第3話


 仕事の帰り、俺は酒場に来ていた。


「本当の話かそれは?」


 ガットが乱暴にジョッキを置く。俺が頷くとガットは憮然とした表情で腕を組み、椅子に寄りかかり、テーブルに視線を落とした。


「こんなことがあるなんて思いもよらなかった」


「まったく驚きだ。仲間うちでも聞いたことが、」


「どうした?」


「……昔、天使についての資料を読んだことがあるんだが、そんときに今回と同じような例があった気がするな」


「その資料はどこで?」


 葡萄色の液体を一気に飲み干し、続きを促した。


「オレ達がまだ駆け出しだったころ、エルムでだ」


「エルム……」


 エルムとは8年前に発足した天使の研究機関のことだ。もともとは天使の生態を研究していただけの組織だったらしい。

 だが、エルムは5年前、国が独占していた万能薬『ソーマ』の市場に名乗りをあげた。そして今までのソーマの価格の10分の1という考え得ない価格を市場に明示した。ソーマの価格は大暴落した。

 姉さんが死んでから2年後のことだった。


 エルムが最初からソーマの研究を目的に組織されたにしろ、偶然に新しい『ソーマ』の生成法を見つけたにしろ、人々の喝采を浴びるに足りることをしたのだと俺は思っていた。それに、エルムがなければ、この仕事に就くこともなかっただろう。


「確かに、あそこならそんな資料も沢山あるかもしれない」


「役に立つような情報はないと思うけどな」


「……なぜだ?」


「選択肢が2つしかないからだよ、アース。お前もそれが分かってて、俺に話があって、ここに来たんだろ。単に天使に翼が生えたことを知らせる為なんかじゃなくて、もっと重要な話があるんじゃないのか?」


「……」


 言葉がでなかった。


 あの日以来、俺は天使に家を出ることを許さなかった。誰にも見られてはいけない、その一心でシーラを監禁した。

 彼女も解ってはくれたものの、このままずっとこうしているのには無理があった。

 俺は彼女を手放したくなかった。シーラを空に帰したら、二度と戻っては来ない気がした。天使がどこからやってくるのかは知らないが、旅の途中で天使狩りに遭うという可能性さえある。俺のところで人間として暮らした方が幸せなのだ。

 詳細を伝え終わった俺は、ガットの頷きを確認し、


「俺は……狂っているのかもしれない……」


 ひとりでに呟いていた。


「なに、俺がお前の立場でもそうするさ。誰でも、自分の一番大切なものは手放したくないもんだ」


 珍しく真面目な表情で漏らしたガットの気遣いの言葉も、アースの耳には入らなかった。

 また、幸せな日々が続くはずだった。

 だがそれは、俺の妄想でしかなかったことを知っていた。

 彼女の想いを完全に無視した、自分本意な考え。

 知っていた。

 だけど、手を振って『さよなら』なんて出来なかった。


 二度と失いたくないという想いだけが、俺を突き動かしていた。

 これから起こる惨状によって、彼女がどれほど傷つき、苦しみ、悲しむのかなど全く思考の外だった。だから、部屋のすみで血に染まりながら怯え、震えているシーラの姿を見たとき、自分が取り返しのつかないことをしたことを痛感した。


「きゃあぁぁぁぁっっ!」


「シ、シーラ?」


「来ないでーーーーーーーっ!!! 嫌あぁぁぁぁぁっっ!!!」


「大丈夫だ! 俺だ、アースだ!」


「う……ううっ…………えっ、ひっ……う……ア、……ス……?」


「……ああ、俺だ」


「私、また……飛べなく……飛べなくなっちゃった……よ」


 俺はガットに教わった通りに少々ぎこちなかったが止血し、震える手で彼女を優しく抱えてベッドに寝かせた。床一面に散らばった血混じりの羽根、血だまりが俺の胸をえぐった。シーラの額を撫でる俺の手は震えていた。


「い、一体誰がこんなことを!?」


 自分に対する、激しい嫌悪感が胸に広がった。


「……わ、わかんない……よ……ノックがしたの……アースと私が決めた合図……で、でね……私、アースだと思って……開けたら……嫌だって言ったのに……やめて……って言ったのに……」


「……」



──ドアのノックは1回、2回、1回。俺とシーラの決めた合図だ


──換金した金はすべてガットのものにしてくれ……だから……


──シーラ……の……翼を……う、奪って……くれ……



「もう大丈夫だ。俺が一緒についてるから……」


「……う、……ん……」


 しばらくするとシーラは落ち着いてきた様子で、震えも治まっていた。だが、目をつむっているシーラはたびたび苦痛に顔を歪ませ、荒い息を吐いた。


「……平気か?」


 額から、止めどなく大粒の汗が滲み出てくる。顔色も悪かった。


「……」


 返事も返ってこなかった。

 その理由が、傷口に塗られた毒のせいだと知ったのは、翌日のことだった。


「……すまなかったな」


 朝、俺はガットの家を訪ね、それだけを言った。


「なに、気にするな」


 苦笑いするガットに、毒に関する言及はしなかった。おそらく、俺の為を思ってのことなのだろうから。シーラに再び翼が生えてこないように、と。

 シーラが眠りについてから、4日が経過した。

 彼女が目を覚ましたのは、街で解熱剤を買って、家に着いてすぐのことだった。


「おはよう、シーラ」


 天使は俺の顔を見て、小さく笑った。

 床に広がったシミに一瞬だけ目をやった。そして、半身を起こす。


「……夢じゃなかったんだ」


 小さく、呟いた。


「まだ寝てた方がいい」


「ううん、寝疲れちゃった」


 俺は湯に溶かした薬をシーラに渡した。力無く、苦いよと言いながらも、シーラはそれを飲みだした。


「ねえ、アース」


「ん?」


「……どうして人間は、天使の翼なんてものを欲しがるの?」


「……」


「私、なんにも悪いことしてないのに……。なのに……どうしてだかわかんないよ……。天使だってことだけでこんな……」


 シーラは今にも泣き出しそうだった。


「天使の翼から薬ができるんだよ」


「え……」


「どんな病気にでも効く、万能薬が。俺が翼の戻ったシーラを外に出したくなかった本当の理由はそれなんだ」


 この日を境に、シーラは外出することが少なくなった。

 人間を恐れ、軽蔑しているようだった。

 しかし、俺に対しては、これまでと変わらない態度で接してくれた。


 裏切りで造った幸せ。

 シーラに負わせてしまった深い傷は、時が癒やしてくれるのだろうか。

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