シビリアン・コントロール

東福如楓

第一編 PKO協力法に寄せる批判的検討

 ※本作はフィクションであり、作中に登場する実力組織・官僚機構・政治団体・人物・事件・法制・政党などは実在のものとは一切関係ありません。


 ……(前略)……これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。……(中略)……みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。……(後略)……


     昭和二十二年 文部省著作兼発行

     「あたらしい憲法のはなし」より


       ◆◆◆


南スーダン共和国 ジュバ近郊

平成二十八年一月十五日(日)


 昼間の猛暑が嘘のような、寒い夜だった。

 陸上自衛隊・第十一次南スーダン派遣施設隊の鈴木すずき峰夫みねお三等陸曹は奥歯に力を込め、隊内で『ラヴ』と呼ばれる四人乗りのRV型装甲車――軽装甲機動車のハンドルを握っていた。

 滲む脂汗に、メガネの鼻当てが滑る。鈴木は親指でメガネを直し、周囲への警戒を新たにした。仮にいま武装勢力の攻撃を受けたとしても、現行のPKO協力法、及び戦闘時の内規に当たる『部隊行動基準』上は指揮所の許可なしでの要撃ようげき、すなわち反撃ができない。二ヶ月前にも陸自の車両が簡易爆弾の被害を受けたばかりであり、鈴木は神経を張り詰めて前方の砂塵を見すえていた。

「……寒いですね。鈴木三曹、暖房を最大出力にしてください」

「は」

 バージニア・スリムをふかしながら後部座席で命じる迷彩服の女性は、新任で幹部候補生学校を出たばかりの佐藤さとう優理也ゆりや三等陸尉である。

 自衛隊の階級は旧軍用語を可能な限り排除するため、将校を『幹部』、その下の下士官を『曹』、そして最下級の兵のことを『士』と呼ぶ。幹部の階級は下から尉官・佐官・将官の三段階に分かれており、曹士と同様に頭につく等級の数が小さいほど階級は高い。

 佐藤が指定されている『三尉』の階級は三十名前後を率いる小隊長クラスの少尉に、そして鈴木の『三曹』は下士官である伍長に当たった。反撃や迎撃のことを『要撃』と言い換えるのも、軍事色を薄めるための苦肉の策ダブルスピークである。その一方で前線で部隊に命令を与える指揮所のことをCP――コマンドポストと呼ぶなど、米軍由来の用語を多く使う点も自衛隊の特徴だ。

 佐藤を長とするインド軍宿営地への連絡小隊は、十名ずつの『分隊』をそれぞれに乗せた人員輸送車――『高機動車こうき』二台をラヴの後ろに従えていた。ラヴに乗っているのは小隊長の佐藤三尉、小隊本部にただ一人だけ所属し雑用と小隊長の補佐を担当する操縦手の鈴木三曹、そして施設隊本部の特務により随行している防衛事務官・後藤田ごとうだ正義まさよし。以上二十三名が佐藤小隊の総勢だ。

 自衛隊では制服組と呼ばれる自衛官よりも『背広組』――つまり事務官の権限が圧倒的に強く、後藤田をはじめとする防衛省の高級官僚は自衛官が独断専行に走らぬよう事細かな監視を常日頃から行っている。ちなみに後藤田は警察庁から防衛省への出向組で、何の因果か佐藤とは神奈川県立横須賀高校時代の同期だった。

 鈴木が暖房の出力を最大にすると、佐藤は茶化すような口調で操縦席に語りかけてくる。

「鈴木三曹。貴方は小平こだいら学校の上級英語課程を出ているそうですね。インド軍との交渉は任せましたよ?」

「いや、それは指揮官である小隊長がなさったほうが……」

 自衛隊は階級社会であると同時に、資格社会でもある。車両を操縦するにも通訳をするにも、『特技』――いわゆる『モス』と呼ばれる資格が必要だ。

 鈴木の主特技である『上級語学』は東京の小平市にある陸上自衛隊小平学校で専門の課程を履修した准尉じゅんい以下の自衛官にのみ与えられる。陸自の英語課程には基礎・普通・上級の三つがあるが、このうち履修することでモスが付与されるのは上級英語課程だけだった。

「残念ですが、あいにくと英語は専門外です。貴方に一任――」

 ――刹那、鋭い轟音が大気を貫き、ラヴの背後の高機動車が軽く浮き上がった。ミラーを通し、オレンジ色の爆炎が鈴木の目を刺す。軍用車両を狙った地雷だった。

 次の瞬間、横合いからの乾いた銃声が立て続けに響く。武装勢力の襲撃だ。最後尾の無事な高機動車が急ブレーキをかけ、燃えさかる炎のかなたに停車した。鈴木は命令を待たず敵に向けてハンドルを切り、射撃が可能な位置でラヴを停めた。

「……な、何事だ、佐藤三尉!?」

 佐藤は後藤田事務官の問いを無視して後続車両に通信を繋げ、凜とした声で告げた。

高機二号車17高機二号車17。こちら指揮車15。被害状況応答求むおくれ!」

「こちら高機二号車17! 一号車16、走行不能! 行動可能な隊員は、車外への脱出を完了!」

 そうしている間にも、ラヴの防弾ガラスに敵の弾丸が何発もめり込む。佐藤が窓外を見ると、二台の高機動車も右側から激しい銃撃を受けていた。分隊員達は八九式小銃89Rを構え、車体の陰に隠れて命令を待っている。この状況だと、銃撃と地雷でかなりの負傷者が出ていることが予想される。

 サイドブレーキを引いた鈴木は操縦席を立って上部ハッチを開け、ミニミ軽機関銃を敵上方に向けて威嚇射撃した。

「敵性勢力、所属・数ともに不明! 移動目標多数! 小隊長、要撃許可を! 送れ!」

 通信機からの声に、佐藤は汗に濡れる手で送話器を握り直した。

 ……充分に想定していた状況だった。口にすることこそなかったが、指揮官としてどう振る舞うかの決意は固めていた。

 本来の法と行動基準では指揮所の許可が必要だが、待っている余裕はない。佐藤は後々の懲戒処分を覚悟の上で、確然と命令を発した。

「両小銃分隊射手、目標は敵散兵てきさんぺい! 各個に……っ!」

 間を置かず『射て』と命じようとした佐藤の口を、隣に座る後藤田がとっさに押さえた。彼は同時に送話器をもぎ取り、後続部隊に鋭く指示を投げる。

「待て、指揮車の後藤田事務官だ! 施設隊本部より付与された職権で、先の命令を撤回する! ……佐藤三尉、協力法と部隊行動基準で本小隊に認められているのは威嚇射撃だけだ。指揮所の許可を待て」

 どこで覚えたのか、後藤田は慣れた手つきで通信を指揮所に繋ぐ。その間にも、小銃弾の嵐が三台の車両を絶え間なく襲う。

指揮所00指揮所00。こちら佐藤小隊15随行防衛事務官・後藤田正義。現在、戦闘事案発生中。現地武装勢力から攻撃。要撃許可を申請。送れ」

 佐藤は口をふさぐ手を引きはがすと、淡々と申請を終えた後藤田に詰め寄った。

「後藤田事務官! そんな規則を杓子定規に守っていては貴方を守ることさえ!!」

 焦りを隠さない佐藤の声に、後藤田は唇を噛んで返した。

「現場の隊員が国家の意思なき駒である以上、国是と法制を曲げた独断専行は許されない。法が我々に犬死にを命じるのなら、その命題に殉ずることが法治国家の公僕としての務めだ」

 後藤田の言葉は、ある面では間違っていなかった。現に自衛隊において、自衛官は人というよりもモノとして『員数いんずう』で数えられる。だが……そこになまじ真実があったからこそ、佐藤は納得がいかなかった。

 人員もいる。武器もある。なのにが欠けているために、要撃だけができない。

 法制とは、国家意思そのものである。ならば南スーダンに彼らを派遣した協力法と行動基準こそ、戦後日本の望んだ理想の国防ということになる。

 ハッチの上では、今も鈴木が威嚇射撃を継続している。通信機からは、命令を求める部下の声が漏れ続けていた。

「く……貴方達は、現場の命をいったい何だと……」

 今の佐藤にできることは、一日千秋の思いで指揮所の応答を待つことだけだ。指揮所からの通信を示すランプが点滅したとき、はやる佐藤は送話器を奪い返して通信を繋げた。……だが指揮所の応答は、佐藤の期待を見事に裏切ったものだった。

佐藤小隊15佐藤小隊15。こちら指揮所00。現在対応を協議中。現時点での要撃は許可できない。全力で現状を維持せよ。送れ」

 スピーカーから返ってきた事務的な声に、佐藤は意を決した。去勢された祖国のために、部下をこれ以上危険にさらすわけにはいかなかった。

 窓から車両の外を覗くと、高機動車から降りた部下達が次々と敵弾に倒れていた。居ても立ってもいられず、命令を無視して要撃している者すらいる。

「……死傷者発生、現状維持不能。繰り返す、現状維持不能。終わり」

 佐藤は暗い車内で顔を伏せ、諦めたように指揮所との通信を切る。後藤田が何事かといぶかると、彼女は物静かな口調で呟き始めた。


「後藤田事務官。私達はではありません。残念ながら私は、貴方の命令をこれ以上聞けそうにありません」


「……なに?」

 後藤田が問い返す間にも、敵の小銃弾がラヴの後部装甲を弾いている。車両の裏に回り込まれている証拠だった。――事情は他の二車両も同じだろう。貴重な時間が出血を続けた結果、既に退路は失われた。

 佐藤は後藤田を思いきり突き飛ばすと、後続の二車両に通信を繋げて息を吸い込んだ。

「な! 何を――」

「両小銃分隊、及び指揮車機関銃手、目標敵散兵! 安心なさい、全ての責任は私が取ります!!」

「や……やめろ、佐藤三尉ッ!!」


「各個に射てッ!!」


 鈴木の操作する軽機関銃が、命令を待っていたかのように轟然と火を噴く。敵の跳弾がラヴの装甲を削り、火花を散らす。

 後藤田が慌てて指揮所との通信を回復すると、先ほどとは打って変わった怒鳴り声が聞こえてきた。

「……佐藤小隊15、こちら指揮所00! PKO協力法に基づき要撃を許可する。繰り返す、要撃を許可する!!」


       ◆◆◆


「これが……戦争……」

 佐藤小隊が全ての脅威を排除したのは、既に夜が明けようとしているころだった。

 最終的な戦死者は、二十三名のうち六名。指揮車での悶着がなければ救えたかも知れない命だった。

 佐藤の知る限り、彼らが南スーダン派遣部隊で初めての戦死者だ。傷ついた部下の手当を終えた彼女は、かたわらの後藤田に顔を向けた。

「後藤田事務官、貴方は……」

「官僚の仕事は、自衛官きみたちの暴走を抑止することにある。本職は自らの立場を全うしただけだ。非難を受けるいわれはない」

「……東大で条文や判例は学んでいても、現実と虚構の区別すら教わっていないようですね。ホワイトカラーの事務屋さんには、命を張った自衛官わたしたちの覚悟などはじめから分からないと思いますが」

 これ以上、この男の近くで同じ空気を吸うのも嫌だった。佐藤は後藤田に背を向けると、どこへ行くでもなく歩き出した。

 ……部下達の死は、既に指揮所の知るところとなっている。そして彼女は、事件を把握した防衛省が取るだろう解決策を充分に理解していた。


『南スーダン派遣部隊における事故死 六名』


 そこには戦死という名誉も、伝えられるべき真実もない。ただでさえ日陰者の自衛隊が戦死者など出しては、今後の『国際貢献活動』に差し障る。そのためには、事故死ということにして真実を封印してしまうのが一番いい。

 断言しても良い。これから自衛隊がどれだけ活動を続けようと、他国の軍隊で何名死のうと、自衛隊から『戦死者』が出ることは絶対にない。なぜならその事態は、自衛隊の権限拡大を望む防衛官僚の意に沿わないからだ。

 自衛隊では全てにおいて、政治的判断が現場の軍事的常識に優越する。

 歩兵ではなく普通科、兵器ではなく装備品、行軍ではなく行進、軍手ではなく手袋、上等兵ではなく陸士長、軍靴ではなく半長靴はんちょうか

 『軍』と『兵』の二文字を奪われた、栄光もいさおもない悲劇の軍隊。そこに武人はいてもよいが、決して『軍人』がいてはならない。……自衛隊という組織は、そういうところだ。

 佐藤の膝が自然と折れ、力なく地面に手をつく。胸の奥から暗雲のように込み上げる激情に、彼女は涙を流しながら慟哭どうこくした。

「うあ……あああッッッ!! 石馬いしま一曹! 山本やまもと一曹! 田中たなか三曹! 石森いしもり士長! 竹中たけなか士長! 西原にしはら士長! 申し訳……ない……ッ! 申し訳……ありません……ッ!!」

 魂の大事な部分が、ボロボロと胸からこぼれおちていく。命を賭けた自分達の活動はいったい何なのか。国家から正当な扱いも受けられない自衛隊とは何なのか。ぶつけようのない義憤が、彼女の脳裏に渦巻いていた。

 と。横に立つ気配に、ふと顔を上げる。そこにはハンカチを手にしたラヴの操縦手、鈴木三曹が立っていた。

「……小隊長。戦死した彼らは、公式には……」

 自分の考えをそのまま見透かしたかのような問いかけに、佐藤は驚いて立ち上がる。鈴木は何も言わず、ハンカチを佐藤の手に握らせた。

「……そうですか。どうやら貴方も、私と同じ結論に達したようですね」

「はい」

 その一言だけが、事の核心を示していた。佐藤は目元の涙をぬぐうと、砂埃で汚れたハンカチを乱暴にポケットに押し込んだ。

 佐藤は許せなかった。ここまで分かっていながら、部下の名誉を守れない自分が許せなかった。哀れむような目で自分を見る鈴木のことも、許せなかった。

「鈴木三曹、何をボケッとしているんですか……っ!? 貴方の同僚が、仲間が、私達の目の前で死んだんですよ!!」

 思考が弾けるのに任せ、鈴木が着る迷彩服の襟を強く掴む。だが鈴木はゆっくりと首を振り、穏やかな声を夜明けの冷気に乗せた。

「小隊長。悔しいですか? 部下の死を弔うこともできない我が国の戦後体制が、憎いですか?」

「ええ。悔しいです。憎いです。貴方だって、それは同じでしょう?」

「無論です」

 冷静な鈴木の声に毒気を抜かれ、佐藤は鈴木の襟を離す。ふと視線を落とすと、鈴木は表情を変えずに握り拳をわななかせていた。

「小隊長。たとえ自分が今から幹部になったところで、天井は知れています。ですから――」

 そこで鈴木は口ごもった。無言で続きをうながす佐藤に、鈴木は訥々とつとつと語った。

「小隊長は上を目指して、我が国に巣食った病巣を取り除いてください。自分らの自衛隊を、常識的な国家に相応しい軍隊にしてください」

「病巣を……取り除く? 本気ですか? 荒療治になりますよ?」

 ふう、と呆れたように息をつく佐藤。だが鈴木の視線は、真剣そのものだった。

「はい。ですが自分はそのためなら、どこまでも小隊長にお供いたします!」

 鈴木はそう言って佐藤に向かい、敬礼を示した。

 佐藤はしばし押し黙り、スッと敬礼を返す。

「その言葉、ゆめゆめ忘れないでください。私はこう見えても執念深いので、契約不履行は許しませんよ?」

「――はい、小隊長」

 鈴木の返事を聞きとげると、佐藤は手を下ろし鈴木に背を向けた。物腰こそ普段と変わらず柔らかかったが、その瞳には深く静かな闘志が宿っていた。

「分かりました。では最初の命令です。……この『戦争』を生き延び、無事に日本に帰ってください。じの指示は、追って伝えます」

「はい」

「私はこの瞬間から、鬼になります。人の心を捨てた、修羅になります。ですから鈴木三曹……時が満ちたなら、私の背中を守ってください」

「……了解、しました」

「今にして思えば、今回の戦闘は天啓でした。神は私に、なすべき務めを与えられたのです」

「天啓……ですか?」

「ええ。敗戦の日以来、我が国は欺瞞に溺れてきました。捨て去れるはずもないのに、軍事力という禁断の果実から目を背け続け、国家の安全保障は停滞を余儀なくされてきたのです。――ですが時代は変わりました。我が国はもはや、自衛隊という張り子の虎では立ちゆかなくなっています」

 昇り始めた太陽を背に、佐藤は頬を歪めてかすかにわらう。

「ですから。私は、この国の『戦後』を壊します。その義命ぎめいのもとに、私は戦死した部下達への償いを果たそうと思っています――」


       ◆◆◆


東京都練馬区北町

令和七年八月八日(金)


 都心では年々寂しくなる蝉しぐれも、この街ではいまだに夏の風物詩で通っていた。近くに第一師団の司令部があるからだろうか、行き交う人々にもチラホラと制服姿が見える。

 電車の中では奇異の視線に晒されていたが、駅を降りてからは気に留められることも無くなった。これは日本全国問わず、自衛隊の大規模施設がある街の特徴だ。

 開襟の夏用第三種制服に身を包んだ二等陸尉・鈴木峰夫は、正帽せいぼうを脇に挟むと目の前の一軒家の呼び鈴を押し込んだ。玄関脇の表札には『石馬いしま』と縦書きの楷書で彫られている。『少々お待ちください』と応答があり、しばらくすると学生服の少年が扉を開けた。


「この度はご母堂のご不幸、誠にご愁傷さまでした。通夜にも葬儀にも顔を出せず、申し訳ありませんでした。……お納め下さい」

 鈴木は仏壇の前で長々と経を唱えると、手にしていた書類鞄から香典を差し出した。

「お忙しい中、ありがとうございます」

 少年は手を合わせ、丁重な手つきで香典を受け取る。近頃の子には珍しく、しっかりしている。父親を亡くして育ってきたからだろうか、幼いながらも既に家族を守る男の面構えをしていた。

 この家に住むただ一人の住人、石馬いしま晃嗣あきつぐは中学三年生になる。自衛隊南スーダン派遣開始のころに産まれたと言うから、光陰矢のごとしと言うほかはない。

 鈴木は南スーダンから帰って以来、戦死した六名の家を毎年夏に回っていた。多くの場合は、当時の戦友と連れ立っての訪問だ。だが先方から固辞されることも多くなり、最近では石馬家を含めて三名の家しか訪れていない。個々人で温度差はあるものの、あの小隊の人間は多かれ少なかれそうやって戦死者に礼を尽くしていた。

 むろん、あの現場で何が起こったかなど言えるはずもない。小隊で生き残った全員が、他言無用のむね防衛省かいしゃから一筆取られているからだ。

 だが、今日は事情が違う。小隊の分隊長だった石馬いしま敏光としみつ一曹の子息は、母親の急逝によって孤児になった。聞けば、まだ十四歳だと言う。彼をそんな境遇に置いたのは、当時あの場所にいた自分達の責任だ。その自責の念が、鈴木に覚悟を決めさせた。

「晃嗣君。実は今日、自分はご母堂の件ともう一つ、お父上のことでお話があって参りました」

「父の……? 何でしょう、鈴木二尉?」

「端的に言います。父君の死は事故死ではなく、戦死でした。……今はまだ、それだけしか言えません」

 和室に染みた静寂に、西陽があかね色の影を落とす。蝉の声に押されるように、少年は正座したまま重い口を開いた。

「戦死……? どういうことですか、鈴木二尉?」

「自衛隊からは事故死と伝えられたと思いますが、実際は戦死だったということです。初めから交戦が存在しなかったものとして扱われ、それに伴って現実の戦死も書類の上で事故死として処理されたのです」

「処理って……そんな! 人の命をモノみたいに!」

 膝の上の拳を握りしめ、少年が声を荒げる。一息にそう言い終え、ぎり、と歯噛みする音が鈴木の耳にも届いた。

「残念ですが……それが自衛隊の、そして戦後日本の現実です」

「なら! 鈴木二尉はなぜ、そんな自衛隊に残ってらっしゃるんですか! 死んだ人の名誉より、自分の生活が大事なんですか!?」

「自分にはまだ、自衛隊でやらなければならないことがあるからです。果たさなければならない約束があるからです」

「……やく……、そく?」

「はい。今はまだ子細は話せませんが、自分らとて、ただ口をつぐんでいたわけではありません。利己的な動機で他者の口を封じる者は、いつか手痛い代償を支払うことになります」

「……」

「自衛隊に失望しましたか、晃嗣君?」

 言葉では答えず、少年はゆっくりと首を横に振った。

「……真実が隠蔽され、父の死から名誉が奪われたことは確かに許せません。それでも俺は、父の生き様が正しいものだったと信じています」

 少年は膝を動かして姿勢を直すと、鈴木をまっすぐ見つめて続けた。

「俺は母から、父のことをずっと聞かされて育ちました。その父が南スーダンで命を捧げたのだとしたら、父が守ろうとしたものは、そして自衛隊の任務は間違っていなかったのだと思います」

「そう言って貰えると、自分も救われた気分になります」

「母が亡くなって色々考えましたが……俺、自衛隊に入ろうと思います。武山たけやま高なら、中学を出てすぐ入れますから」

「……武山高に?」

「はい。父の生きた意味を知ること。父の背中を追いかけ、それを乗り越えること。それが子としての、俺の義務です」

 背筋を伸ばしてそう告げる少年は、まるで時代劇に出てくる武家の跡取りのようだ。

 鈴木は「そうですか」とだけ呟くと、鞄から名刺入れを取り出した。そして中から一枚抜き出し、両手を添えて少年に差し出す。

「申し遅れましたが、八月一日の異動で所属が変わりました」

「……陸上自衛隊武山高等学校……奇遇ですね」

「はい。今は三年生の区隊長を……訂正、クラス担任と言ったほうが分かりやすいですね。卒業を控えた三年生は、階級的には陸士長になります。受験を希望するなら、その名刺を持って近くの地方協力本部に行ってみるとよいでしょう。悪いようにはしないはずです」

 鈴木は出された冷茶を飲み干すと、鞄を持って立ち上がった。

「さて。いただちで恐縮ですが、そろそろおいとまいたします」

 玄関を出る鈴木を見送る間、少年は何も言わず深々と頭を下げ続けていた。真夏の残照に目を細め、鈴木は駅への道をゆっくりと歩き出した。

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