43 調査隊

 ピエレットからの依頼は唐突だった。

 トニアはいつもよりは控えめに抑えた鞄の厚みを抱え、身を小さくしながら四方八方から聞こえてくる渋い声とはきはきとした物言いを通り抜けて後方の席へと座る。

 椅子に腰を下ろすと、空調のためにつけているエンジンの細かな振動が頭部にまで届いてきた。

 鞄を膝の上に置き、閉じかけられているカーテンをそっと開いてみると、眩しい朝日が不意に目を焦がす。

 小さく唸り声を上げて目を逸らすと、どさっと勢いのままに腰を掛けたと同時にトニアにもたれかかってくる重みが彼女を窓へと押し込めた。


「トニア、急にお願いしちゃってごめんね!」


 今日、トニアがここに来る理由を与えたピエレットだった。彼女はポニーテールを揺らして身軽な様子でトニアに軽く抱きついてくる。


「ううん。こちらこそ、楽しそうな機会をありがとう」


 トニアは朝から元気なピエレットの笑顔に小さく首を横に振った。ぽんぽん、とピエレットの腕を叩き、彼女が自分から離れるのを待つ。


「でも、公開前の建物の調査だなんて、私なんかが参加しちゃってもいいの?」


 ピエレットが離れると、トニアはずっと気になっていたことを口に出す。ピエレットはなんてこともない顔をしてバスの前方に座っている専門家たちをじっと見てからトニアに視線を移した。


「うん。トニアほど知識がある人をわたしは知らないし」

「そ、そんな……照れちゃうじゃない……」

「みんな、トニアが来てくれるのを喜んでたよ。新進気鋭の存在が嬉しいってさ」

「ピエレット、みんなに私のこと、なんて言ったの?」

「えーっと……マニトーアから来た稀代の天才?」


 ピエレットはにっこりと微笑んで得意げに人差し指を立てた。


「ちょ……そ、そんなことないのに……! 逆にやりずらいよ……」

「まぁまぁそう言わないで。一番の責任者でもあるネルフェットが推薦したって言っておいたから、大丈夫だよ。人手不足は誰だって嫌だしね」

「…………うん」


 ネルフェットの名前を聞き、トニアは彼の顔を思い浮かべて胸を撫で下ろす。根拠は分からなかった。けれど彼のことを思い出した瞬間、見知らぬ世界に迷い込んでしまった異邦人が足を滑らして崖から落ちた先に、すべてを包み込む特大クッションが自分を受け止めてくれたような、そんな不思議な感覚に心が包まれ、やけに落ち着けたのだ。

 トニアがその違和感に眉をしかめたところで、ちょうどバスの運転手が乗り込んできて、皆が次々に席へとついた。


「えー、皆さん。本日は朝早くからありがとうございます。今日調査する建物は、二百年ほど前に建てられたとされ、およそ百年前から立ち入り禁止となった屋敷。通称、”クジラの館”になります。長らく管理者も不在にしていたのですが、事前調査の中でも状態が良く、王子が計画されている文化的価値の継承と公開にちょうどいい足掛かりになると考えられます。造形としても写真家が集って外観を撮影するなど、人気も高いです。今日の調査で何か懸念事項などはないか、改めて洗い出していきたいと思いますので、皆さん、どうかよろしくお願いいたします」


 運転席の隣に立ち、バスガイドのようにすらすらと喋る女性は今回の調査隊のリーダー。トニアは眼鏡をかけた短髪の彼女の言葉に真剣な眼差しを向ける。

 彼女のことをトニアも知っている。ソグラツィオではかなり有名な歴史文化学者で、特に建造物などに造詣が深い。建築の専門家ではないものの、トニアにとって憧れの一人でもあった。

 そんな彼女と一緒に古い建造物の調査に行けるのだなんて。

 運転席の後ろに座った彼女の後頭部を瞳孔を開けたまま見つめていると、ピエレットの笑い声が横から聞こえてきた。


「やっぱり、誘ってみてよかった」


 ピエレットの嬉しそうな声に、トニアの心も小さく弾む。


「うん。本当。本音は嬉しくって堪らないんだ。緊張するけどね」


 トニアは肩をすくめてはにかんだ。

 ピエレットがネルフェットに建造物の調査隊の一人としてトニアを推薦してから一週間後のまさに今日。トニアはピエレットの誘いに前のめりに承諾し、このバスへと乗り込んだ。

 ネルフェットが企画したという歴史的建造物の公開。ピエレットからその話を聞いたとき、トニアは以前彼に連れて行ってもらった古城を思い出した。

 その時の興奮をトニアはいつだって、何をしていようと鮮明に覚えている。自分のような人間ばかりではないことは知っている。けれど、きっと自分だけではないことももちろん想定できること。


 ロマンに大いに魅了された人間の一人でもある彼女は、彼の考えに当然賛同した。そんな素晴らしいことを考えていたのだなんて、一言も漏らしてくれなかったことが寂しいくらいに。

 だからこそトニアは身の程知らずと言われようともピエレットの提案に甘えたのだ。もうすぐ資格試験の本番を迎える彼女にとってはまたとない機会。周りは当然、名の知れた専門家や実力のある研究者ばかり。自分が彼らと比べることもできない存在なのは承知の上で、それでも協力できることはやってみようと、足を踏み出した。

 バスに乗っているのはトニアとピエレットを含めて十人もいない。その中に自分が入れることを光栄に思い、トニアは膝に乗せた鞄を支える手に気合いの力が入る。


「そうそうトニア。詠唱会の招待状はもう受け取った?」

「え?」


 まだ先は長い道中。ピエレットは景色を見るのに飽きたのかトニアに新しい話題を振った。


「ミハウさんが送ったって聞いたからさ」

「うん。受け取ったよ。この前ポストに届いてた」


 トニアは試験の後に行われる詠唱会のことを思い出し、こくこくと頷く。


「ピエレットは? 行くの?」

「ううん。わたしはその日も研究室にこもるつもり。まぁ王宮に居れば中継で見れるしね。それでいいかな」


 ピエレットは指にできたささくれをいじりながら答える。


「研究、大変……? ごめんね、もしかして、私のせいでも、あるかな……?」


 王室にとっての一大イベントでもある詠唱会に参加できないほどピエレットは忙しいのかと後ろめたくなり、トニアは眉を下げた。

 彼女の研究と言えば、今や自分も無関係ではない。トニアは片時も離れないその自覚に胸が痛くなる。


「とんでもない! むしろトニアのおかげで、研究所でもわたしの研究に興味持ってくれる人が増えたんだからね。わたしにとっては万々歳! 研究仲間が増えた方が出来る幅が広がるもん」


 ピエレットはしゅんとするトニアに向かって大きく手を振ってあっけらかんとした様子で笑った。ぎゅっと右手首を抑えるトニアの左手を見て、ピエレットは穏やかに目元を緩める。


「大丈夫だから、本当に何も気にしないで?」

「…………うん」

「それより、ミハウさんとはその後どう? 色々あったって聞いたけど、直接ミハウさんとかと話す機会はあんまりないからさ……。トニア、無理したりしてない?」


 ピクリと、トニアの人差し指が動く。幸いにもピエレットに見えていなかったのが彼女にとっては救いだった。


「うん。ちょっと問題を起こしちゃったりしたけど、今は全然、もうミハウさんのことも怖くないし」

「……ん? ミハウさんのこと怖かったの?」

「あ……えっと……そういう怖い、じゃなくて、その……」


 思わず本音が出てしまったトニアはピエレットが首を傾げるのを見て慌てて言葉を取り繕うとした。しかしつい先ほど別の感情を隠した彼女にとって、新たな蓑を纏うのは難しく、トニアは口元がまごついた。


「いいよいいよ。そうだよね。あんまり知りもしない人のこと、そりゃ怖いよね」


 その間にもピエレットはトニアの本音を自己解釈してくれたようで、にこにこと爽やかに笑ってみせる。

 トニアは彼女の解釈に同意するように情けなく笑い返すと、もう一つの懸念を隠し通せたことにほっと一息ついた。


「やっぱり、その紋様って本物……なのかな」

「……え?」


 頬杖をついてトニアの右手首をぼうっと見つめるピエレットは、空気が抜けたように呟いた。


「夢にまで見た伝説が目の前にあるのに、なんか不思議だなぁ」


 ピエレットは少しつまらなさそうな顔をして唇を尖らせる。はじめてこの紋様を目にした時の彼女の表情とは対照的で、トニアはぱちぱちと瞬きをして彼女の瞳を窺う。


「なんか、あっさりしてるっていうか……あまりにも不意だったものだからさ。灯台下暗しって感じ」

「ふふ……嬉しくはないの?」

「嬉しいよ? でも、ずっと追いかけてきた獲物を何かの拍子にちょんって捕まえちゃったみたいな、そんな感じがするっていうか。……でもまぁ、夢に手が届く時って、もっとこう、燃え滾る何かがあるって期待しすぎてただけなんだろうけど」


 ピエレットは恥ずかしそうに頬を緩めて笑うと、小さく舌を出した。


「燃え尽き症候群? ふふふ。ピエレットには似合わない言葉に聞こえるけど、そういうこともあるのかもね」

「……そうなのかなぁ? なんかしっくりこないのは」

「それか、疲れているだけなのかもね。でも模擬試験に惨敗した私にとっては、燃え尽き症候群だって羨ましいけど」


 トニアがピエレットをからかうようにつつくと、ピエレットは彼女につられるようにして笑い声を出す。


「大丈夫だよトニア。きっと本番の試験は上手くいく! トニアは本番に強い子でしょう?」

「そんな自覚はないけど、そうだと願う……!」


 パンッと手を叩いて祈りのポーズをとったところでバスはゆっくりと停車した。どうやら目的地に着いたようだ。

 がやがやと皆がバスを降りる準備をする中、研究員の一人の荷物運びを手伝い始めたピエレットを横目に、トニアは組んだ手を鞄の上に乗せ、小さく祈りを捧げる。


 試験も当然上手くいって欲しい。けれどもう一つ、トニアにはやるべきことがある。決められた日程に向かって取り組む試験とは違い、こちらは自分次第。機会を窺っていて、まだその時は図れていない。

 トニアは家に大事にしまっている古い楽譜を脳裏に浮かべながら深呼吸をした。

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