40 缶詰め
トニアがかぶりつく机の上にはたくさんの文字を羅列している紙の束が幾重にも重なり合い、彼女は乾燥してしまった指先でまた新たなページを開く。
新聞を捲った拍子に隣を通りがかった人に手がぶつかり、トニアはその人物を見上げて咄嗟に頭を下げた。相手は小さく手を挙げて問題ないと主張した。
再び新聞に目を向けるトニア。ここは図書館。今日は開館と同時にこの席に座り、飲食も忘れてひたすら過去の新聞を漁っている。
彼女の眼差しは何時間経とうとも希望を見失うことはなく、つぶさに紙面のすべてに目を通す。
もう何日分の新聞を目にしたのか覚えていない。トニアは読み終えた新聞を畳み、丁寧に並べた束で新たな塔を築く。
「うぅー…………」
凝り固まった身体を上に伸ばし、脱力しながら気の抜けた声を出すと、緩んだ筋肉に温もりを感じた。
「なかなかないなぁ……」
思わず独り言が出てしまうのも無理はない。孤独な作業には息抜きがつきものだ。トニアはこれまで読んできた新聞をぼうっと見つめたまま両腕を机にのせてから身体を預ける。
「……あーあぁ」
ふぅ、と息を吐いて今にも眠りそうな態勢に入るトニアは、重くなってきた瞼に抵抗しながら顔を傾けた。
トニアの本日の目的。それはミハウの父の行方のヒントを得ることだった。過去の報道で、ミハウの父が病に倒れ、職を退いたことは載っていた。しかし当然のことながら続報は何もない。トニアは積み上げた束から分けて置いていた号を手に取り、紙面の中からこちらを和やかな瞳で見ている男性と目を合わせる。
「ふふ……やっぱり、少し似てるんだ」
垂れた目元をしていて、とても穏やかな顔つきの男性はミハウの父親。彼が職を離れた時に彼の過去の栄光を惜しむ記事が掲載されたようだ。トニアはミハウの顔を思い浮かべ僅かに微笑む。
思い出すのは、先日彼と一緒に行った劇団の公演のこと。ミハウがトニアに歌を聴かせてくれた会場で、あの時舞台を貸してくれた劇団に誘われて見に行った。ちょうど、ミハウにチケットが送られて来たらしい。
ソグラツィオに来てから一度もチケットを取って公演を観に行く機会がなかった彼女は迷わずミハウの誘いに乗った。そのおかげか、真剣な表情で演技に見入っていた彼の芸術に対する情熱をすぐ隣で知ることができた。
彼はトラム以降、トニアに過去を語ることはない。それでも、前よりも邪険な表情をする回数も減った。
トニアは気合いを入れ直し、両手で頬を叩いて起き上がる。
「がんばるぞ……!」
彼のために出来ることは全うすると決めた。諦めてはいけない。
トニアはどうにか彼の父親の消息を辿ろうと再び情報の束と向き合う。
自分がネルフェットに害を及ぼすのではないかと懸念したミハウ。恐らくそれも、彼にとって家族同然でもある大事な友人を傷つけたくないから。
自分の父親のように彼の尊厳、いや、個人そのものが傷ついてしまうのがミハウは怖いのだとトニアは考えていた。父親のことを語ったミハウの表情。押し殺してはいたものの、やはり彼の傷口はまだ塞がっていない。
離婚をしたという母親に対しても負い目を感じて連絡することすらできないという。
彼が背負う必要のないものを、彼はまだ抱え続けている。ネルフェットや父親だけではない。きっとミハウ自身も傷ついて、ずっとその傷に気づかないまま、あるいは向き合うことを拒んだまま亡霊のように足跡を残し続けている。
大きく開いた新聞を持つ手にぐっと力が入った。
もし父親のことが何か分かれば、彼を縛り続けている暗闇にも変化の兆しが見えるかもしれない。闇がミハウのことを好んでいるのか、決して手綱を離そうとはしてくれなかった。
けれどいつまでもそうはさせない。
彼はもう十分すぎるほどの憂苦を胸に留め続けてきた。彼の憂心を目の当たりにしたからには、出来得る限りの可能性を当たって本来の彼の心を取り戻す。
トニアの右手首の紋様は、今や彼女の目には映らない。
彼女は無心で新聞を手に取り、図書館にある事件以降の新聞をすべて読み尽くす覚悟で挑んだ。
閉館時間が近づき、係の人たちが仕事を終えようと動き始めた頃、トニアは幾枚目かも分からないページに目を落とす。しょぼしょぼとしてきた瞳には目薬を差したばかりで、先ほどよりも冴えていた。
それが功を奏したのかは分からない。しかしトニアは目に入った小さな記事にガタンッと音を立てて足を踏み鳴らす。
「……これ……!」
真っ黒になった指先で紙面を指す。長時間集中力を張り詰めすぎていたせいなのか頭には不協和音が響き始めていた。頭痛に堪えながらトニアは新聞を手にしたまま立ち上がる。
突然立ち上がったため、血が一気に湧き上がって一瞬立ち眩みを感じた後、トニアはもう一度その記事を読み込む。
記事には、外国で起きた怪奇事件について書かれていた。マニトーアで原因不明の外国人の死亡事故あったことについて触れていて、被害者は身体に傷はなく、解剖をしても何も異常がなかったとある。
マニトーアでの事件にもかかわらず記載されていたのは、恐らく被害者はソグラツィオ人であることが推測されたからだった。身元不明の男性。時期はミハウの父親が追放されてからちょうど半年以内。調査は打ち切られて、マニトーアの警察は信用がならない、との苦言で締められている。
トニアはどくどくと心臓が嫌な音を立てるのが聞こえてきて、ごくりとつばを飲み込んだ。
ここに書かれている被害者がミハウの父親であるかは定かではない。しかし、時期的にはちょうど当て嵌まってしまうし、調査が打ち切られたというのも気になる。
マニトーアの警察もすべてが万能ではないものの、未解決事件はある一定の期間が経たない限り捜査は打ち切られない。トニアは弁護士であるダーチャからそういった事情を聞いたことがあった。
だから、警察官たちは探偵なりなんなり、あらゆる手段を使って捜査を続けると。多忙で、なかなかに酷な仕事だと言っていたことが印象的だった。
トニアは唇を内側に巻き込み、鼓動が震えているのをどうにか抑えようとした。もしこれがミハウの父親だったら。
彼が父親の行方についてどこまでのケースを描いているのかは分からない。
けれど、十年も前のこと。もちろん最悪のケースも数えきれないほど浮かんできたことだろう。どんな事実だろうと、ミハウは涼しい顔を張り付けて受け入れる振りをするに違いない。
張り裂けそうな胸を抑え、トニアは新聞から顔を上げる。
この結末は、もう決まりきったものなのだろうか。過去を変えることはできない。そんなことは嫌というほど理解してきた。ソグラツィオに来てからは特に、”過去”という偉大なる存在に何度もつまずきそうになった。
持ってきたメモに記事の要約を書き記し、トニアは握っていたペンをそっと机に置く。
例え悲しい結末だろうとも、せめて真実は知っておかなければ。
トニアは物語の結末を手に入れた時、それを彼に教えるのかはまだ決めかねている。ただ、一つだけ揺るがない彼女の覚悟は、その場から伸びた逃げ道には決して目を向けようとはしなかった。
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