怨嗟の誓約

シノヤン

プロローグ


 湖のほとりを横切る街道では、馬車の荷台に揺られながら一人の少女が朝靄のかかる光景を退屈そうに眺めていた。


「大きな音を立ててはいけないぞ。魔物が現れるという噂がある」


 手綱を掴んでいる老人が背後にいる少女へ優しく語りかけた。


「ホントにいるの ? 見た事ある ?」

「いや、おじいちゃんはまだ無いよ」

「な~んだ、つまんない」


 少女は顔をもたげて老人に聞くが、期待していた回答と違ったらしい。不貞腐れて再び湖とそれに隣接している深い森へと視線を戻す。遠くから聞こえる野鳥の鳴き声に耳を澄ませていた時、ふと聞き慣れない音が混じっていた。何かの鳴き声のようだったが、普段から目にしている猫や犬といった生物とは明らかに違う。


「今のは何 ?」


 少女は少し怯えながら尋ねる。


「アレは鹿だよ。怖がることはない」


 あの程度で怖がるとはやはりまだ物を知らない子供だ。老人は微笑ましい気持ちになりながらも答えた。その時、前方に人影が見えた。ぬかるんだ道の真ん中で誰かが立っているのだが、明らかにデカい。決して小さいわけではない筈の自分でさえ見上げてしまうだろうと思わせる長身だった。念のため、少女に向かって身を低くして隠れていなさいと老人は伝えると、再び人影の方を見る。


「お、おいアンタ…」


 馬車を停めて老人が呼びかけると、湖を睨んでいてた人影はゆっくりと彼の方を向いた。女性のようだが、服の装飾で隠れているせいで顔の下半分が見えない。しかし、只者では無い事が爬虫類を思わせる縦に伸びた瞳孔などから見て取れた。


「…サラザール」

「へ ? 」

「ちゃんと名前で呼んで。私はサラザール…”アンタ”じゃない」


 小さな声で呟きが聞こえたかと思えば、目の前の女性が老人の方を向く。そして呼び方の訂正を求めだした。名乗りすらしなかった癖に面倒くさい性格をしてる女だと、眉をひそめるなどして老人は邪見そうにしてしまう。


「それは悪かったな、サラザールさん。ここで何をしているんだ ? 」


 改めて目的を聞こうとした直後であった。湖の水面が泡立ち、波を打ち始める。


「… ! 離れた方が良い。危ないから」

「一体どうした――」


 その只ならぬ様子に気づいたサラザールが警告を発し、老人はさっきから何が目的なのかと質問を続けようとする。しかし、水面から勢いよく飛び出た魔物と、それを見た少女の叫び声によって話は遮られてしまった。


「バンイップ !」


 まばらに生えた薄汚い体毛の下に鱗で覆われた皮膚、先端に太く鋭利な爪を生やしている水かき、そして巨大な一つ目と無数に生えている牙。異常な風貌をしているその怪物を見た老人は思わず魔物の名を叫んだ。そしてその魔物の背中には剣を突き刺し、暴れ馬にしがみ付くかの如く振り回されている青年の姿がある。だがすぐに手から剣の柄がすっぽ抜けてしまい、老人達より遥か前方の地面に叩きつけられてしまう。


 泥だらけになった青年は立ち上がってから、魔物の体に剣が刺さったままである事に気づく。すぐに武器を持ち替えようと背負っている弓に手を伸ばすが、手元で確認をしてみると壊れており、すぐに悪態をついてそれを投げ捨てた。先程叩きつけられた際の衝撃で折れてしまったのである。


「クソ…」


 青年が呟いて間もなく、バンイップは老人達とパニックになって嘶いている馬に視線を向ける。まあ、こんな事もあるかとサラザールは思いつつ溜息をつく。そして老人達とバンイップの間に立ち入った。


「どうするつもりだ⁉」


 老人の声を無視し、サラザールは数回ほど準備運動代わりに小さくジャンプをする。そして首を鳴らしてからバンイップに向かって指で挑発をした。バンイップは怒ったのか一気に四足で走り寄って飛び掛かるが、振り下ろされた大きな前足を彼女はいとも簡単に受け止めてみせる。ヒール状になっているブーツの踵が泥に沈み込むが、彼女の目元や呼吸は不気味な程に穏やかだった。


 青年は急いで駆け出し、何かを口で唱えた。するとバンイップの背中に刺さっていた剣がひとりでに抜け、青年の掌へと吸い込まれるように飛んでいく。青年が剣をキャッチした事を確認したサラザールは、怯ませるために暇を持て余していたもう片方の腕でバンイップの顎を殴り飛ばした。


 大きくよろけたバンイップの背中に青年は再び飛び乗り、今度は一太刀の下にバンイップの首を切り落とす。背中から飛び降りる勢いを利用して切る瞬間、老人には青年の剣が一瞬だけ黒く見えたが、瞬きをした頃には見慣れた鋼色の剣が血に濡れているのを目撃し、気のせいだったのだろうかと割り切る。


「…すまない」


 バンイップの死体を見つつ、青年はサラザールに謝罪をした。


「これに懲りたら、魔法を使わずに魔物を倒す修行をやるなんて言わない事ね。せめて時と場所を選んで」


 サラザールは呆れながら彼の軽率さを叱り、彼らが巻き添えを食らう所だったぞとでも言う様に老人と少女の方へ視線を送る。青年もそれに合わせて老人達の方を申し訳なさそうに見つめた。


「騒がせてしまって悪かった」


 青年は謝った後に剣を拭いて鞘に仕舞い、サラザールと共に歩き出そうとする。経緯はどうであれ、危ない所を助かったと感じた老人は何かを閃く。そして怯え切っている様子の少女の方を見てから、背中を向けて歩き去る二人組へ再び目を向けた。


「なあ兄さん、あんた名前は ? これからどうするつもりなんだ ?」


 老人の呼びかけに反応した青年は思わず足を止めて振り返る。


「ルーファンだ…この先の街に用がある」

「成程、ルーファンか。なあルーファンさん、もし良ければ乗っていくかね ? その街には、私も丁度用事がある」


 青年が躊躇いを見せつつも自己紹介をして目的地を伝えると、老人は頷いてから提案をする。ルーファンとサラザールは少し驚いたようにして顔を見合わせた。


「だが、街まではまだ相当な距離があるぞ」

「かといって歩きじゃ疲れるだろう。それに、この辺りは魔物の目撃情報も多い…見張りを出来る人間が必要でな。理由はどうあれ、先程助けられた礼も兼ねてだ」


 遠慮がちな様子のルーファンに対して、老人はただで乗せるわけではないとしつつも笑いながら二人を手招く。サラザールは自分を見て来たルーファンに「お好きにどうぞ」と、揶揄うように言った。


「分かった…感謝する」


 礼を述べてからルーファンはサラザールを連れて馬車の荷台へと乗り込む。そして物珍しそうに二人を見ている少女と目が合うと、ルーファンは少しだけ微笑んで見せた。

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