第33話 貴女が、トゥーリッキ(2)
熊のような人間だと思われていたことを知り、少し複雑な気持ちになったヴェルザを余所に、トゥーリッキは話を続ける。
「それから、どういう訳かアトリと時々会うようになってさ。いつもあたしや仲間の世話を焼いてくるくせに、その割には他人と距離を置きたがるんだ、アトリって。変なヤツだって思ってたよ、初めのうちは」
だから、トゥーリッキはアトリに期待していなかった。恵まれた家庭に生まれ育ったお坊ちゃんが、気紛れに貧乏人を憐れんでいるだけなのだと。けれども少しずつ彼のことを知っていくにつれて、トゥーリッキの頑なだった心は解されていく。やがてはトゥーリッキと肩を寄せ合って生きてきた孤児の仲間を、この養護院に預けることができ、彼らを飢えと寒さ、寂しさに怯えるだけの生活から解放してやれた。此処での生活は決して裕福ではないが、死の危険はあの頃よりもぐっと減った。
「あたしはもう大人になってたから、此処では暮らせなくてさ、元居た場所に戻るしかなかったんだけど……あの生活から抜け出したいってずっと思ってて、どうしたらいいのかってアトリに訊いてみたら……アトリは沢山助けてくれたよ」
酒場の求人情報を見つけ、店主と交渉し、アトリが身元保証人となることでトゥーリッキは職を得ることができた。それが現在の彼女の職場でもある。教育を受けたことがないトゥーリッキの為に文字の読み書きや、簡単な計算が出来るように根気よく勉強を教えてくれた。
――アトリはどうして、トゥーリッキにこんなに良くしてくれるのか。浮かんだ疑問をぶつけてみれば、彼は困ったように笑いながらも答えてくれた。
アトリはずっと幼い頃に母親を、その数年後には父親を亡くし、姉と二人ぼっちになった。父親の上司だった人物が養親となり二人を引き取ってくれたことで、路頭に迷うことも、別々の施設に預けられることもなく、成人するまでに必要な教育も受けさせてもらえた。アトリに困ったことがあれば姉は勿論、養親やその家族、その他の人々も手を差し伸べてくれた。その有難さを知っているので、トゥーリッキの世話を焼いているのだ、と。彼女の境遇は、自分の未来の一つだったかもしれないから、と。
「あたしが恩を仇で返すろくでなしだったらどうするのさって訊いたら、そういう人もいますねって笑って終わらせるって言ってきて、呆れたよ。……アトリは運が良かったけど、嫌なことも辛いこともいっぱいあったんだろうなって、後で気付いたけど」
「貴女はアトリのことをよく見ていてくださっていたのですね」
「そりゃぁ見ちゃうよ。いつの間にか誰よりも好きになってたんだもん」
ただ、トゥーリッキとアトリの想いが同じであるとは限らない。彼のトゥーリッキに向ける想いは博愛や親愛であって、恋愛ではないだろう。そんな不安を胸の内に秘めていたトゥーリッキは、或る日、隣で涼しい顔をしているアトリに少々腹が立ってきて、彼を困らせてやろうと思いつく。
――あたし、あんたのこと好きみたいなんだけど。
さて、アトリは何と返してくるのか。彼は何でもないことのように「俺もトゥーリッキのことが好きですよ。大好きです」と、長身を屈めて、彼女の顔を覗き込みながら言ってきた。その瞬間、顔から出た火が全身を駆け巡るような感覚に襲われたことを、トゥーリッキは鮮明に覚えている。大切な思い出の一つだから。
「アトリと恋人になれて、すごく嬉しかったけど、急に怖くなったんだ」
トゥーリッキのことを姉や養親たちに紹介したいとアトリに告げられた時、急に心が冷えたのだ。自分のような生い立ちの人間はきっと、華々しい生活を送っている人々から嫌がられるに違いない。アトリとお前は不釣り合いだからと、別れさせられるかもしれない。嫌なことばかりが浮かんできては心を苛み、際限の無い不安から逃れるためにトゥーリッキは自分の存在を隠して欲しいとアトリに言ったのだ。それは嫌な現実を目にする日を先延ばしにするだけのことだと、どこかでは分かっていたのに。
「確かに、身分に拘る方々はいらっしゃいます。ああいった方々は容赦無く立場の弱い人々を追い詰めてきますから。私も身に覚えがあります。ですから、私やクヴェルドゥールヴ家の方々が貴女を否定するのではと危惧する気持ちは……痛いほどに理解できます」
「……そうなのですね。質問に答えてくださって有難う御座います、トゥーリッキ」
「ううん、変だなって思われても仕方がないことしてたから、気にしないで、ハルジ。うん、だからさ、アトリとの恋はいつか終わるもので、その先はきっと無いんだって自分を納得させようとしてたんだけどさ……」
トゥーリッキは指輪を愛しそうに撫でながら、彼の日の出来事を思い出す。
――或る時、アトリと二人で街を歩いていると、大きな花束を差し出して女性に求婚している男性を見かけた。女性は感動して涙を浮かべ、求婚を受け入れていた。その光景が輝いて見えて、羨ましくなったトゥーリッキの口から「良いなぁ」と漏れ出た。彼女は慌てて口を塞ぎ、隣に佇むアトリの様子を窺う。どうか、彼の耳に届いていませんように。彼はゆっくりと彼女に向き直ると微笑み――自分が求婚したら、君は受け入れてくれるのか、と、唇を動かした。
「心臓が飛び出そうになるくらい嬉しかったよ。それくらい嬉しかったのに、あたしはいつも大事な時に答えを間違えるんだ。素直になれなくて、つい、言っちゃったんだ。金の指輪を用意してから求婚してよねってさ」
本当は、金の指輪はいらなかった。美しい花束もいらない。アトリがトゥーリッキとの未来を約束してくれるだけで良かったのに。己の口から出してしまった言葉を悔いて俯くトゥーリッキに、アトリは「日数はかかってしまいますが、必ずや御期待に応えましょう。それまでに心変わりはしないでくださいね」と笑いかけた。
自分に喜びを与えてくれたアトリに対して「期待はしないで待っててあげる」と、またしても可愛げのないことを返したトゥーリッキにその日が訪れることはなかった。
「……あんなことになるって分かってたら、絶対にバカなこと言わなかったのに、ううん、あんなこと言ったから、我侭ばっかりなあたしに結婚の女神さまが罰を与えたんだって……ずっと、ずっと後悔してた。だから、アトリの葬式にはいけなかったし、アトリのお墓の場所も知らないから、お墓に向かってゴメンナサイも言えてない」
アトリの未来を奪ってしまったかもしれない愚かな自分を守る為に、かつてアトリが救ってくれた孤児仲間を支えることで心の安定を図ってきたトゥーリッキに、今日という転機が訪れる。
「ヴェルザ姉さんの御蔭で、あたしはアトリの想いを知れた。ありがとう、ヴェルザ姉さん。ありがとう、ハルジ」
欲しくてたまらなかったアトリの想いの結晶――指輪を漸く左手の薬指にはめて、目の前に手を翳す。薄暗い部屋の中でも、金の指輪はキラキラと輝いて見えて、感情が昂り、トゥーリッキは再び声を上げて泣き出した。その姿を目にしたヴェルザは肩の力を抜いて、長く息を吐く。
「指輪を貴女に渡そうと行動を起こして、良かったのですね。いらぬお節介ではなくて……本当に、良かった……」
本当は、アトリから指輪を渡されたかっただろうに。アトリも、自分で彼女の薬指に指輪をはめてあげたかっただろうに。ヴェルザの膝の上に置かれた握り拳が震える――いや、彼女の体自体が震えている。微かに感じる振動を不思議に思い、隣に座るハルジはヴェルザを見上げ、その目に涙の膜が張られていることに気が付く。だが、ヴェルザの涙は一向に雫となって落ちていかない。若しかして、泣くのを我慢しているのか。そうなのだとしたら、ハルジはどんな行動に出るのが最良なのか。
「他者の心を知ろうとして、普段は読まない類の本を読み漁った時期があります。とある本には、涙は悲しい時だけに流れるものではなく、喜びが溢れた時にも流れるものだと。人は涙を流すことで、昂ったり、落ち込んでしまった感情を鎮める効果もあるのだそうです。ですから……ステルキ准尉、貴女は泣くことを我慢はしなくても良いのではないかと、僕は思います」
自分が放った言葉は、ヴェルザの心を傷つけることはしなかったか。そう考えるのはハルジらしくないけれど、「泣いても良いんだよ、恥ずかしいことはない」と伝えたい彼は、ヴェルザの拳に自分の手を重ねた。ヴェルザは驚いたが、ややあって、空いている手を更に重ねた。ヴェルザよりも少し冷たいハルジの手が温まっていくのを感じるにつれ、涙は雫となり、彼女の頬を伝って落ちていった。
「アトリ、貴方がトゥーリッキに渡したかった物は、姉ちゃんが届けましたよ……」
――だから、貴方が彼女に伝えたかった言葉は、いつかどこかで貴方がちゃんと伝えなさい。
トゥーリッキがその日を迎えられるようにと、ヴェルザは心から願う。
突然のアトリの死を受け入れ、弟のいない世界に慣れたつもりでいたが、実のところは悲しみがあまりにも深くて現実から目を背けていたのかもしれないと、ヴェルザは今にして気が付く。ハルジに泣くことを肯定され、トゥーリッキと共に涙を流したことで、ヴェルザの心に残り続けていたものが浄化していくのを感じた。
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