DAY.10:「眠るまで隣にいて?」

 すがるような、悲痛の混じった声色だった。


 俺の心の奥深くにある、湖畔の水面が揺れる。


「一年前、荷物持ちをした日に話しましたよね。俺の家は父子家庭だって」

「言ってたね」

「最初から二人きりだったわけじゃないんですよ。俺が小学校低学年の時に、母親は家を出ていきました」

「……そうなんだ」


 家庭の事情を誰かに教えるのは初めてだった。


 口に出して、他者に観測されてしまったら、自分がみじめだと実感するから。


「その日、俺は熱を出して学校を休んでたんです。家で母親と二人っきりで、今日の沙也さんみたいに看病してもらってました。俺はお昼にキッチンでおかゆを食べて、自分の部屋のベッドに潜って、寝るまで母親がずっとそばにいてくれました。その安心感と満腹感で、五分もしないうちに眠りにつきました。そして次に目が覚めてから、二度と母親には会えませんでした」


「……どういう、こと?」


「俺もびっくりしましたよ。最初は夕飯の買い出しにでも行ったんだと思いました。でも夜になっても戻ってこなくて、父さんが帰ってきてからも、次の日になっても、一週間たっても、ずっと……」


 ざわざわと、小さな波が生まれる。


「後で聞いたんですが、その二年前くらいからずっと仮面夫婦状態だったらしいんですよ。俺の前でだけ明るい夫婦を演じていたみたいで。母親はそれが辛かったんでしょう。思い返してみれば、あの人は時折ふと窮屈そうな表情をすることがありました。自分の意志をはっきり表に出すタイプじゃありませんでしたし、ずっと我慢してたんですかね。だから父さんが仕事で家を空けて、俺が病気で寝込んでいる今が逃げ出すチャンスだと考えたのかもしれません」


 つい自嘲気味な口調になってしまう。母親を決して悪者にはしたくなかった。


「俺がもっとあの人に愛されるような優秀な息子だったら、置いていかれることはなかったのかもしれない。いつかは俺が仲介役になって、夫婦仲の改善に役立てたかもしれない。母親はもう戻ってこないけれど、勉強を頑張ってきちんとした仕事に就けば、こんな風に自分を責めることもなくなるかもしれない。そんな打算こそが、俺の受験勉強のモチベーションです」


 首をベッドに向け、俺は安っぽい笑みを浮かべようとする。


 だが、瞳に涙を溜めた沙也さんを見たらとても笑うなんてできなかった。


 あれ、うまく声が出ない。鼻の奥で何かが引っかかって、ツンとする。


 さざ波が膨れ上がり、津波となって俺に襲い掛かる。


「……その日から俺、ずっと熟睡できなくて。母親に捨てられたことを思い出すと、また置き去りにされるんじゃないかって、眠るのが怖いんです。あの人はどこにもいないのに」

「うん」


「だから俺っ……沙也さんのことを心配するフリして、自分に重ねているだけなんです。沙也さんにも仕事の都合があるのに、俺、いきなり怒ってノートパソコン取り上げて……」

「うん」


「迷惑をかけているのは俺の方だ。一人で休んでいた方が落ち着く人だっているのに、勝手に押しかけてごはん作って居座ろうとして、本当は俺が寂しかっただけだ……」

「うん」


 堰を切ったように言葉が次々と溢れてくる。目じりから滴がぼたぼた零れて止まらない。こんな個人的な事情を聞かされて、ありがたがるヤツがどこにいる。ましてや沙也さんは病人なのに。


 目元が覆われる。


 沙也さんが、パジャマの袖で俺の涙を拭いてくれる。


「いいじゃない。自分のためだって」

「え?」


 波が静かに引いていく。


「私が助かってるのは事実なんだから。それに、自分のためだけじゃないでしょ」

「それは……」

「自分のためだけに、わざわざアルバイトを休んだりなんかしないよ。キミは痛みを知っているからこそ、私に優しくしてくれた。それが嬉しくないわけないじゃない」


 沙也さんの左手が、俺の左手に連結される。


「だから私も今日はワガママ言うね。眠るまで隣にいて?」


「……夜ごはんも作っていいですか」

「明日の朝ごはんも一緒がいいな」

「俺が寝込んだら看病してくれますか」

「仕事を休んで付きっきりでお世話するよ」

「やっぱり悪いので自分でなんとかします」

「……えへへ」

「……はは」


 湖畔の水は、一面に青いシーツを敷いたように凪いでいた。



 手をつなぎながらの勉強は、決して効率が良いとは言えなかった。それでも隣から聞こえてくる寝息が心地よくて、安心して、勉強疲れを忘れることができた。



 その日の夜は一時間だけ、いつもより長く寝た。

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