6.大学の授業1

 二〇〇五年四月二十日、水曜日の午前九時二十分頃。


 名古屋はあいにくの雨の日。


 透一は一コマ目にとった購読の授業を受けるために、大学の講義室の後列に座っていた。


「テキストがまだ購入できてない人は、今日の分をコピーしてきたので前まで取りに来てください」


 パーカーにジーンズと学生とそう変わらない服装の教授が、プリントを前の席の机に置きながら指示を出す。サブカル寄りの民俗学が専門の教授の授業のテキストは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』だ。


 透一は隣の席の椅子に置いた鞄から、買ったテキストと筆箱、ルーズリーフを出し、あくびを噛み殺した。


 大学らしい斜め階段の講義室には、四、五十人の学生が座っているが、一、二年生が多いのか知り合いはいない。入学当初は友人と受講することも多かったが、三年生になるとわざわざ時間割を合わせることも減っていた。


「先週は二章目の「文化的根源」まで読みました。アンダーソンは一九八三年の出版当時の、イデオロギーだけで説明がつかない紛争を説明するために、国民的帰属ナショナリティという言葉を掘り下げています。そして国民的帰属ナショナリティを生んだのは近代から始まった新聞や小説による出版資本主義である、というのが二章目の内容でした」


 教授が軽く先週の内容をまとめ、用語を黒板にいくつか書く。


「第三章は出版資本主義がどのように言語のあり方に影響を与え、国民国家の誕生に関わったかという内容になっていきます。短い章なので、九時四十分を目途に、全部黙読してみてください」


 教授の声に従い、教室はしんと静かになって黙々と黙読を始める。


 透一もページをめくり、読み始めた。


 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、戦争や革命において人がなぜ国家や顔を知らない同胞のために命を捨てることができるのかについて書かれた本だ。ナショナリズムを政治的に捉えるのではなく、宗教や文学のように考えたのが、一九八〇年代当時は先進的だったらしい。


 無名戦士の墓と碑。


 こうしたものが存在することができるのは、言語の原初性によって、同胞愛による共同体が想像されるからだと、アンダーソンは説明する。匿名の顔の無い同胞が、言語を通して形作られる。同胞愛に限らず、愛にはいつもどこか他愛のない想像力が働いている。


(例え話が古めだけど、言っとることはわかるような気がするな。グローバル化とか言われる時代になっても「祇園精舎の鐘の声」って言ったときの感覚を共有できるのは、やっぱり日本人って感じがするし)


 透一は読みながら、本が書かれた時代と現代の共通点と違いについて考えた。ナショナリズムが近代に作られたものだとしても、イコールそれに価値がないわけではないとするアンダーソンの姿勢が、透一には好ましく感じられた。


(全部が全部グローバルってわけにはいかないよな)


 教授が指示した部分を読み終え顔を上げると、まだ時計の針は九時三十五分を指していた。


 暇をもてあました透一は、直樹から借りた漫画を鞄から取り出し読み始めた。こうした自由な授業態度がある程度許されるのも、大学生の特権だった。


 透一はこうした講読の授業を受けているように、人文学系の大学生である。専門は文化人類学か人文地理学か民俗学か、それとも社会学かと定まらないが、とりあえず人文学部で学んでいる。

 在学している大学は愛知県内ではトップクラスの名門私立大学で、透一は対外的には勉強のできる青年ということになっている。


 しかし透一は最初からこの大学に入りたかったわけではない。元々は隣の国立大学を目指していたのだが、受験に失敗し浪人する度胸もなく、すべり止めのこの大学に入学することにしたのだ。


 さらに遡ると、透一は文理選択でも挫折を経験している。透一は元々理系志望であり、工学部などものづくりの学部に憧れていた。だが普通に数学が苦手で、理系を諦め文系を選択したのである。

 数学は壊滅的だが英語や古文が得意というわけでもない透一が、とりあえず受かりそうな学部を選び続けた結果が今この大学のこの学部だった。


(この大学も、人文学系の学問も好きだ。だけどものづくり愛知に生まれたからには、なんとなく工学部を出て製造業に就いてみたかった気がするんだよな。考え方が古いのかもしれんけど)


 透一は漫画を読む頭の片隅で、自分の学歴について考えた。高校の文理選択での挫折、そして国立大学の受験の失敗を、透一は未だに引きずっていた。学歴厨と揶揄されても、まだ二十歳の透一の人生の半分以上は学校にあるのだから、気にせずにはいられない。


(過去の敗北を忘れられるくらいの大学生活を送ることができれば、あるいは……)


 そう思ったときに、一人の異性の姿が思い浮かぶ。すると漫画のページをめくる手が止まるほどに、透一はサフィトゥリに会えることが楽しみだった。

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