣営スタッフとして駆り出されたこともあった。

 ――絨毯のシミが、目に飛び込んでくる。佐藤が自決した際の血痕だ。稲垣はそれから目を反らせず、自然と膝をついた。

 その輪郭を指でなぞり、呟く。

「結果的にクーデターの一端を担った俺に、閣下を責める資格はないのかもしれません。ですが、これだけはお伺いしたい。……閣下はこれから、俺達にどれだけの子供を殺させるつもりなんですか? 閣下に感化された彼らは、疑うことの大切さも、人を愛することの意味すらも知らずに死んでいきます。純粋であればあるほど傷ついて、大人にもなれないまま散っていくんです。それが分かるから……俺は……」

 涙が落ち、絨毯に血痕とは別の模様を描いていく。

「……閣下。改憲のための戦いを起こしたかったのなら、他にいくらでも方法はあったんじゃないでしょうか?」

 稲垣はその場で立ち上がると、佐藤が命を絶った場所に向かい深々と頭を下げた。そして一本の菊をその場に置くと、振り返ってエレベーターへと戻っていった。

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