第25話 アトリ
二年前の、短い夏の或る日のことだった。
近衛師団に所属していたヴェルザは、ヒミングレーヴァ王女付きの中隊長として忙しくしていた。主君である王女殿下に「働き過ぎよ、ヴェルザ。少し休んでいらっしゃい」と諫められて、中隊の隊員たちが利用している休憩室に向かって廊下を進んでいると、不意に腕を掴まれて、強引に足を止めさせられた。彼女の鍛えられた腕をぎりっと掴んでいるのは、珍しく顔色を失っている義兄のヘルギで、彼の様子からヴェルザは直感した――彼はこれから、ヴェルザが喜べないことを口にするのだろうと。そして、その直感は当たる。
『アトリが、腹を刺されて……っ』
王都の下町の一角、人通りの少ない路地裏でヴェルザの実弟のアトリが腹から血を流して倒れているのを、通りがかりの住民が発見し、その地区を担当している警邏隊に連絡をした。アトリの傍で呆然としていた孤児によると、人買いに攫われそうになった孤児をアトリが助けようとして、仕事の邪魔をされて激高した中年の男が凶器で彼の腹を刺し、逃亡したのだという。
かろうじて息をしていたアトリは急いで病院に運ばれ、医師や看護師による懸命な救命措置を受けたものの、凶器で刺された場所が悪く――息を引き取った。
アトリの身元を調べていた警邏隊にはヘルギの知人が所属していたようで、その人物から直接ヘルギに知らせが届き、彼は急いでヴェルザの許へとやって来た。滅多に動揺しないヘルギが声を震わせて、言葉を詰まらせながら説明しているのを、ヴェルザは他人事のように聞いていた。それからのヴェルザの記憶は曖昧で、どうやってアトリの許まで向かったのか、彼女には分からない。恐らく、呆然自失状態のヴェルザをヘルギが支えて、病院まで連れて行ってくれたのだろう。永遠の眠りに就いてしまったアトリがどんな表情をしていたのかは覚えていないが、極度の緊張で冷えてしまった掌で触れたアトリの頬の冷たさだけは鮮明に覚えているのが不思議だ。
国の治安に関わることだからと警邏隊と協力して、ヘルギが執念でアトリの命を奪った中年の男を探し出し、下町をうろつく孤児を狙った人身売買の組織ごと逮捕した。国の法律で裁かれ、犯人たちは極刑に処されたが――たった一人の肉親を失ったヴェルザの悲しみは、今も尚、癒えていない。自分を家族として認めてくれているクヴェルドゥールヴ家の人々がいるのに、ふとした瞬間に孤独を感じてしまうのだ。
――姉さん、時間が出来たら……一度だけでも良いので食堂に来てください。財務院に勤めている役人以外でも利用出来る場所なんです。忙しく働いている俺でも眺めながら、食事でもどうぞ。勿論、俺の奢りです。
軍人になることを諦めたアトリが次に目指したのは、料理人。基礎学校を卒業すると、目的を達成するべく専門学校へと進学し、無事に卒業したアトリは財務院庁舎にある食堂に就職をした。仕事に慣れて余裕が出来たアトリに誘われたヴェルザは「勿論、伺います。姉ちゃんが冷やかしをしてやりましょう」と冗談混じりの返事をしたのだが、その約束は果たせなかった。事情を説明すれば「楽しんでいらっしゃいな」と、休暇の取得を快諾してくれる主君の許にいたのに、ヴェルザはそうしなかったことを非常に悔いている。
「……アトリの手料理、もう一度食べたいなぁ」
酒盛りを楽しんでいるうちに、時計の針はすっかり夜の時間帯に入ったことを告げている。ああ、駄目だ、アトリを思い出した日の夜はどうしても寂しさが胸を襲い、酒量が増える。グラスの中の酒が無くなり、ヴェルザは次の分を注ごうと、酒瓶を手にする。
――その一杯で最後にしましょうね、姉さん。自制をしないと、いつまでも飲み続けて、最悪、酒蔵を空にしてしまうんですから。
そんな空耳が聞こえてしまったヴェルザは「はいはい」と気の無い返事を寄越すと、グラスの三分の一にも満たない分量の酒を注ぐ。そしてグラスを口元に寄せようとして、ふと、何かを思い出したのか、彼女はグラスを机の上に置く。机の引き出しから小さな箱を取り出すと、蓋を開ける。中に入ってた金の指輪を手に取り、指輪の裏側に彫られている文字――”アトリからトゥーリッキへ”――をじいっと眺める。
(……トゥーリッキさんのことは、アトリの友人のカウピさんも御存知なかった。姉にも友人にも告げていない交友関係が存在した、ということだけが分かりましたね)
”自滅のワルツ事件”によって近衛師団から南方司令部の警邏隊に左遷されることが決まった時だった。荷物を纏めていたヴェルザは、それまで手をつけることが出来なかったアトリの遺品の整理を始めた。これは義妹のアルネイズに預かってもらおうか、これはヘルギに預かってもらおうか、どんなものなら持っていけるだろうと、頭を悩ませていると、この金の指輪を見つけたのだ。
(これは恋人に贈りたい物だったのか、それとも告白をしたい人に渡そうとした物なのか、或いは贈ろうとしたが受け取ってもらえなかった物なのか……手掛かりを残しておいてもらえたら、これをどうしたら良いのか、判断が出来たのですけれどね)
身内に打ち明けていない関係の人物、トゥーリッキ。まさか、人妻なのだろうか――なんて妄想をついついしてしまうが、人間関係に潔癖な嫌いのあったアトリだ、その可能性は低いだろう。
アトリはこの指輪をどうしたかったのだろう?心残りになってはいなかっただろうか?
その答えを見つけたくて、トゥーリッキなる人物を探してみようかと、ヴェルザは思い立った。そして王都に帰還してから、暇を見つけては街を彷徨い、情報を求めたが――王都は広すぎて、住民がとてつもなく多すぎて、トゥーリッキの影を掴むことが出来ないでいる。
(名前の響きからして、移民の方だと思うのですが、王都には非常に沢山の移民の方がいらっしゃいますからね……それに、いつまでも王都に留まってくれているのかも分かりませんし……)
トゥーリッキを見つけ出したとして、その人物から得られる答えがヴェルザの喜びとなるか、悲しみとなるか、それは全く分からない。いらぬお節介をして、アトリに恥をかかせてしまったら、その時は彼の墓前で深々とお詫びをしよう。
最後の一杯を飲み干したヴェルザは全く酔いが感じられない動作でテキパキと片付けをして、備え付けのストーブに薪を追加すると、早々にベッドに転がった。うとうととしてきたところで歯を磨いていないのを思い出したので、慌てて磨いて、それからもう一度ベッドに転がり、すやすやと眠った。
――翌日。職場に出勤するなり、ヴェルザはグロンホルム駐在所の面々から物言いたげな視線を寄越されたが、何も言わずに微笑んでみせた。その様子から何かを察した人々は気持ちを切り替えて通常業務に励んだが、噂好きの隊員がヴェルザに「小隊長!昨日のお見合いはどうでしたか!?」と特攻してしまったので、周囲にいた者たちが光の速さでそいつをひっ捕らえ、何処かへと連れ去っていった。
その日のグロンホルム駐在所は異様な雰囲気に包まれていたと、窃盗の容疑で連行されてきた中年の男は後に語る。
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