第5話
起きたとき、夢を見ていたことだけは覚えていた。
内容は、過去の思い出だったような気もするし、すごく幸せな未来を描いたものだったような気もした。そんなことを考えていると、
「アースお兄ちゃんっ!」
はしゃぎ声とともに、寝てる俺の上に何かが乗った。目覚めたばかりの感覚でよく分からなかったが、多少の重みが胸を圧迫した。クラがベッドに飛び乗ったのだ。
「……おはよう、クラ」
と言いながらシーツを深く被った。
「おはようじゃないよ! もうお昼だよ!」
遠慮がちなベッドの揺れが、新たな眠気を誘う。
淡い光が射し込むシーツの中、クラによってそれがはがされようとするのを懸命に死守していた。
「シーラはどこに行ったんだ、一緒に遊んでたんじゃないのか?」
俺がそう言うと、ベッドの揺れが止まる。
「お昼の食事のお買い物に行っちゃったよ。お兄ちゃん、いくら呼んでも起きてくれないんだもん。せっかくみんなで行こうって話してたのに」
布を引くクラの手に力がこもった。
「……」
「わたし、アース兄ちゃんを置いて二人で行こうよって言ったんだけど、起きて二人ともいなかったら心配するからって、シーラお姉ちゃんひとりで、」
「……悪かった」
「行っちゃうところだったんだよ」
行く……ところ?
クラの言葉に意表をつかれた俺の隙をつき、シーツが取られ、目の前には、
「そうよ、行っちゃうところだったのよ」
悪戯っぽく笑うシーラの姿があった。
てっきり俺はベッドに乗っているのがクラとばかり思っていた。寝起きとはいえ、そんなことにも気づかなかった自分に苦笑した。
「アースお兄ちゃん、おどろいた?」
「驚いた」
楽しそうなクラとは対照的に、シーラは俺を無理に起こしてしまったことに対して、少しすまなそうな顔をしていた。きっと3人で買い物に行きたいとクラにせがまれたのだろう。
「買い物に行くのか?」
「うんっ!」
元気にクラが言う。
「うん、そうだけど……眠たかったらいいの」
シーラは、どこか遠慮がちで、よそよそしかった。
「……起こしてごめんなさい」
「いや、それについてはいいんだけど……」
こんなことで俺が怒るとでも思っているのだろうか?
俺はなぜか元気のないシーラに、
「……いいかげん重たい」
本当は、信じられないほど軽かったのだが。
シーラは真っ赤な顔をして、慌てて俺の上から、ベッドから、おりた。
「あーっ、れでぃにたいして失礼だよっ!」
クラは頬を膨らませていた。6歳の女の子の口から出たレディという言葉は、クラには悪いが不似合いでおかしかった。
街に出て昼食の買い物をして、いくつかの袋を抱え帰ってきたのは、太陽が真上を過ぎた時刻だった。
家に着くと、シーラがクラを呼んだ。
「クラ、手伝って欲しいことがあるの」
「お料理?」
シーラが頷くと、クラは目を輝かせた。
「でも、その前に」
「?」
「たまには表で食べましょう。ね、アース?」
俺がテーブルを、シーラとクラが椅子を運ぶ。
それらを近くにある木陰に見栄えよく配置した。シーラとクラとで食事を並べはじめる。俺は複雑な気分で、二人を見ていた。
食卓を彩ったのは、みずみずしい野菜サラダとウーの腸詰め、街で買った焼きたてのパンにミルク。料理と呼ぶには不足かもしれないが十分な食欲をそそった。
この場所で食事をするのは、二度目のことだった。
前回は確か……。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
その日は、暖かい風が吹いていた。
雲一つない青空の下、俺はシーラ姉さんと外で食事をとっていた。
二人で草地に腰を落とし、苦しい筈なのに、俺の前では元気であろうとする姉の姿を見つめていた。
姉さんは、もう走ることすらできなかった。
けれど、俺は諦めなかった。
そしてついに、薬が見つかった。
姉さんの病気が治る薬。それが、もうすぐここに届けられる。姉さんはきっと喜んでくれる。見たこともない笑顔を俺に見せてくれるはずだった。
姉さんが病気になってから、どれだけ自分が姉さんに頼って生きていたのかを知った俺は、今度は姉さんを守っていこうと思っていた。
だから、今だけは俺のわがままを聞いて欲しかった。
「急にどうしたの? 外で食べようなんて」
「姉さんも外に出たいって言ってたじゃないか。だからだよ」
にこにこと答える。
「私が出ようとするのを止めてたのはアースよ。相変わらず勝手な子ね」
姉が笑顔を返す。
これから起こる素晴らしい瞬間。俺はそれを心待ちにしていた。
遠くから配達屋のジッダが歩いてくるのが見えた。
俺は、姉さんに謝った。無理に外で食事をしようなんて言ったことを。そして、実は今日、素晴らしいプレゼントがあるのだということを伝えた。
「アースが私に贈り物をくれるなんて夢みたい」
「夢じゃないよ。信じないんなら、ほっぺたつねってあげるよ?」
「ふふ、痛くないかもしれないわよ」
「むーっ」
ふざけ半分で姉さんの頬に手をかけようとした時、姉さんの手から、コップが落ちた。
「……ねえさん?」
音が、消えた。
楽しそうに笑っている姉さんの頬を、涙が伝った。
何が起こったのか理解できなかった。
姉さんも同じだったと思う。なぜなら、笑っていたから。
涙を流しながら、口元から血を流しながら、それでも微笑みが勝る表情を崩さずに、姉さんは俺を抱きしめた。
「……痛いよぉ……アース。……あ、でも……痛い……ってことは……夢……じゃないってことだもんね……良かった……」
流れる血を受け止めている肩が熱かった。
姉さんは、少しずつ、冷たくなっていった。やがて、背中に回された腕の感触が無くなった。
「……はじめ……てのことだも……んね……アースから……のプレゼント……」
「……うっ、ひぐ……」
俺はどうすることも出来なかった。
「……ふふ……楽し……み……」
だらりと垂れた姉さんの腕が、再び俺を包み込むことはなかった。
血の匂いと、涙で滲んでいく姉。
終わった。
俺の……夢……。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「お兄ちゃん、どうしたの?」
気がつくと二人が心配そうに俺を見ていた。
「シーラ……」
翼を失い、帰る場所の無くなったシーラに、俺はこんなことを言おうとしている。シーラの美しい純白の翼と帰る場所、両方を奪ったのは俺なのに。
「俺の家で、ずっと一緒に暮らさないか?」
あの日と同じような暖かい風が、三人の髪を揺らした。
「わぁ! お兄ちゃんっ、これってぷろぽーず!?」
俺たちの顔を交互に見ながら、クラが声をあげる。何も言わず、俺はクラの頭を優しく撫でた。
突然の言葉にシーラは戸惑うようなしぐさをしたが、ゆっくりと頷いた。
「……うん。私も……そうしたい」
「よかった」
「ふられなくてよかったね、お兄ちゃん!」
茶々を入れるクラの栗色の髪をくしゃくしゃとかき混ぜていると、シーラが言葉を続けた。
「……けど、アースにお願いがあるの」
「お願い? 何か欲しいものでもあるのか?」
「ううん。そうじゃないけど……」
「じゃあなんだ?」
「……天使を狩る仕事、辞めて欲しいの」
壊れる、音がした。
それだけが胸のあたりから聞こえた。
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