14.観覧車
夕方になると次第に団体客が減り、家族連れも帰り出す。
透一はデートの締めくくりには、定番の観覧車に乗ることにした。
日本の自動車生産企業の業界団体の出資によって建てられた、会場のランドマークとしても人気のパビリオンの観覧車だ。
「半分は建物に組み込まれた観覧車なんですか。不思議な趣向ですね」
「自動車業界のパビリオンだから、その建物の部分で車の歴史についての展示が見える観覧車らしいな」
透一とサフィトゥリは、観覧車を斜めに包む真っ赤な建物を見上げた。夕焼けの中そびえ立つ高さ五十メートルのパビリオンは、その一風変わったデザインも相まって絵になっている。
建物内に入り待機列に並ぶと、予約や整理券のシステムがないためか思ったよりも多くの人で込み合っていた。廊下に設置されたスクリーンに流れる車の歴史の紹介映像の音声とともに、待っている人々の話し声がざわざわと響く。
シュメール人による車輪の発明を説明する映像を見ながら、サフィトゥリは静かに語った。
「アステカやマヤの文明では、車輪は活用されていなかったそうですよ。もしかしたら車輪がないままに高度に発展した世界っていうのも、ありえたのかもしれませんね」
透一は一応世界史選択だったが、サフィトゥリの話は新鮮で面白かった。
その後スクリーンの映像はモータリゼーションの歩みから、時代を代表する車の紹介へと移っていった。二人の会話は子供のころに乗っていた実家の車の話や、免許をとったときの話にまで広がり、待ち時間は自然に過ぎて行く。
登場口が近づくと、赤と白のツートンカラーのスポーティーなジャケットを着たアテンダントの女性が、人数をカウントしながら透一とサフィトゥリを奥へと案内した。
「大変お待たせしました。お二人様でございますね。そうぞお進みください」
照明が落とされた搭乗口に通されて、二人はゴンドラ部分に乗り込む。座席はコの字に配置されていて、透一がまず端に座ると、サフィトゥリはその反対側ではなく隣に座った。
「隣、いいですよね」
(えっ? そんなすぐ近くに座ってくれんの?)
自然に距離を詰めてくるサフィトゥリの行動に、透一は狼狽えつつも平静を装った。華やかな赤いワンピースを着たサフィトゥリは普段よりもスタイルがよく見えるのて、その脚や胸が目に入ると緊張する。
ゴンドラが徐々に上昇へと進んでいく中、座席上のスピーカーから音楽とナレーションが流れる。
『人間はその誕生から、移動への夢を抱きました』
爽やかな男性の声が、このパビリオンの主題を読み上げていく。
するとゴンドラの窓の外にある建物の壁に、ラスコーの洞窟画が現れる。洞窟画の動物たちには、自由に大地を走り回るアニメーションがつけられている。
「観覧車から見える展示ってよくわかってなかったんですけど、こういうことだったんですね」
サフィトゥリは感心した様子で、ゴンドラの窓を覗き込んだ。
しかしサフィトゥリが膝が触れ合いそうなくらいにそばにいることに気をとられて、透一は演出を楽しんでいる場合ではなかった。
ゴンドラの上昇にあわせて、建物の壁にはドンキホーテの物語や南蛮屏風、自動車や船の設計図などの移動にまつわるものが次々と映し出される。
そして音楽も感動的なものへと変化し、ナレーションの内容も終わりに近づいていった。
『人と車と地球が、共に成長し生きていくこと。これが私たちの願いであります』
男性の声がそう話をまとめたとき、ゴンドラは屋外に出て窓の外には会場の夜景が広がった。
「建物がライトアップされて、綺麗ですね」
「そうだな。ちょうど良い時間に来れた」
サフィトゥリの端整な褐色の横顔が窓のガラスに映り、外の夜景と重なる。
夜の闇の中でミニチュアのように白く輝く万博会場は、壮大というわけではないけれども確かに綺麗ではあった。元々は夕日の時間に乗る予定であったが、混雑によって遅れてかえってよかったのかもしれない。
「あ、あそこに月も見えます」
西の空の端に浮かぶ三日月を、サフィトゥリが指を指す。かすかに夕暮れの朱色が残る空に見えるその月は、今すぐにでも見えなくなってしまいそうな儚げなものだった。
「なんか、今日見た未来館の内容を思い出すな」
「もしも月がなかったら、ですね」
サフィトゥリの落ち着いた声で言われると、その言葉は妙に詩的に聞こえた。
三日月を見つめて、サフィトゥリは月の話を続けた。
「私は子供の頃に、月が欲しいと親に駄々をこねたことがあります。それはできないことだって言われると、もっと欲しくなるんです」
サフィトゥリの語る彼女の幼少時代は、思ったよりも子供らしくて突飛だった。今の大人っぽい姿からは、少々想像しづらい。
「透一さんにはそういう経験、ありませんか?」
月から目を離して、サフィトゥリは透一を見た。
透一は遠い子供時代を思い出しながら答えた。
「俺は無理だ駄目だって言われると、すぐに諦める子供だったよ。今はもうさらに、それはそういうものなんだって最初から自分で深く考えないようにしとる」
そう言った透一の声は、不思議といつもよりも深く澄んだ響きを持った。
透一はおもちゃ売り場で駄々をこねた覚えがない。誕生日やクリスマスには買ってもらえたので、断られれば黙ってそうした機会を待っていた。
無理なものを求めないくせを幼少時からずっと培ってきたために、大人になった今も不可能なことには取り組まない。
そして透一は自分が恵まれた裕福な人間であることを知っているから、不足を声高に主張はできない。
唯一大学受験の失敗だけは透一に欠乏感を感じさせたが、それでもこれで十分だと満足するべきだと心のどこかでは思っている。
素朴な透一の答えに、サフィトゥリは共感とは遠い好意を向けて笑った。
「それじゃあ透一さんは、私とは逆ですね。私は今もずっと欲しいですから」
「何を? 月を?」と尋ねようとすると、サフィトゥリがいたずらっぽい顔で透一の手に自分の手を重ねる。
(きっと彼女が欲しいのは俺じゃない。だけど俺は、一応は彼女に好いてもらえとるのか?)
ゴンドラは頂点に差し掛かっていたが、透一はその眺めを堪能することはできなかった。
サフィトゥリの指は細く長く、そして案外冷たい。透一は恐るおそるサフィトゥリの手を握った。
するとサフィトゥリは、わざわざ指を絡めて握り返す。そこまでしてもらってやっと、透一はサフィトゥリに本当に許可を与えてもらった気がした。
サフィトゥリの深い紫色の瞳が、透一を映す。サフィトゥリは透一にとって異邦人であり、透一もまたサフィトゥリにとって異邦人だ。
透一はサフィトゥリの顔に自分の顔を寄せ、そっと目を閉じてキスをした。サフィトゥリが透一に動きを上手い具合に合わせので、くちづけは甘くやわらかいものになった。
(愛も貨幣と同じ単なる
好きな女の子と過ごす時間の中で、透一はある学者の「愛」についての研究の内容を思い出していた。心臓の鼓動は速まり顔は熱かったが、いざキスをしてみると頭の中は妙に落ち着いている。
その学者はドイツの社会学者で、一人一人の人間によって構成される集合が社会なのではなく、コミュニケーションによって成り立っているシステムこそが社会であると考えた人物だ。
つまり社会はシステムでしかなく、人間は社会の構成要素ではないのだから、人間が話し合って合意したところで平等で公平な社会は成立しないのだ……と、透一は彼の理論を理解している。
例えば貨幣は、本当は誰のものか決めることのできない物品の所有権を、誰かに定めるために使われる。
同じように「愛されている/愛されていない」を二元コードとするメディアとしての愛は、真実の愛が不確かでわからないからこそ、親密性を維持するために使われる。
様々な言葉や振舞いを愛という言葉でまとめてしまえば、複雑な問題は隠されて、コミュニケーションは楽になる。そして愛というメディアによって維持される親密性が、社会を安定させ発展させるのだ。
(こうやってキスができる=愛し合っとるってことになっとるのが、物事を円滑にする社会のシステムらしいな。このシステムがあるからこそ、俺は彼女からの好意を受け取ったと思うことができる)
そっとサフィトゥリからくちびるを離した透一は、手と手はまだ絡めて握り合ったまま目を開けた。たとえ二人を結ぶのが合理的なシステムでしかなかったとしても、透一はそれが寂しいことだとは思わなかった。
サフィトゥリは施しを与えるように微笑でいて、今度は彼女がキスをする側としてのくちづけをした。
淡いゴンドラ内の照明の下、透一とサフィトゥリはコードに基づき愛し合う。
くちづけや告白によって、コミュニケーションは断たれると同時に強化される。一定の手続きや言葉、行動があることによって証明は終わり、愛は存在可能になるのだ。
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