本の虫

西羽咲 花月

第1話 進化する

室内は病院特有の消毒液の匂いと、動くことのできない患者の糞尿の匂いもかすかに漂ってきていた。

白い簡素な個室で薄い花がらの布団を使っているのはせめてもの気分転換のためなのか、そこだけ浮いているように見えてみんなの視線が一瞬だけ集まったのがわかった。


私は右手に待合室からこっそり持ってきた新聞紙を握りしめてベッドに横たわっている男を見つめた。

彼の名前は原田信行(ハラダ ノブユキ)。

私の幼馴染で、一週間ほど前からこの病院に入院している。


つい一週間前までは元気そうな笑顔を浮かべていた信行も、今は酸素マスクをつけていないと呼吸ができない状態まで悪くなっていた。

この一週間で信行の体はやせ細り、骨に皮が張り付いているような有様で、目は落ち窪んでしまっていた。


痩せたことでギョロリと出目金のように出てきた目は天井を見上げるばかりで私達の姿が見えているのかどうか怪しかった。

病室内には私の他に信行の家族や特別中の良かった友人が他に3人ほど集まってきていた。


医師から集まるように言われたのはつい1時間前のことだった。

その知らせをしてくれた信行の母親の声は涙で濡れていたけれど、私は冷静な気分でここに来ることができた。

実際に信行の姿を目の当たりしたらショックを受けるかもしれないと思っていたけれど、それもなく、私は時々新聞に視線を落としながらその時を待った。


信行の病名は活字中毒。

この病気にかかるのは昔ながらの紙でできた本を好む若者が多かった。

電子書籍が主流となった今、現代人の体は本の活字に強い依存反応を見せるようになり、それはアルコールや薬物中毒と同じような作用をもたらす。


それらと違うのは中毒に陥った人間の末路だった。

先に上げた2つの中毒になった場合、最悪命を落としてしまう。

だけど活字中毒の場合は、中毒に陥った本人が活字に変化してしまうのだ。


決して死ぬわけではなく、自分自身が大好きな活字になるということで、信行がどれほど弱ってしまっても悲観的な気持ちは湧いて来なかった。

信行が活字になった暁には、紙の本が沢山置かれている図書館に置いてほしいということだった。


活字になればどんな本の中でも行き来できるようになるので、本が沢山置かれている場所を次の住処にと願う人は沢山いる。

入院する際、信行は一冊の本を持ってきていた。


それは今意識が朦朧としてきている彼が両手で胸に抱きかかえている。

どれだけ弱ろうが意識がなくなろうが、これだけは絶対に手から離してはいけないものだ。

なにせ活字中毒者は活字に変化したときに、持っている本に入り込む。


そのために入院前には必ず自分にとって最上の本を選んで持ち込むことになっているのだ。

そうこうしている間に横たわっている信行が目を閉じてしまった。

あのギョロ目がちゃんとまぶたの内側に収まってしまうことが不思議で、私は少し身を乗り出して信行の顔を確認した。



「信行、信行!」



信行の母親が信行の体にすがりついて泣き始めたので、私は一歩ベッドから遠ざかった。

死ぬわけじゃない。

大好きな活字になるのだ。


そう理解していても、長年信行の体で生きてきたものがなくなってしまうということは、やっぱり両親にとってひどく悲しいことみたいだ。

信行は手足はどんどん細く、黒く変色をしていく。

活字化が始まったのだ。


活字になると言っても色々と制限があるらしく、人間が活字になる場合はひらがなのみということらしい。

これが海外ならまた違ってくるのだろうけれど、とにかくひらがなのみだと決まっている。

いくらアルファベットやカタカタになりたいと願っても、それは無理なお願いだった。


そしてそのひらがなは生前自分が一番お世話になったひらがな一文字だと言う。

信行は一体なんのひらがなになるだろう?

そう思って観察していたとき、突如動悸に襲われて私はドアの前に移動した。

大きく息を吸い込んで落ち着こうとしてもうまく行かず、冷や汗が額から流れ落ちてきた。


それを手の甲でぬぐうと、今度はその手が震えていることに気がついた。

典型的な活字中毒者の症状だった。

私は震える手でどうにか新聞を開き、活字を目で追いかけた。

必死に読んでいるうちにだんだんと汗が引いていき、やがて手の震えも止まった。

動悸は静まり、気がつけば目の前の活字に入り込んでいた。


昨日アメリカで大きな地震があったらしい。

地元サッカーの試合は3ー0で勝った。

今日の呼んコマ漫画は新連載だ。

1度読み始めたら済から済まで読まないと気がすまない。

私は背中に壁を付けて座り込み熱心に新聞を読み込んでいく。



「信行!!」



悲痛な叫び声が聞こえてきてハッと我に返って新聞から顔を上げた。

震えは収まっているから大丈夫そうだ。

それでも新聞紙はしっかりと右手に握りしめた状態で、ベッドへと近づいた。

信行の体は本来の半分ほどの大きさになっていて、手足は黒ずみ、まるで炭を塗りたくったようになっていた。


たとえば信行が活字の「ぬ」になったとする。

そうして本に入り込めば、当然余分な「ぬ」がそこに存在することになって、それは俗に言う誤字として人々に認識される。

またこの誤字が人間であると気が付かれた場合、それは本の虫として認識される。


本にべったりとくっついて離れないからだ。

この活字中毒を治す薬は残念ながらまだ開発されていない。

昔の本を読まないこと。

どうしても読みたいときは電子書籍で購入することが求められている。


けれど1度紙の本の良さに気がついた人たちはそう簡単に紙の本から離れることはできなくなってしまうのだ。

ちなみに、新聞はギリギリセーフのラインらしい。

中毒性は低く、だけど中毒患者が症状を和らげることができるものとして、重宝されている。


この病院のように待合室に置いてあるところも時々見かける。

小さくなっていく信行を見ていると、また活字不足の症状が出てきて私は新聞を開いた。

そうしている間に信行の体はみるみるうちに小さくなり、スポンッと音を立てて本の中に入り込んでしまったのだ。


その音がして新聞から顔を上げた私はしまったと顔をしかめた。

信行がなんというひらがなになったのかわからなかった。

ベッドの上に残っているのは信行が一番好きで何度も読み直していた、冒険小説の本だけだった。

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