第2話

 数時間後、通行人に発見されたジャンボは、ひとまず病院に送られたが死亡を確認され、翌日には訃報が大きくニュースになった。

息子のことについても記事は触れていたが、行方不明とだけ記された。

そもそも彼らは養子縁組もしていなかったため、息子と表記されることも本当はなかった。

 二人の同居人、は雨の中逃げ延びて、街の外までずっと走り続けていた。



「こうなるだろうと思ってた。そうしたら二人で逃げればいいと思ってたからさ」



 翌日、雨も上がり陽気の下で、バニラはなんでもない事のようにチョコに言った。

まるで晩ご飯のメニューはなんだっけ、なんてくらいの軽い声だ。

チョコはまだ混乱の中にいたが、バニラがあまりにも平気な顔をしているのに、なにか言いしれない不安を感じていた。



「バニラは俺が……憎くないのか?」



 チョコはやっとの思いで小さく震えた声を出した。

雨を避けるために見つけた廃屋の軒先で、バニラはきょとんとする。



「なんで?」



 チョコはゾッとした。

バニラには昨日の記憶がないのかと思うほど、いつも通りの顔で、声で、なにも変わりなく過ごしている。

これからどうしようか、なんて、当たり前のように聞いてくる。



「なぁ、俺は、人殺しなんだぞ」



 意味がわからなかった。

本来ならバニラから言われるはずのことをチョコが自分で口にした。

するとバニラは笑った。



「そんなのさ、アイツの方がよっぽど殺してたんだから、気にすんなよ。ははは」



 バニラは笑い続けた。

ああ、ネジが飛んでしまったんだと、チョコは唐突に現実に気がつく。

バニラの心はきっと壊れてしまったのだ。

それも器用に、ジャンボへの思いだけバラバラになってしまった。

気丈に振舞っているのではなく、本当に未練も罪悪感も、なにもかも失ってしまったのだろう。



「ごめん……バニラ……」



チョコは真っ青な顔で、バニラを見上げた。



「だから、なんでお前が謝るんだよ」



 バニラはずっと笑っていた。

現実的なことを考える脳だけが稼働して、心はぷっつり断線していた。

 どこへ逃げ延びようか、そうだチョコの叔父のところにしよう、お前が嫌じゃないならとりあえず世話になってもいいと思うよ。


 チョコは半分放心しながら、バニラの話を聞いていた。

出会った頃とほとんど同じだ。

表情のないチョコに、笑いかけるバニラ。

けれど、心はあの時とは正反対で、バニラの心の中には何も無かった。


 物になったジャンボの顔を見た瞬間から、バニラの思考は少しずつ軋んでいたのだ。



「あいつを恨んでた奴の仕業だっていえばいい。何とか逃げて、家も待ち伏せされてるかもしれないから、ここへ来たって」



 バニラはチョコにそう言うと、チョコの叔父の家の扉を叩いた。

すぐに応じた叔父は、二人の姿に戸惑いながらも、直ぐに中に入れてくれた。



「江白さんの話……新聞で読んだよ……よく無事だったね」

「狙ってたのはあの人だけだったみたいなので。でも一応用心して逃げてきたんです」



 途切れ途切れに話す叔父とは対称的に、バニラは雄弁にあることないこと話し続けた。

それもずっと笑顔のままだ。

チョコはその間もずっとうつむいて何も話さず、ただ着替えやタオルを受け取って、無言で頭を下げていた。



「とりあえず……二人ともウチで暮らすかい?」



 叔父はバニラの様子に戸惑いながらも、ずいぶん前に江白に提案した言葉を彼らにかけた。

バニラはチョコに視線を送った。

チョコはゾッと震える。

その目に確かにあらがえないような、狂気の光を見た気がしたのだ。

 チョコは頷き、やっとか細い声で叔父にお礼を言った。



「ありがとう……ございます……」

「本当に助かります。宿無しは辛いですから」



 バニラはまた笑ってふりかえった。

チョコはもう、どうすればいいか分からず、促されるままに着替え、食事を出されて少し口にした。

バニラはその間も、なにかをベラベラと話している。

誰もそれを止めるすべも分からず、チョコはもはやバニラの言葉も頭に入ってこなかった。

ただ、眠りにつきたかった。

全てを忘れて寝てしまいたい。そんなことを思いながら、寝室に案内された。


 寝室のベッドにそれぞれ横になり、やっと二人になると、バニラは急に静かになった。

チョコは話しかける余裕はなく、布団に入るとすぐにまどろみの中に落ちていく。

誰かが歩いていく気配があったような気がした。

しかし、もう、チョコは眠りの縁から真っ逆さまに沈んでいた。


 翌日、目を覚ましたチョコは重い体を引きずるように、上体を起こす。



「バニラ……」



 別に用事はないが、寝ぼけた頭で真っ先に彼に声をかけた。

しかし返事はなく、よく見るとベッドの上にも彼の姿はない。

チョコは急に背筋に冷たいものを感じ、はね起きた。



「バニラ……バニラ!」



叫びながら家の中をさ迷うチョコに、叔父はすぐに気がついた。



「どうしたんだ。バニラ君がいないのか?」

「いない……どこにも……」



 自分の言葉で再確認してしまい、チョコはその場にヘナヘナと座り込んだ。

すぐに叔父達も家の中や近辺を探したが、バニラはどこにもいなかった。



「一体どこへ……」



 もう彼らも17才だ。自由に動き回れるほどの年齢であり、そこまで心配する必要も無い程度ではある。

けれどチョコだけはずっと、バニラが居ないことを青ざめた顔で訴え続けた。

一度折れた棒は、二回目は耐えきれず粉々になってしまった。

そのことを知るのは四合院へと歩くバニラだけなのだが、自身でもあまり理解してなかったかもしれない。


 ぼんやりと歩いていた。

どうして、と訊ねられても、なんとなく、とそこらに散歩に行くような声で答えただろう。

バニラは見慣れた道を歩き、よく通った店を横目で見て、今日はなにが安売りかな、なんてどうでもいいことを考えた。


 そしてそのまま歩き続けて、四合院の門をくぐる。

ちょうど庭掃除かなにかしていたのか、隣人がすぐにバニラの姿を見つけた。



「バニラ!生きてたのかい…!よかった…」



 隣人は自分の事のようにバニラの無事をまず喜んだ。

バニラは笑って頭をかいた。



「俺もチョコも無事ですよ。ただ、チョコはショックが酷くて、叔父の家に置いてきたんです」

「アンタだって大変だっただろ!?一体なにがあったんだい……」



 隣人は泣きそうな声で訪ねた。

けれどバニラの笑顔は変わらなかった。



「あぁ、ジャンボは大量殺人犯だったんですよ。文革の間ですから咎められることは無いですけどね。その恨みで刺されたみたいです。

前にもバスを待ってる時に刺されたでしょ?あれと同じく他にも命を狙ってる人がいたみたいですよ」



バニラはずっと笑っていた。



「アンタ……悲しくないのか?」



 隣人はなにかおぞましい事が起きていることに気がついたのかもしれない。

バニラは笑ったまま答えた。



「どうしてですか?」



 隣人はもう、なにも言わなかった。

そしてバニラの嘘も察していたが、追求もしなかった。

仕立てのいい高級な服を着たバニラは、まるで別人に見えていた。


 バニラは黙り込む隣人に会釈をして、四合院の中へ入っていく。

荷物でも取りに来たのだろうか。

彼らのことを小さい時から見てきたはずなのに、関わりたくない、と隣人はとっさに思った。


 だから、四合院の中からかすかなうめき声が聞こえても気が付かなかった。

チョコの叔父である医者の家から消えた劇薬の瓶。

誰も消えたことすらも気がついていなかった。

バニラは役目を終えたように、どさりと床に倒れた。


 意識が薄らいでいく数十秒、バニラはずっと笑っていた。

狂ったような笑顔ではなく、微笑んでいたのだ。

この家のどこかにジャンボはいて、チョコもいて、自分もここにいる。

そんなことを考えて、床を見つめていた。



 これからも、さんにんで、くらしていく。



 バニラは心が壊れたまま、事切れた。

その遺体が発見されるのも、少し時間がかかった。

用意周到と言うべきだろうか。

狂気と正気が真っ二つに割れたバニラは、遺書を書き残し、自分がジャンボを殺したと記していた。

全てはチョコを守るため。

 他の手段もあっただろうが、もう疲れてしまったのだ。

もう、いい。



 倒れて動かなくなったバニラのそばに、ジャンボが歩み寄った。

そして彼の手を引いて、遠くへ歩いていく。

バニラはただ嬉しそうに笑った。

ずっと遠くへ二人は歩いて消えていった。

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