スパイの囁き

「ねー朔夜さん、ほんとにそう思うっすかぁ?」

 小間使い達の作業部屋は宿坊の真上、小さな飾り塔の中にある。

 普段はほとんど誰もいないその場所で、私はアーサーを睨みつけた。

「アーサー」

「ういっす」

「穂積は箸が使えるな」

「まぁ……飲みに行ったときそれは思いましたけど」

 大人に教えられなければうまくできるようにならないことというのはいくつもある。

 食事のマナーもその一つだ。隣に信頼する大人がついて根気強く教えなければ小さな子供は覚えられない。

 つまり食事とは、時に人の育ちを最も如実に表す、ある種の試験ともなり得るのだ。

「でも、それは穂積家で教えて貰ったのかも知れないじゃないっすか」

 アーサーが机に肘をついて資料をめくる。

「ココアさんだって、やっぱ身のこなしはしっかりしてましたよ。俺だって偉いお家のことなんか分からないっすけど、結構小さい頃からその辺の難しいことも教えられるもんなのかも」

「じゃあ他は?」

 ペンの持ち方、キーボードの叩き方、洋服の選び方。敬語に礼の角度、その他コミュニケーションに至るまで。怖気が走るほど、彼は完璧な人間なのだ。

「そうなんすけどね、違和感はあるんすけどね」

「だったら調べるべきだろう。何かあってからでは遅いぞ」

 ぐぅ、とうなりながら、アーサーは古い新聞をめくった。

 

 『穂積家子息誘拐事件』、と呼ばれている。

 12年前のことだ。穂積家三男黎少年、当時3歳が行方不明になった。

 警察が必死に捜査をしたにも関わらず少年はまるで見つからなかった。

 しかしそれから8年、事態は急転する。

 反社会的な邪教の撲滅にあたる教会の特別部隊が、黎少年と、そして誘拐犯御崎憂を発見したのだ。

 御崎容疑者は黎少年の腕を無理矢理掴んだまま市街地を逃走、そのまま付近の廃墟に立てこもる。

 周囲は警察と救急車両、そして野次馬が取り囲んだ。

 この事件が穂積家の権力をもってしても御することのできないほどの大事件となってしまったのは、それから数時間後、警察車両のすぐ側に小学校から下校途中のある少女がやって来たからだ。

 周りの大人から話を聞いた少女は、少年をとてもかわいそうだと思った。

 自分にできることなら助けたいと思った。

 そしてすぐ側のパトカーの無線から、御崎容疑者が黎少年の手を離したらしいという報告を聞いた瞬間――その気持ちが、爆発した。

「半径20メートルを超える巨大な結界、かぁ」

 周辺の家屋全てを覆い尽くす巨大な球体の写真は、世界中の教会に飾られているという。

 後に真夜姫様と呼ばれる少女が法を発現させたのは、その時が初めてだった。

 結界を挟んで犯人と完全に切り離された少年を、警察の機動隊が無事保護。

 黎少年は2週間ほどの入院の後、事情聴取に対してこう答えた。

 邪教徒達の間では奴隷のように立ち働かされており、まともな食事も与えられていなかったと。自分が穂積などという大それた家の子であることも知らず、ただ自由になりたいとだけ考えていたと。

 最後にマスコミの前に姿を現した穂積家当主白山が頭を下げ、ありがとうございました、かわいい息子の人生をこれからも大切にしていきます、と涙ながらに宣言して、世間にとってのこの事件は終幕を迎えた。


 さて、ここから先の情報は教会に提出された経歴書の話だ。黎少年――穂積はわずか3カ月後に行われた試験で高等学校修了の認定を勝ち取り、同時に受験していた大学に入学。さらにたった1年で宗教学部を卒業し、中央教会衛兵会に入った。

「この辺はまあ、お家がなんかしたんでしょうね」

「だろうな。向こうも追い出したくて仕方なかったんだろう」

 さらに彼の快進撃は続く。

 門兵として採用された彼は何度も昇格試験を繰り返し、半年で近衛兵まで成り上がった。

 そして入会からわずか1年、史上最年少の近衛兵隊長が誕生したのである。

「んー……まぁ、すっげぇことだとは思いますけど、出世についてはなぁ、実際部下になってみると」

「こいつならやりそう、か?」

 アーサーはこくんと頷いた。

「ちなみに朔夜さんは?なんか仮説とかあるんすか?」

「そうだな」

 3歳から奴隷のように扱われ、生まれた家からも鼻つまみ者にされていたにもかかわらず、教養豊かで人当たりもよく精神的にも安定した天才少年。彼に何か求めるとしたら。

「私はこう思っているんだ。実は――」

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