16歳のモモコ
永瀬鞠
「ひさしぶりー!」
「げんき?」
「げんきげんき」
「今どこにいるんだっけ?」
成人式の会場に足を踏み入れると同時に懐かしい顔ぶれが見えて頬が緩んだ。今も年に何回か会う友だちはいるけれど、中学校卒業ぶりに会う人がほとんどだ。
中学生のときとは違ってメイクはばっちり、つけまつげもして髪色だって変わっていても、すぐにわかるものだなと感心する。自分の目と脳みそに。それから、人の意外な変わらなさに。
あたしが会場に入ったのは受付終了に近い時間だったから、そうこうしているうちにアナウンスで着席を促されて式が始まる。後ろのほうに座ったあたしの目にはたくさんの同期生の頭が映る。さすがに後ろ姿だけではだれがだれだかわからない。
壇上にあがったお偉いさんの話を意識の半分で聞きながら、もう半分で会場全体にただようくすぐったいような緊張感と懐かしさに浸る。どこかぼんやりと会場を見渡していたあたしの頭には不意にモモコの顔が浮かんだ。
サカイモモコ。高校一年生のときの同級生。市単位で開催されたこの成人式にモモコはいない。モモコが住んでいたのは隣の市だからだ。そうでなくても、モモコは高校一年生の年に交通事故で死んだ。
あたしとモモコの思い出といえば、夏休みのある半日しかない。同じクラスだったけれど一学期のあいだにあたしとモモコがかかわったのはたぶん片手で数えられるくらいで、何度かしゃべった記憶はあるけれど二、三言くらいの軽い会話だったから、思い出と呼べるようなものはなかった。
一学期も後半になれば入学後のそわそわと浮き立っていたような教室の空気はすっかり消え去って、慣れてきた学校の中であたしたちは変わりばえしない、ちょっと楽しくてちょっと退屈な毎日をくりかえしていた。
だからなのか、モモコと過ごしたあの夏の日は強烈な思い出になる。短い時間だったけれど、濃い時間だったから、あたしの中にはモモコが今も鮮やかに残っている。
『ねえ、渡辺さん?』
まだ、先月のことのようにはっきりと思い出せるモモコの声。夏休みの終了まで十日を切った、日曜日のことだった。
隣町のいとこに会いに行った帰り、家の最寄りの駅で電車を降りて、ホームを歩いていたところに横から声がかかった。
『あれ、堺さん?』
『びっくり。なにしてるの?』
『ここ、あたしの地元』
『そうなんだ!』
白いショートパンツに、ふわりとした黄色いブラウスを着ていたモモコ。その下には細い足がすらりと伸びている。なにしてるの?はこっちのせりふだった。
『堺さんは?』
『あー、あたしはね、電車に乗ってたら元カレにばったり会っちゃって、とっさに降りてきた』
『ええ』
『なんかちょっと、ストーカーっぽいんだよねぇ』
『大丈夫なの、それ』
『大丈夫、大丈夫。うっとおしいけど、被害とかはぜんぜんないから』
あっけらかんとモモコは答えた。
いま目の前にいるモモコの印象は学校で見るモモコの印象とあまり変わらないけれど、学校ではないこの場所がそうさせるのか、休日という心のゆるみがそうさせるのか、あたしたちの間に流れる空気がなんとなく柔らかかった。
『帰り?』
『うん』
『もしかして、このあとひまだったりする?』
『うん、ひまだけど』
あたしが答えるとモモコは目を輝かせた、ように見えた。なんなら耳としっぽもうっすらと見えた。うちの犬にちょっと似てるな、と思ったのはそのときだったか、あとになってからだったかはもう思い出せない。
『じゃあさ、あたしの逃避行につきあわない?』
モモコは目を輝かせたまま言った。今思えばモモコの日本語はちょっとおかしかったけれど、当時それに気づかなかったあたしもバカだった。
『夏だからー、どっか海辺いきたい!』
『海っていうとー、あのあたり?』
そのままあたしたちは駅の券売機前で路線図を眺めはじめた。指さして、金額を見て、財布を取り出す。
『渡辺さん、お金たりる?』
『たりる。堺さんは?』
『あたしもたりる。今日多めにもってきたんだー』
切符を買って、少し待ってから電車に乗りこむ。すぐとなりでモモコが笑った。
『ていうか、モモコでいいよ、ミナミちゃん』
暑さで頭がやられていたとかではないけれど、あの日のあたしたちはちょっと浮かれていたと思う。いま例えるなら、お酒を飲んで気分がよくなっているような感じ。夏っていう季節と、思いがけない出会いに、酔っぱらっていたのかもしれない。
電車の窓の外には見慣れた景色が流れていって、そのうち見慣れない景色に変わった。
『ねえ海の匂いがするー!』
『うそ、全然わかんない』
『気分だよ、気分。あはは』
電車を降りて、駅を出た。人通りはまばらだった。見上げた空は真っ青で、いつもよりずっと高かった。空気はぬるかったけれど、さらりと肌をなでていく風が気持ちよかった。
『まぶしーね』
『あついねー』
『見て、帽子屋さんがある』
『ほんとだ。買おうよ』
しばらくまっすぐに歩いたところにあった、店の外にも帽子が並ぶ小さな帽子屋はモモコが見つけた。
『これとこれ、どっちが似合う?』
『んーとーこっち』
『ミナミ、ちょっとあれかぶってみてよ』
『なに?……ってネコ耳!』
『かわいーよね』
結局、あたしたちはつばの広い帽子をひとつずつ買った。安くて薄っぺらい帽子だったけれど、日光を遮るのと非日常的な気分を味わうのには十分だった。その帽子は今も、あたしのクローゼットの中にある。
『モモコ、ここアイスも売ってるよ』
『なにアイス?』
『いろいろあるけど、あれ、あの半分こするやつ、なんてったっけ』
『パピコ?』
『そうそれ!』
コーヒー味の茶色いそれをパキンと半分に割って、片方をモモコに差し出す。それから上部を開けて、口にくわえた。冷たい。あたしたちは海があるはずの方向に向かって、ぶらぶらと歩いた。
『わーーー海!』
『青ーい』
『広ーい』
『きもちいーねー』
飛んでしまわないように帽子をぎゅっとかぶり直してから、堤防に上がるための階段をのぼった。今度こそ海の匂いがした。風に自分の長い髪と白いティーシャツがなびく。
『あたしねー、海すき』
黄色のブラウスをなびかせながらそう言ったモモコの言葉に、あたしの口からは思わず笑いがもれた。
『それ、最初に駅で海辺に行きたいって言ったときから気づいてた』
『あは』
目の前には青い海と青い空。背後には低い町並み。堤防にあがって目線が高くなったことで、自分の世界が広がったような錯覚をおこしている。
『ミナミはー? なにが好き?』
『あたしぃ? あたしはー、あたしも海が好き。あとはー、夏と、アイスと、冷たい麦茶と、赤いひらひらの金魚。モモコは?』
『んー、大きくて丸い花火と、お祭りのカステラと、風鈴のちりんっていう音と、甘いスイカ』
歩きながら、モモコは楽しそうに笑う。
『そういえばあたし、スイカ割りってしたことないなー』
『うそ、そうなの?』
『うん。モモコあるの?』
『あるよー。小学校のときにね、近所の子どもたちで集まってやってた』
『へえー、いいね』
そこから数歩進んだあと、モモコは立ち止まってくるりと振り返った。
『じゃあさ、いまやろうよ』
『いま?』
『いま! ちょうどいい場所にいるじゃん!』
そう言うが早いか、モモコは堤防を下りて浜に着地する。黄色のブラウスがひらりと舞った。
『え、スイカ買う?!』
『さすがに買えないからー、なんか代わりの……、ね! 代わりになるもの探そうよ』
その浜は砂浜というよりは砂利浜で、小さな石がごろごろと重なっていた。広い浜ではなかったけれど、あたしたち二人が動き回るのには十分な広さだった。モモコの言葉に促されるように浜に下りたあたしは、砂利のでこぼこをサンダルの裏で感じながら歩く。
『棒はこの枝でいいでしょー、問題は獲物だよね』
『あ、ねえ! クルミが落ちてる。これいいんじゃない?』
『ナンイド高くない? いける?』
『いけるいける』
目隠しになるものはなかったから、帽子を前にかたむけてかぶって目を閉じた。ほぼ顔が帽子をかぶっているような状態だった。
『薄目でもあけちゃダメだからねー』
なんていうモモコの声を聞きながら、あたしは真っ暗な視界のなか、両手で握った木の枝をかまえて一歩前に踏み出した。
思い返してみれば、はたから見るとかなりおかしな二人だったと思う。たぶんバカみたいだったけど、バカみたいだったから、いい思い出なのかもしれない。
結局クルミは割れなくて、スイカ割りは想像していたよりもむずかしい遊びなんだとわかった。的が小さかったから、という理由があったことも否めないけれど、そうでなくてもあたしは当てられなかった気がする。ほんとうのスイカ割りはいまだにしたことがないから、確かなことはわからないけれど。
あたしとモモコは、日が傾いてきたころにまたぶらぶらと歩いて駅に戻った。並んで電車に揺られて、それぞれの家に帰った。モモコが車にはねられて死んだのは、その一週間後のことだった。
壇上の大きなスクリーンに、小学生や中学生だったころのあたしたちの映像が流れていく。写真もあれば、動画もあった。成人式は滞りなく進んで、あとは謝辞と閉会のあいさつを残すのみだ。
スクリーンに映し出される懐かしい思い出に、ときどき会場の一角から笑いがおこる。小学校の同級生の男子が数人、仲良く「あいーん」をしている写真が映し出されると、となりに座る友だちとあたしは同時に笑いをもらした。
あたしは次々に流れていく写真を眺めながら、明日はモモコのお墓参りに行ってみよう、と思い立つ。
翌朝、八時に目を覚ましたあたしは準備を整えて九時すぎに家を出た。
薄く雪が積もる道を歩く。途中で花屋に寄って、墓前に供えるための花を買った。モモコの好きな花は知らないから、あたしがあげようと思った花。数本の黄色の花を抱えて、モモコの地元に向かう電車に乗る。
あたしはモモコのことは知らないことばかりだった。過ごした時間が短いから、あたりまえと言えばあたりまえなのだけど。
誕生日が四月だということも、吹奏楽部の期待の新人と言われていたことも、モモコが死んだあとに知った。遺影の中のモモコは、あたしの知っている笑顔よりも少しだけすました顔で笑っていた。
流れる景色に目を向けているうちに二つの駅を越える。歩きながら吐く息は白い。昨日の成人式とその二次会、三次会の騒々しさがウソみたいに静かな道を一人で進む。
空気にふれている頬が冷たいことは触らなくてもわかった。十分ほど歩くと、視線の先には目的の墓地が見えてきた。
モモコのお墓を訪れるのはモモコが死んだとき以来だったけれど、お墓の場所は意外と頭が覚えていた。そういえば冬にモモコに会うのは初めてだな、と思い至る。
いくつかの墓石の間を縫って歩きモモコのお墓の前にたどりつくと、黄色の花たちを片手でしっかりと握ったまま、あたしはひさしぶりに見たお墓を前に立ちつくした。
統計上、毎日十人前後の人が交通事故によって死んでいるらしい。これもモモコが死んでから知ったことだ。だからモモコが車にはねられて死んだことは、少しもおかしなことではない。不思議なことでは、ないのだ。
気づけば二十歳になっていたあたしと、十六歳のままのモモコが向かい合う。あの日から動かなくなったモモコ。あの日から歳をとらなくなったモモコ。あたしたちは十六歳だった。
手に持っていた花の包みを開いて、すでに白色や紫色の花が何本かささっている花立てに加えた。手を合わせて、目を閉じる。それからもう一度、お墓を見つめた。右手で触れてみた墓石は、冷たい。
ばいばい、モモコ。またくるね。
心の中でつぶやいてから、あたしは踵を返した。来るときに形作られた自分の足跡を眺めながら、同じ道を戻る。駅に到着すると、帰りの電車の時刻を確認するために電光掲示板を見上げた。そして何気なく隣に表示されている反対方面の電車の発車予定を目に入れる。
反対方面の電車のほうが次の発車時刻が早かったから、というのは、大きなきっかけだったと思う。ふっとひらめくように、あたしはモモコと過ごしたあの海辺に、もう一度行ってみようと思った。電車の乗り場の番号を確認しながら、改札をくぐった。
二十分ほど電車に揺られて到着したその場所は、季節がちがうだけでまるで別の場所のようにも見えた。
人通りはあいかわらず少ない。あの夏にモモコと歩いた道をなぞるように、駅からほぼ一直線に海へとつながる道を歩く。
二人で帽子を買った帽子屋さんは今もそこにあった。冬だからか店先に帽子は並んでいないけれど、店の中には帽子が所狭しと並んでいる様子がガラス戸越しにわかった。夏限定だったのかもしれない、アイスの販売もしていなかった。
古い町並みには新しい住宅が増えていた。緑色の街灯は変わらない。塗装がところどころ剥げているところも。茶色のノラ猫が一匹、歩道のすみを歩いていく。住宅と住宅の隙間に入っていく直前、ぴたりと立ち止まってあたしを見た。
海の匂いがする。小さな波の音が聞こえる。灰色の堤防が見えてきた。歩みを止めないまま、片手で紺色のマフラーを口元まで引き上げる。ふと視線を上げた先には、白い雲が広がる、灰色の空が見える。
幅が狭いコンクリートの階段を一段ずつ上った。あの日と変わらない堤防の上に立つ。世界が広がる錯覚におちいるのは今も同じ。どこまでも続く空。まっすぐにのびる水平線。なにもかもを飲みこむように、深くゆったりと波打つ海。
変わらないものがある。変わっていくものがある。それをくりかえし、くりかえし実感する。人を強くする思い出がある。それが本当なら、モモコと過ごしたあの夏の日はあたしにとってのそれだった。
吐いた息がマフラーの隙間から白く漏れる。寄せては返す波の音に、遠くで車が走り去る音がときどき混じる。頬をなでる風は水の匂いがする。肺を満たす冷たい空気が心地いい。ゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏に見えるのは、明るくて、笑顔がかわいくて、海が好きだった一人の女の子の姿。澄んだ青空の下を、軽い足取りで歩いていく。その黄色のブラウスは夏の光と風をまとって、あざやかにゆれている。
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