第13話 眼鏡よ、さらば

「た、助けて!」


 沈黙を破ったのは、ハルジが間男扱いされる原因を作った人妻のダラだ。彼女は予め用意していた台詞を述べるように、一気に捲し立てる。


「夫の束縛に耐えられなくて、つい、他の男とできちゃってさ!ねえ、悪いんだけど、恋人の振りをしてくれない!?あの人、暴れると手をつけられないの!助けて、ねえ、お願い!」


 ダラの手から力が無くなった隙を突いて立ち上がったハルジだが、再びしがみつかれてしまい、動きを封じられる。唖然としていた野次馬たちも徐々に我に返り、好奇の目で遠巻きに見守る。

 にやにやしている暇があったら、助けてくれても良くはないか?苛立ちは、ハルジを饒舌にする。


「初対面の他人に間男の振りをさせて、自分の代わりに夫に殴らせて、すっきりさせようとする魂胆ですか?とんでもない解決策ですね。お断り致します」


 申し出をあっさりと断られたダラは立ち上がり、ハルジから眼鏡を奪い取る。予想外の出来事に、一瞬で視界に異変が起きたことに彼は瞠目して、硬直してしまった。


「酒を飲んで暴れる男に襲われている女を助けようともしないなんて、最低な男ね!」

「ありえないことですが、仮に僕が貴女の無茶苦茶な申し出を引き受けたとして、ご覧の通り貧弱極まりない僕が、あの熊にも等しい相手に勝てると思いますか?ただ殴られれば良いのだとしても、十中八九、僕が死にます。断言します。助けを求める相手を間違えたのだと理解し、早急に別の方にお願いしてください。そして眼鏡を返してください」


 眼鏡を失ったハルジの視界が全体的にぼやけてしまい、遠近感も認識し辛くなる。どんな顔をしているのか分からなくなってしまったダラから眼鏡を奪い返そうと手を伸ばすが、彼女はそれを阻止してくる。


「もう夫が近づいてんの!どうにかしなさいよ!!」

「僕に構っている暇があるのでしたら、早く走り去るべきです。そうしないということは余裕があるのではないですか?」

「はあ!?何ですって!?」

「おい、お前ら!俺を放置していちゃついてんじゃねえよ!!状況が分かってねえのか、あぁん!?」


 すっかり存在を忘れ去られていた大男、もといダラの夫が怒号を上げ、一度に視線が彼に集まる。ハルジも其方に目を向けているつもりだが、微妙にずれている。


「うるさいわね、このロクデナシ亭主!あんたがそんなんだから、何処に勤めても長続きしなくて、アタシがこんな真似しなくちゃいけないっていうのに!」

「痛えな!何投げやがった、このアマ!!!くそっ、こんなもん、こんなもん!!!」

「ちょっと待ってください、今、とてつもなく嫌な音が……っ!」


 激昂したダラが何故かハルジの眼鏡を夫にぶつける。物を投げつけられた夫は勿論激怒し、石畳の上に落ちた眼鏡を何度も踏みつけた。そうしてレンズは粉々に砕け、フレームは折れ曲がり、眼鏡は眼鏡として役目を強制的に終了させられた。


「……間男扱いされた上に眼鏡を破壊されるとは……貴方がたは僕に何の恨みがあるのですか……?」


 揉め事を起こしている夫婦の共同作業によって破壊された眼鏡は、ハルジの父親が成人祝いの品として贈ってくれたもので、ハルジは手入れをしながら大事に使っていたのだ。それと共に父親の愛情まで踏み潰されたような感覚に襲われて、ハルジの心がすうっと冷えていく。

 それにしても、どうしてこの迷惑夫婦はハルジに執着するのだろうか?ハルジがダラの助けを拒んだ時点で、縋る相手を変えることも出来たのに、彼女はそうしなかった。野次馬がこんなにもいるのに、だ。次に、ハルジが間男ではないと主張すると、ダラは間男の振りをしろと言ってきた。それでも尚ハルジが拒否すると、彼の眼鏡を奪い、この場に留まらせようとした。夫も夫だ。間男を作ったという妻に激怒して追いかけてきたのに、ハルジに絡むばかりで、妻のダラを力尽くで連れ戻そうとしない。酒に酔っているようだが、怒鳴りつけ、乱暴する相手を選んでいるようにも見える。

 ともすれば、この二人には、どうしてもハルジに関わらないといけない事情があるのか?ハルジはこの夫婦の目的を考えてみる。


「うるせえっ!そもそもてめえが俺の女房に手を出さなきゃ良かったんだ!詫びろ!金を払え!今回はそれで許してやるから!」


 ダラの夫は大股で近寄り、目の焦点を合わせようとして眉間に皴を寄せているハルジの胸倉を掴み上げ、厳つい顔を近づけてくる。酒臭い息の中にどぶのような臭いが混じっていて、鼻が曲がりそうだ。ハルジは鼻を摘んで、二人の目的を考えている。

 このまま膠着状態に陥るのかと思われた時、ダラが横から口を挟んできた。


「ねえ、お願い!お金払ってよ!そうしたら、この人が許してくれるって!ね!」


 夫婦とは無関係のハルジが、どうして賠償金を払わなければならないのか?やはり何かがおかしいと違和感を覚えたハルジは暫し考えて、結論を出した。


「若しかして、これは強請ですか?」


 ぎくり、と、二人の表情が強張る。ハルジの目にはそれが見えなかったが、胸倉を掴んでいるダラの夫の腕がびくっと震えたので、それを確信した。この二人の目的はハルジに因縁をつけて、金を巻き上げることだ、と。


「ば、馬鹿なことを言ってんじゃねえよ、この間男!!」

「明らかに動揺していますね。図星でしたか。ならば、このお粗末な寸劇にも納得がいきます。展開が強引過ぎですので、もっとしっかりと計画を練ってから、悪事に勤しんだほうが宜しいのではないですか?ああ……初犯ですか?」

「違うわよ!何度もやってるけど、こんなこと今回がはじめて……あっ」


 ダラがうっかり口を滑らせたのを、ハルジは聞き逃さなかった。


「常習犯の割には……いえ、何でもないです」

「う、うるせえっ!とっとと金を払え!」

「はい?何を仰るのですか?金を払うべきは貴方がたですよ。僕は貴方がたに眼鏡の弁償を求めます。あの眼鏡は特注品で、クルーナ金貨3枚分の代物です。気軽に買い直すなんてことは難しいのですよ」


 本当は金貨2枚分くらいの代物なのだが、しれっと迷惑料として1枚追加して請求するハルジに夫婦は真っ青になる。王都の庶民の月収は凡そクルーナ金貨1枚とメン銀貨30枚ほどなので、眼鏡の賠償として月収二、三ヶ月分を請求されたら愕然とするのも否めない。


「おかしいだろ、何で俺たちが金を請求されるんだよ!?しかも金貨3枚!?ぼったくりだ!!!」

「強請りの常習犯に言われましても」

「ああ、もう……この野郎!巫山戯けやがって!痛い目みないと分からねえのか!」


 ダラの夫が酒瓶を持つ腕を振り上げる。それでハルジの頭を殴るのかもしれない。胸倉を掴む腕を払って逃げたいところだが、視界不明瞭という足枷のあるハルジには難しい。大怪我は免れないと覚悟して、自分を襲う強烈な衝撃に備えて身構え、目を瞑る。

 流血沙汰に発展したと野次馬たちも悲鳴を上げたが――酒瓶が叩きつけられ、割れる音はしなかった。


「酒瓶で人を殴ってはいけませんよ。当たり所が悪いと傷害ではなく、殺人になりますから」

「だ、誰だ、てめえっ!他人はすっこんでろ!ていうか、手を離せ!痛いんだよ、馬鹿力!!!」


 落ち着いた、中性的な声がハルジの鼓膜を叩く。突如現れた第三者の介入により、ハルジは大怪我を負わずに済んだようだと分かり、ほっと息を吐く。

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