第52話 あの日の先に……(最終話)
「どうした? 」
朝から浮かない顔の新妻に、橋本は愛おしそうな微笑みを向ける。
「それがね、遥さんと連絡つかなくて……一番に報告したかったのに」
「遥さんか……そういえば俺の方も返事来てないな」
あの後、再び想いを伝えあった環と橋本は数々の試練を乗り越え、最近婚約したばかりだ。
「遥さん、辞めたら環の事なんてどうでもよくなっちゃったのかなぁ。もう、忘れちゃったとか……」
警察を辞め、親から勘当されたために環とは釣り合わないと、身を引くつもりだった橋本。
ソファーでくったりといじける姿さえ愛らしく、諦めなくてよかったと心から幸せを噛み締める。
「遥さんはそんな人じゃないよ、大丈夫」
隣に座り手を握りながら思う。
あの時、遥の言葉がなかったら側で想い続ける覚悟すら出来なかった。後悔したくない、そう思えたから今、環の隣にいられると。
「きっとまた、すぐに会えるよ」
「うん……そうだね」
環を頼む──亡くなる直前、丸山社長は橋本の手を握り、大切な孫娘を託していった。
繊細な環の心を誰より理解する橋本は、遥を探すと約束してから仕事に行くため外に出る。
「何してるんだろうな……あの人」
風のように爽やかで、澄んでいて、どこか危なっかしい人だった。
「また変な事に巻き込まれてないといいけど」
雲ひとつない青空を見上げ、ふっと思い出すように笑う。想像通り、遥は大きな事に巻き込まれてしまった。でも彼らがそれを知るのはまだもう少し先……かもしれない。
遥は忽然と、部屋から姿を消した。
「全部……手紙以外は全部、あの日のままだったの、本当に」
そう言って樹梨亜はまた泣き崩れる。
「樹梨ちゃん……」
「私が……私があんな事、言ったりしたから……遥責めたりしたから……」
遥が姿を消して1ヶ月。
樹梨亜はあの日の事をずっと後悔し続け、泣き暮らしている。
「悪いのは、樹梨ちゃんでもハルちゃんでもない……絶対、絶対あの人何か知ってるの。このまま終わらせる訳にいかない」
「でも……水野さんの言う通り、これが遥の意思なら? 理解のない友達ならいらない、そういう事だったら? 」
「そんなはずないよ……ハルちゃんは何もかも放り出して逃げたりしない。部屋もそのままだったでしょ? それに、あんなのおかしいよ」
夢瑠は樹梨亜に寄り添い髪を撫でながら、いつになく強い眼差しで空間を睨む。
「私達が行ってすぐ、泥棒が入って全部持って行っちゃうなんて……あり得ない」
「遥の身に……もしもの事があったら私」
「大丈夫」
樹梨亜の口からこぼれる、最も恐れている結末を夢瑠は強い口調で打ち消す。
「大丈夫だよ、樹梨ちゃん。ハルちゃんの事は夢瑠が探す。きっと、ちょっと遠くまでお散歩に行っただけで……すぐに帰ってきてくれるよ、だからもう泣かないで。お腹の赤ちゃんにも伝わっちゃう」
「うん……」
樹梨亜も夢瑠も、親友の突然の失踪に大きなショックを受けていた。
悲しみの果てに、泣き疲れて眠った樹梨亜と別れて、夢瑠は外に出る。
“遥さんはご自分の意思で出ていかれたのでは? それを私共のせいにされては困ります”
終始、笑みを崩さなかったあの人の言葉をまた思い出す。
遥が失踪してすぐ駆け込んだロイドショップ。樹梨亜と夢瑠は遥の居場所を知っているはずだと問い詰めたけれど、水野から満足いく答えが得られることはなかった。
“もし、私が遥さんの居場所を知っていると本当に思うならば、証拠を……お持ちください”
不敵な笑みに一瞬、真の姿を見た。
必ず見つける──その一心で歩き、公園へ。
「すみません、この二人を見かけませんでしたか? 」
公園に入るとすぐ、自分と同じように誰かを探す人。
夢瑠は微笑んで呟く。
「お兄ちゃん、ハルちゃんのこと大好きなんだね」
そこにいたのは遥の兄、和樹。道行く人に画像を見せてはあの日の午後、公園にいなかったかと尋ね回る、しばらく見つめていた夢瑠も、やがて加わり共に手掛かりを探し始めた。
春はもう少し先、でも必ずやってくるだろう。
「行かない方が、いいと思いますよ」
水野は、落ちぶれた姿に声を掛ける。
「まだ俺に気があるのか? 」
見当違いな返答で水野を呆れさせるのは草野英嗣、海斗の元父親であり、この件で最も多くの罪を作った男だ。
「今の俺に怖い物はない、強大な力を持つお方が助けてくださるのだからな」
「羽島を……あまり信用しない方がいいですよ、狡猾な男です」
「嫉妬か? おとなしく施しを受ければよかったものを逆らうから見捨てられるのだ」
“BR”の開発に失敗し、大量の粗悪品を売りつけた詐欺罪と横領の罪、加えて過去の坂野、山田、荒井ら三名に対する殺人罪、そして……あの日、遥の首を絞め殺そうとした殺人未遂罪など、助ける甲斐もないただの犯罪者に手を差し伸べる者などいないだろう。
行けば殺される──そんな単純な事さえも察知できない英嗣に、水野は心底呆れ果てた。
「あなたが……そこまで愚かだったとは」
もはや、どうなろうが知ったことではない、振り返り水野は歩き出す。
「おい! 一つ教えろ、海斗をどうした。お前の事だ、殺すはずがない」
立ち止まる水野。
振り返り嘲笑うように言う。
「さぁ……今頃は分解され、大学の研究室にでも送られているかもしれませんね。いずれにせよ、あなたが知る必要はありません。無関係、なのでしょう? 」
英嗣は海斗との関係を最後まで否認、水野にはそれが一番許せない事だった。暴れる英嗣は警察官達の手で無理やり車に乗せられ、去っていった。
「見捨てなければ今頃はあなたが……愚かなものですね、あなたも私も」
車が去ったその場を見つめる。
水野は宿敵だった英嗣を自らの手で裁かず、警察に引き渡した。羽島もどこかに逃げてしまい行方知れずのまま……倒す事は叶わなかった。
結果として負けたのかもしれない。
でも大切な何かを失わずに済み、英嗣に関する全てが、これで終わった。
「終わったな」
声を掛けるもう一人の男は内藤、水野は背を向けたまま言葉を返す事もない。
「相変わらず甘いな」
「そうですね」
「否定しないか」
二人の間にも、静かな、終わりの空気が流れている。
「それで? いつからこちらに? 」
「さあな、駒を動かすプレイヤーがいないんだ、最悪放置だろ」
羽島が消え、主のいなくなった組織は、恐らく反ロイド派襲撃の責任を問われる事になるだろう。
考えている事は同じ──あれほど憎く抜け出したかった組織がなくなるのに、残るのは虚しさだけだと。
「また……星でも見に来る」
言葉だけを残し、内藤も去った。
水野は、晴れた空を見上げる。
燦々と照りつける太陽、雲ひとつない青空、そしてエメラルドグリーンの海。
ここはどこよりも早く、夏が来る島。
「うーん、いい天気」
朝早くから窓を開け、ぐっと伸びをするのは遥だ。
「ねぇ、見て。すっごくいい天気」
「ん~……もうちょっと」
「だってお洗濯日和だよ、今ならタオルも布団もカラッと乾くんだけどなぁ~」
「ここはいつもそうだよ……遥ももうちょっと寝ようよ」
「もう……」
背後から遥を抱きしめるのは海斗。
二人はあの日、水野によって麻酔銃で眠らされ、この島に連れてこられた。
地図にはない南の果ての無人島、ここでの隔離された暮らしに耐えられるのなら、海斗と共にいることを許し、家族や友人に危害は加えない──怒る海斗の隣で遥は水野と約束をした。
「ごめんね……こんな所まで連れてきて」
「それは、言わない約束でしょ」
再びベッドに潜り込む二人、海斗は遥を抱きしめ、切なげな表情を浮かべる。遥はそんな海斗の髪を優しく撫でながら囁く。
「海斗……私ね、後悔してないよ。来てよかったって、海斗とずっと一緒にいられるのうれしいって……そう思ってる」
出会った頃より大人びた微笑みは、柔らかく海斗を包み込む、そっと抱き合う二人。
遥は水野の言葉を思い出していた。
“ここにいてもらいます、恐らく一生”
もう二度と、みんなには会えない。
お父さん、お母さん、タマ、夢瑠に樹梨亜、環ちゃん……それから兄貴も。時々、無性にみんなに会いたくなる。
涙が止まらなくなる。
海斗がこんな事を言うのも、そんな夜を知っているから。
ちょっとだけ目を開けて、海斗の寝顔を盗み見る。すやすや聞こえてくる寝息まで愛おしくて胸が暖かくなる。
海斗を、失うなんて出来なかった。
もし撃たれたとしても最後まで一緒に……あの時、そう願ったから海斗の胸に飛び込んで、それまでの私は死んだ。
家族や友達、今までの生活もこれからの人生も、もう何もない。
ただ天国のようなこの島で海斗といる。
罪悪感を胸に秘めて、溢れるほどの幸せを感じながら──ずっと二人で。
海斗の寝息と温もりに誘われて、眠気がゆっくり降りてくる。
閉じたまぶたに浮かぶ、陽に照らさられて輝く緑、鮮やかに咲くつつじの花。風を感じながら走る私を待つ、海斗の微笑み。
恋も愛も、自分の事すら知らなかった私に訪れた不思議な運命。
これが、私の幸せ。
これからも、ずっと、一緒。
小さなベッドにくるまれる二つの安らかな微笑み。遥と海斗は抱き合い、互いを感じながら眠りについた。
ロイドと人が共存する未来の街に生まれた不都合な愛。様々な壁を乗り越えて今ここに、二人の愛は叶った。
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