第19話 快適な労働に乾杯
窓の外に目を向ければ、しんしんと雪が降り積もり、どんよりとした色彩の街並が澄んだ白色に浸食されていくのが見えた。覚悟を決めて、温かい家の玄関の扉を開けた途端に冷気が素肌を突き刺してきて、室内外の温度差に驚いたヴェルザはぶるりと身を震わせた。
(慣れた寒さですが、寒いものは寒い……鼻水が垂れてきそう……)
今朝の彼女はロスガルジ小隊にて支給された軍服を着て、連泊していた宿屋ではない場所から出てきて、或る場所へと向かい、滑りやすくなっている道を歩いている。目的地は、旧市街と新市街を隔てる川沿いにある王都警邏隊本部。地方から強制的に王都に呼び戻されてから、お気楽宙ぶらりんな身分だったヴェルザの新たな所属先が決まったのだ。
「ほう……暫く軍務より遠ざかっていたが、腑抜けた面構えにはなっていないのだな」
防御力は高いが居心地が今一つそうな石造りの建物に入ってから、ヴェルザは好奇の視線をびしびしと浴びせられている。そんな彼女に声をかけたのは、彼女の新しい上司となったストリーズ大尉だ。三十代も半ばといった外見のストリーズ大尉は、執務机の前で直立しているヴェルザを不躾にじろじろと凝視すると、鼻で笑う。
「ふん、これが地方の警邏隊の軍服か。我らが王都警邏隊の軍服が貴官に支給されるまでの間、毛色の違う者が混じるのは仕方がないことだが……なあ」
流石は地方、軍服のデザインが田舎臭い。よくそんな軍服を着て、煌びやかな王都警邏隊本部までやって来られるな。心臓が強くて羨ましい限りだ――そんなことを言いたそうな雰囲気を醸し出しているストリーズ大尉だが、とある人物から聞いた話では、彼は地方出身の庶民である。
(……近衛師団の軍服に比べたら地味かなぁとは思いますが、他人様にダサいと鼻で笑われるとは想像だにしませんでした)
目下の人間に対して優越感を丸出しにして、ちっぽけな自尊心を満足させるのは大変結構で御座いますが、その度に貴官の評価が下がっていくばかりですが問題ありませんか?と、本音を吐き出したくなるが、ヴェルザは営業用の笑顔を貼り付けて、上司をじいっと見つめる。彼女の様子に怯んだ彼は視線を彷徨わせて、咳払いをした。ヴェルザはしょうもない戦いに勝ったが、鼻で笑うことはしなかった。
乱れた前髪を整えようと軍帽を外した上司の頭に金貨ほどの大きさの禿げを見つけたヴェルザ。彼女が次にやって来たのは、新市街のグロンホルム地区を管轄している小隊の駐在所。本日からこの場所で、ヴェルザは小隊長として働くのだ。
是非とも平隊員の身分で所属させて頂けますと幸いです――と、王国軍の人事部に非常に強くお願いしたのだが、どういう訳か警邏総隊長直々に丁重にお断りされてしまった。ヴェルザは念の為に義兄や養父に「警邏総隊長にお手紙を出したり、或いはお茶に誘ったりされませんでしたか?」と尋ねてみたのだが、二人はきょとんとして「何故、そのようなつまらないことをしなければいけないのか?」と答えたので、二人が人事に口を出したという可能性はあっさり消滅した。恐らくは総隊長が何らかの忖度をしたのかもしれないと、ヴェルザは適当に納得しておいた。
「よく集まってくれた、グロンホルム小隊の諸君。此方は本日より小隊長として、諸君の指揮を執るステルキ准尉だ。ステルキ准尉、挨拶を」
ストリーズ大尉によって招集された隊員たちがずらりと並び、様々な感情を滲ませる視線を一斉に向けてくる。ヴェルザは背筋をびしっと伸ばし、眼前の隊員たちを芋に変換して、腹に力を入れる。
「ストリーズ大尉より御紹介に預かりました、スヴェルズレイズ・ステルキ准尉です。南方司令部ロスガルジ小隊より転属して参りました。本日より小隊長として、日々の職務に励みます」
表面上はにこやかに拍手をしてヴェルザを歓迎しているが、内心では「”自滅のワルツ事件”の当事者が来ちゃったよ、どうするよ?」「うちの小隊で問題を起こさないといいけど」と思っている隊員たちが多く、ヴェルザはヴェルザで「責任を伴わない平隊員生活よ、気侭な宙ぶらりん生活よ、さようなら」などと遠くを見つめている。駐在所内に奇妙な空気が流れるが、ストリーズ大尉がそれを断ち切るように口を開いた。
「ステルキ准尉、此方の彼が貴官の補佐を務めてくれるホルティ曹長だ。職務の詳しい内容は彼に尋ねるように。勝手な判断で動くことは止めてくれたまえよ?」
「畏まりました。是非とも、そのように。ホルティ曹長、暫くは貴方に頼りきりになりますが、何卒宜しくお願い致します」
ヴェルザと同じくらいの年齢かと思われるホルティ曹長は新しい小隊長を見上げ、精悍な笑みを浮かべているが――彼女が差し出してきた手を恐る恐る握った。
――あ、この反応をするということは”ステルキ准尉は片手で鉄球を粉砕する噂話”を知っていて、且つそれを信じているな。瞬時に彼の心情を察したヴェルザが力の加減に配慮して握り返す。その後、利き手の骨が粉砕されなくて安堵したホルティ曹長は丁寧にヴェルザに職務内容を説明してくれた。
それからはホルティ曹長ともう一人の隊員と三人で連れたって、管轄であるグロンホルム地区を案内してもらう。王都の地図を頭に入れてはいるが、詳細には把握しきれていなかったので、ヴェルザは新鮮な気持ちで説明を受けられた。その他にも、凍った石畳に足を滑らせ転び、腰を強く打ちつけて動けなくなっている老人を救出したり、元気いっぱいの子供たちに雪玉をぶつけられたので御礼に豪速球を披露して隊員と子供たちを凍りつかせたり、コソ泥を捕まえたりと駐在所に戻るまでの間に幾つかの出来事があった。初日からなかなか忙しい時間を過ごしているようだと、ヴェルザは休憩時間に苦笑した。
「ステルキ小隊長!此方の報告書に不備がないか、確認をお願いします」
「承知致しました」
午後は暖炉の熱で暖められた快適な部屋の中で机に向かっているヴェルザ。緊張からか、ぎくしゃくとした動きになっている年若い部下から書類を受け取り、さあっと目を通していく。特に不備は見当たらなかったので、ぽん、と印を押して、待機していた部下に書類を返却した。
(脳味噌が筋肉で出来ているという自覚はないのですが、私には机仕事はあまり向いていないように思いますね……)
雪風が吹きつける外は寒くて仕方がないが、巡回をしている方が気が楽だ。軍属の身なので上官の命令は絶対だと頭に叩き込んでいるものの、敢えて心の中で叫びたい。警邏総隊長の忖度はどうでも良いので、今すぐ平隊員に戻してください――なんてことを頭の片隅で考えながらも真面目に職務に励んでいるうちに、なんとか初日の勤務時間が終了する。当直の部下たちに労いの声をかけて、ヴェルザは新しい職場を後にした。
「……寒いっ」
朝から降っていた雪はいつの間にか止んでいたが、日の光が無くなって一気に気温が下がり、夜風が鋭い冷気を容赦なく体にぶつけてくるので、一刻も早く温かな部屋に飛び込んでいきたい気分にしかならない。
(王都に呼び戻されなければ、今頃はロスガルジでそれほど寒くない冬を過ごせていたのに……結局はいつも通りの冬……。さて、と。考えを変えましょう。ええと、ホルティ曹長たちがお勧めしてくださった酒場は彼方でしたね)
巡回をしている時に彼らに教えてもらった情報の中に、料理が美味しい酒場があった。温かい料理を食べて、酒を楽しんで、一日の疲れを癒すのだ。口元を緩ませたヴェルザは、踏み固められた雪が氷と化した滑りやすい夜道を静かに歩いていく。
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