裂果

杜松の実

裂果の如く

 茅蜩ひぐらしだ。風死せる夕影の土間に二人の男が立って居るのを知らず、ただかなかなと鳴く。彼らは屋敷を潮気と砂粒から守る木立に掴まり待っているのだ。これが明治最後の夏となるやもしれぬと、暗に歌うのだろう。

 二人の男はその美しき声々に一斑いっぱんの情も当てていない。男は背にして包丁を研ぐ。ここからでは、かなかなはやや遠い。しゅきしゅきしゅきしゅきしゅき。ひたと止んだ。男は水瓶に浸かった柄杓ひしゃくを引き抜き、砥石へ浴びせる。西からの光線は入らぬが真暗ではない。眼に捉える事かなわざる限り無き矮小な行燈あんどんが、外から陽明ようみょう携え助けと思うて漂う程に、殊勝しゅしょう仄明ほのあかるさが戸口をき交う。少年はこの僅かの明かりを頼りに男の背を見詰めている。物言わぬ眼は、今日で大人に成る積もりか可愛らしく灯る。再び研ぎ音が鳴る。

 少年がつばを呑み込むその些細な表皮のうごめきに、顳顬こめかみした汗粒がなりを崩して一息に顎まで下って離れる。雫は雫のまま垂線を通下つうかし、大気と接する境界面は光彩として震える景色を持つ。地に触れる事は四散する事を意味し、殊更ことさら微々たる砂塵を伴う破裂音が男の耳に伝わった気がする。それは少年の息吐く動作に開けた唇の気泡かもしれない。

 両者声を発さぬみぎりを沈黙と称する事あたわず。語ると決めているからには冗長たる時嵩ときかさと見ては、手落ちか不遜を預かり、無調法者とのそしりを免れぬだろう。このは話のおこりである。いよいよ少年の腹が座った処へ、いた言葉は翻然ほんぜんと婉曲な態度をしてしまう。

「河田さん、はどうして僕なんかに優しくしてくれるのですか」

「なんか」

 男は寸隙すんげきも挟まずそう言い、刃を向くつらは口許だけが動く。平に凡庸なる調子からは如何いかなる気色けしきを汲むいわれも無く、それでも背を透る声の字義に少年は呵責かしゃくを受け取る。

「すみません」

 陽は陰る。干潮ひしおの如く、色彩は戸口へ退き光学的干潟が姿を現す。茅蜩ひぐらしはまだ鳴くか? 男はかろうじて人だと分かる程度に輪郭を残し薄闇に溶ける。何時いつの間にやら研ぎ音はしない。不動の妙致みょうちとしての男の背は、墨池ぼくち泡沫うたかた一つ一つ弾けるまにまに、動かぬ為に捉えられぬ事一入ひとしおである。それは時の凍結を思わせる。手を伸ばし絶対零度に触れる刹那せつな、不滅の永遠に組みするうれえを少年に予期させているのだ。「あの」と震わせた喉が果たして「あの」の形をしていたかは、既に過去と変じてしまっては分からない。

 男が振り向く。全く日常使いの立ち居振る舞いに、能にまつわる幽玄ゆうげんが忍ぶるは、二人の心持が構造させる矛盾である。天の一点がもたらす光と異なり闇は土間の隅、戸棚の下、衣服の内とそこかしこより始まる。少年はそれら闇の濃淡の中に男の鼻筋を見付け、次第次第に眼、口と分かる積もりになる。濃淡の口が開く。

「ごめん。少し考えていたので。初めは、優しさなどでは無く当たり前の事をしているだけだと答えようとしましたが、めます。やはりこれは君に向けた優しさです。だからどうして、という事でしたね。それは、僕には君に優しさが必要だと気付けるからなのです。優しさは当たり前じゃない。でも、これ迄の君の周りの人たちが、君に優しくなかった訳ではありません。知らないのです。分からないから優しく出来なかったのです。

 ……僕も人を傷付けた事があります。君と違うのは、僕は人を傷付ける事を楽しんでいました。すみません。驚いたでしょう。僕を最悪から引きり出してくれる先生がいました。僕が如何に最悪だったか分からせてくれました。人にそんな事が出来る人間ですから、普通にしたって話なんか聞きません。先生は随分付き合って下さりましたよ。――。卒業後、僕は街を逃げ出しました。

 君は僕とは違います。君は人を傷付けながら自分の事も傷付けているでしょう? 不安で怖くて落ち着かなくて、それ以外の遣り方が分からなくて人を傷付けている。僕にはそう見えました。気付いたからには、どうにかしたいと思うんだよ」

 男は暗い中で固まっているにもかかわらず、黒眼くろまなこに光が宿り表情の機微きびさえ知らせる。少年の眼が単に闇に慣れただけかもしれない。こずえを揺らす風が硝子窓がらすまどたたき、鳴く虫は鈴虫に変わって間断あわせ、りいんりいんと響く。暗いね、と歩む男の端は再び闇に溶け、少年は気配で以て左へ行くのだと分かる。

「おや、今夜は月が綺麗ですね。どうぞご覧なさい」

 と電灯を点け手招きをするも、最早もはやそこに先程表れた幽玄は潜んでいない。男は蝶番ちょうつがい軋ませ窓を開ける。少年が見るは、東の夜空にたたず赤銅しゃくどうを静かに帯びる満月である。男は食い入る少年を放って台所へ戻り、砥石に置かれた包丁を取り上げ反射光から具合を確かめる。

 紫煙しえん程の雲がかすめ、月が波間に揺蕩たゆたう風情をつくり出す。そう思うそばから雲は刻々と姿を変えて見せ、概して名月をくすぶらせる。ついぞ少年の気を引いた組み合わせを又と表する積もりは無い様である。

「うん。良さそうだ。これで切れると思うよ」

 呼び戻されて少年は包丁を受け取りトマトに当てる。切り口は理想的な平面となり、どのへやのゼリー果汁も崩れていない。皺がにじむ事無くほんのささやかな抵抗の末に皮が割れると、果肉は断たれる。一センチ幅に分けられたトマトをむ。

「おいしい?」

「うん」

「カレーにトマト入れると美味しいからね。お母さん、喜んでくれるといいな」

「うん」

 少年はトマトを乱切りにしようと手を動かす。男がくつくつと沸く鍋を木箆きべらで回す事で土間にスパイスの湯気が巡る。

「河田さん、ありがとう」

 二人の気付かぬ内に明治が終わった。どうやら明日は令和らしい。

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