DAY.2:「意外と積極的なんだね」
「はっ?」
いきなり何を言い出すんだ、この人は。
「だって私ばかりくんくんするのも申し訳ないし。ほら、おあいこってことで」
「おあいこってそういう意味でしたっけ」
「いーからいーから。おねーさんの胸に飛び込んでおいで」
両手を広げ、受け入れ体制の沙也さん。抵抗したところで、俺の顔を無理やり自分の胸に押し付けてきそうだ。ここは素直に従っておくか。
「じゃ、遠慮なく」
肩と首の中間、ふわふわショートの毛先あたりに顔を近づける。
「えっ、首の方……?」
嗅ぎ慣れたシャンプーのにおいが鼻腔を通過する。リンスかもしれないけど。
とろんとした甘さに、脳がくらくらする。
「っ、近いよ……」
今まで強く意識したことはなかったが、体臭とは単一のにおいから成るものではないらしい。洗髪剤とは別の何かが、この独特の甘ったるさを醸し出しているのだ。
「……汗か」
「えっ?」
奥に隠れているのは、汗のにおいだ。
「もしかして私、汗臭い? ……ひゃっ」
沙也さんの首の反対側に腕を回し、強引に近づける。
「ちょ、ちょっと」
臭いとはまったく思わない。むしろいつまでも感じていたいくらいだ。目の前には真っ白な首筋と露わになった肩。もっと奥まで鼻を近づけてみたい。
嗅ぐ場所を首から肩に移そうとしたところで、沙也さんに両手で顔を押された。
「も、もうおしまい!」
そのまま俺はベッドの上で転がされ、壁と目が合った。そして背後から両手が回ってきて、腰をがっちりホールドされる。
「キミ、意外と積極的なんだね」
「何がですか?」
「しかも無自覚だし……。今日はこのまま寝ます」
「はぁ」
怒っているわけではなさそうだが、照れ隠しのようなぶっきらぼうな声色だった。
「……」
「……」
壁掛け時計のチクタク音だけが響く。
「背中、おっきいねー」
「そうですか? 高校生なんてこんなもんですよ」
「抱き心地とか、非常に良いと思います」
「その、ブラウンも同じくらいのサイズなんですか?」
「さすがにもっと小っちゃいよ。一メートルもないくらい」
「充分デカイですけどね」
「あーあ、早く帰ってこないかなー」
「……そうですね」
「……ブラウン……」
愛する者の名を呼んだのを最後に、沙也さんは寝息を立て始めた。
「よっぽど大切なぬいぐるみだったんだな」
いつも一緒にいるのが当たり前だったものが、ある日突然、目の前からいなくなる。それはとても悲しいことだ。遺された者は感情の行き場もなく、嘆くことしかできない。自意識過剰なことを言うなら、沙也さんは俺という代わりの存在を早々に見つけられて、ラッキーなのだ。
「……うわ」
俺、ブラウンにちょっと嫉妬してるよ。
☆ ☆ ☆
合倉家で迎える、何度目かの朝。
起きるのはいつも俺の方が先だ。隣にある安らかな寝顔を一分ほど眺めてから、ゆっくり肩を揺らして起こすのが日課になりつつある。
しかし今日は、やけに寝床が広く感じた。
目を覚ますと、ベッドには自分一人しかいない。
俺は慌てて跳ね起きた。室内を見回すも沙也さんの姿はない。
「沙也さ…………ん?」
焦げ臭さが、鼻の両穴をねじりながら侵入してくる。俺はリビングと廊下をつなぐ扉を開け、キッチンに向かう。
「あ」
「げ」
沙也さんが握るフライパンには、かつて卵と呼ばれていた炭が燻っている。
「これは、目玉焼き……でしょうか」
「あ、あはは。その、火加減がちょっとだけうまくいかなくて……」
IHコンロの横にある大皿には、いくつもの真っ黒な失敗作が積み重なっていた。
「今日はたまたま早く目が覚めたから、いつものお礼に朝食を作ろうと思ったんだけど……」
声がどんどんしぼんでいく。キッチンの周辺は整理整頓されていて、というか綺麗すぎて、普段は料理をしていないのだろうということは容易に想像できる。調味料の類も見当たらない。そもそも毎日終電まで働いて、食事はきちんととっているのだろうか。
率直に申し上げるなら、この目玉焼き・ブラックで元気が出るのは蒸気機関車くらいだ。人間の胃にくべようものなら、行き先はトイレ一直線である。
とはいえ、誰かが自分のために手料理を作ってくれるなどいつ以来だろうか。
俺はサクサクの目玉焼きをひとつ手に取り、口に放り込んだ。
「あっ……!」
刃となった白身に口腔を傷つけられぬよう、慎重に咀嚼する。
がりがり、ごくん。
「ギリギリ黄身が残ってるんで、いけます」
それが俺の答えだった。
「サドーくん……」
料理は愛情だという。だからこの料理が不味くなるはずがないのだ。ひとまず換気は必須だけど。
それにしても、家じゅうとにかく焦げ臭い。まるで焦土が複数存在しているような……。
嫌な予感がして、俺は冷蔵庫の上に目をやった。
オーブントースターの中で、食パンという名のブラックボックスが硬度を高めている真っ最中だった。
「……トーストエッグにしようとしてたの忘れてました……」
沙也さんが目を逸らし、引きつった笑みを浮かべている。
俺は、自宅の薬箱に胃薬があったか記憶を探ることにした。
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